句評-五月号作品より

         石川 聡選

不知火とデコポンおなじなんて犯人わかるわけないわよね
                      大川 崇譜

 同じ品種だなんて?わかるわけない、の文脈の真ん中に突然「犯人」。どう読む? 例えば九州の豪華列車ななつ星。S車両に不知火氏、D車両はデコポン氏。犯人として浮かぶが崩れないアリバイ。ところが実は両氏が同一人物と判明。アリバイは崩れ殺人犯とわかる。蜜柑の品種の話が「犯人」一語で事件性を帯び、浅見光彦的なミステリー感へ。劇的な構成だ。句の奥行きや面白さも倍増。口語による、驚きの瑞々しい響きも計算ずく。

花の雨ふたりふかく傘をさす   平林 吉明

 花、雨、傘、さすのA母音の韻揃え、ふたり、ふかくのU母音の韻揃えで句に韻律の背骨が。花の雨、ふたり、傘をさすは全て実景部分。「ふかく」のみ作者の感性が強く出る語。例えば浅く、低く、短く、近くなど実景の表現を変えられる部分だからだ。「ふかく」は情緒と韻律両面で考え抜かれた語の斡旋なのがわかる。

石の穏やかな部分に座る      無 一

 平らな、丸い、なら普通だが「穏やかな」にハッとさせられる。石に穏やかな部分(あるいは表情)があるという発見に撃たれるのだ。眼が効いた短律である。

躑躅突き進む兵士のごとく 吉川 通子

隣国ロシアは戦争し、中国はアジア諸国を併呑・支配しようとしている。日本は防衛の軍拡へ傾いている。作者は四角く刈られた垣根から一糸乱れず咲く躑躅に、軍靴の不穏さを見ている。鋭敏な句である。

春ってちょっと背骨の隙間広がる 若木 はるか
      

「背骨の隙間広がる」はよく持ってきたなと思う。春の うきあがるような高揚をと喜びにぴったりだ。「ってちょっと」の促音便を重ねた口語も前奏としてうまく響いている。

ほら風が散る花びらひかりの湖へ      伊藤 三枝

「ほら風が散る」→風が様々な方向へ散って花びらを湖へ運んでいる。「ほら風が」で切れる→散る花びらをひかりの湖へ運ぶ。風向きが一方向的印象に。切り方で読みが変わる。いずれにせよ光と風と花びらの景が綺麗。

小さな恋が回るコーヒーカップの甘さひかえめ 岩渕 幸弘

 小さな恋、コーヒーカップ(喫茶店の恋人のカップ、又は遊園地の遊具)でもう十分糖度が高い語や場面。結句で「甘さ控えめ」と糖分調整する点、今の世相や世代を巧みに映した現実感がある。蟻句、傷口句にも同様に切迫感(ディストピア感)があり、句の技巧も冴えている。とても注目している作家の一人だ。

白線を踏んで車が走つてる     空 心 菜

 普通は白線と中央線の間を走るものだ。掲句の車は白線を踏んだままなのだ。ここに、捉えた事象への鋭く繊細な神経への障りと危機感が露出している。今の日本の政治経済状況は、ハンドルを切ることもままならず白線を踏んだままアクセルを踏むようなものかもしれない。掲句からそのことを痛感させられる。

芽吹きの山に髪ざしつけた山桜 小藪 幸子

 山桜の花びらは散り、赤い蕊だけがまるでかんざしのように残っている。芽吹きの山だから周りは様々な木々の若葉が萌え始めている。蕊を髪ざしと言い取った見立てが掲句の詩情を立ち上げている。「山に」とあるので、「山桜」といわず桜だけでもよい気がするが「髪ざしつけた山桜」七五の韻律感も捨てがたく、句の質にさほどの障りを感じない。


            

                                                                

               森 命選

車窓の玉島菜の花畑正して手をあわせ   清水 伸子

東京へ向かう新幹線が倉敷に近くなる。玉島には一碧楼師、たづ子夫人、檀先生、梨枝先生の墓がたっている。作者は旅を計画した時より玉島に向かって手をあわせるのは決めていた事。海紅同人ならではの一句。

 時あたかも四月、花韮忌である。車窓には作者が供えたかの如く菜の花畑が広がっている。句材も揃い美しい一句に仕上がっています。

夜ごはん終わる二人に静かな隔たり 平林 吉明

「夜ごはん終わる二人」とは夫婦の他にないと思われる。「静かな隔たり」が句を成している。句というものの性格上、答を言ってしまわない。この所に動の句、静の句とが生まれ作者と読み手に絆を作ってくれる。何げない夕食と「隔たり」という取り合わせが自然で見事な仕上がりと思われる。

石の穏やかな部分に座る    無 一

 誰もが石に座ろうとすれば、穏やかな部分を見つけるであろう。同時に人生においても将来設計はそこにある。若い時には冒険を試みることもあるのだが、老の世界に入れば「穏やかな部分に座る」のは正しい選択であると言えよう。短律でよかった句。

青空に自由に描く八重の桜のさくら色   吉川 通子

「八重の桜のさくら色」この表現の自由闊達さが力強さを産み出している。少しくどいくらいのこの表現が空の青と桜色を濃くして、作者がこう詠まなければならないという満足感を伝えてくれる。一つ気になるのは後フレーズが見事なまでの仕上がりで「自由」が重なってしまうと思えるのである。

春ってちょっと背骨の隙間広がる          若木 はるか

 よく考えられた表現です。縮こまっていた体が気温の上昇と春の気配を感じることによりほぐれてくる。確かに背骨の隙間は広がり、背伸びをすればなおさらである。それを思って読むと、「春って」「ちょっと」と軽く詠んだのがとても生きてくる。バランスの良い句です。

よこ糸が海鳴りだった麻のれん  石川 聡

 織物のたて糸とよこ糸を心情にして詠んだものは目にしたことがあるが「海鳴りだった」とは意表をつく表現。しかも飲み屋の麻のれんとくればなるほど気持ち良い句。
海なし県の私にしてみれば綺麗な光景を描いてしまう。春の夕暮れ海鳴りを聴き、潜る暖簾もまたオツの一言。

双子孫娘どちらも袴姿お似合いおめでとう     上塚 功子

 この句読んで、さかえ師の「草の花二」を思った。ひなたさんとほのかさんのお二人で「草の花二」の表紙裏は、お二人が幼稚園児の時に画いた水彩画であった。
  師とはお会いする事ができなかったが師の句、文は好きであった。いただいた明太子の思い出とお便りは私の中に残っている。

ミモザアカシヤって本名モシャモシャ黄色     田中 耕司

 海紅句も変化している。その中でも常に先頭に立ち新しい句の型を打ち出してきた作者。植物には真剣に取り組んでこられた。花は写真でなく自分の目で見たものでなければの信念どおりこの句を詠まれた。ミモザの花の終わりは確かにこのとおり。「モシャモシャ」と表現した作者に次世代を感じた。

芽吹きの山に髪ざし付けた山桜         小籔 幸子

 多くの人が集まって愛でるのも桜なら、少し遅れて山の緑の中に知らず知らずに咲いている山桜。咲いて初めてその存在を知られ、散るとまた忘れられてしまう。だからこそ際だって美しい。山の髪ざしと詠んだ作者の詩心は見事。

咲いて撮って散るを見ただけの春        湯原 幸三

 桜の句なのに何処か寂しい気がする。この句で華やかに見えるプロのカメラマンの気持ちが垣間見える思いだ。上野のパンダ出産の折りもカメラマンは大変だったと聞いた。だからこそこの句は重い。桜も色々なら、見る人も色々。桜はまだまだ詠む余地がいっぱい

             若木はるか選

躑躅突き進む兵士のごとく           吉川 通子

「突き進む兵士」の喩えが見事です。刈り込まれ揃って咲く躑躅は、軍団の兵士のようだと言われれば、たしかにそうだという納得感がありますね。晴れた青空のもとで、塊で咲く躑躅の勢いや生命力がくっきりとした輪郭をもって迫ってきます。「兵士」から強い意志や数をたのむ昂揚感も感じられます。今年の躑躅句の一番はこれで決まり!負けた!と思いました。

どうだんの白の鳴りやまない          石川 聡

 たくさんの花が咲くどうだんの垣根がずっと続いている光景を思い浮かべました。何と言っても「鳴りやまない」が秀逸。実際には鳴っていない音が聞こえてくるようです。どうだんの花は白くて小さなベル型。花の形から音を想像し、音を比喩として用いることは、なかなかできるものではないと思います。どういう音かは限定されていません。読者に委ねられています。それでも作者の幻聴と感動はストレートに伝わってくるように思います。幻の光景と音が視界いっぱいに広がり、きゅっと切なくなる句です。

!いっぱいつけた春到来            安達千栄子

「!」は形からして蕾でしょうか。あるいは新芽、花びらとも考えられますね。具体的に花の名などあった方がわかりやすく効果的だったかもしれません。
 それにしても「!」という記号をそのままカタチを表すものとして使う方法はとてもチャレンジングで刺激的です!なかなか難しいし、そうそう簡単に思いつくものでもありませんが、ピタッとはまると驚きが生まれます。

 記憶に新しいところで該当句を挙げてみます。

。中秋の 、満足。      大迫秀雪(令和三年十一月号)

 ここでは最初の「。」を空にある月として扱っています。今までになかった表現です。次の「、」と「。」は私には涙のように見えます。一粒するりと頬を流れ落ちて、足もとにぽたりと丸いしみを作ったように。

鎖骨の窪み≒水たまり        石川 聡(四月俳三昧)

「≒」は横にすると鎖骨に水滴がたまっていると見ることもできます(発表はネット上ですので横書きでした)。やや苦しいかな?「≒」はニアリーイコールと読むとリズムが良いという評がありました。どう読むのか、縦書きか横書きか、水たまりはもったいないのでは、など、さまざまな意見が飛び交いましたが、記号を使いこなそうというチャレンジであることは確かです。こういったチャレンジは自由律俳句の地平を広げるものであると思います。

この方法はまだまだ開発の余地が残されています。やったもん勝ちです! 皆さんぜひ新しい記号の使い道を探してください!

重き胃に何百もの蝶眠る           松田 慶一

 胃に眠る何百もの蝶、というイメージが不思議で新鮮で、ぞわぞわっとします。蝶を起こさないようにそろそろと歩くのでしょうか?食べるのはどうしている?蝶のために蜜を飲んだりするのかしら?実際には胃痛を抱えているのかな?それとも何かとびきり緊張するできごとや、気の重くなる事情があるとか?
「重き」は言わない方がいいようにも思いますが、それにしても想像がどんどん広がってしまう、怖ろしくて楽しい句と思いました。胃痛、お大事に。

どこにいても異物              無    一

 怒りと悲しみと諦念がこもった句と感じました。
 異物とはちょっと違うかもしれませんが、どこにいても異邦人だなあという感慨は持っていたので、ドキッとしました。少しだけわかりますと言ってしまってもいいでしょうか?私の場合は転校だったり、親の職業が特殊だったり、また自分の考えをまっすぐ言うのも得意ではなかったのもそんなふうに思う要因だったのでしょう。

 他の人々との差異ばかりが気になってしまうこと、どこに行っても本当に溶け込める感じを持てないこと、そういう全てをつい分析してしまうこと。自分は違う、と思いつつ言い出せない場合があること。同調圧力の強い日本の社会の中で、居心地の悪さを感じたり、居心地が悪くなるのを怖れて言わないで済ませたりすることがかなりあったなあと思います。
 今は違っていていいと思うようにしていますし、違いから生まれるものに期待を持ちたいと思っています。