新春譜

新年号恒例の「新春譜」です。題材自由、海紅同人ならば誰でも投稿できます。各地の出来事をお楽しみください。今回が今年度の第九回目です。

  漱石先生と猷禅さん    岐 阜    森    命
 昨年は夏目漱石没後百年の節目であった。また今年も漱石について色々な催しが予定されている。
 以前、大須賀乙宇の墓を見るため、社主に雑司ヶ谷霊園に連れて行ってもらった時、地下鉄の駅を出た所で手にしたシティガイドが、私に小説家・俳人としての漱石より、その幼少期に驚きをもたらしたのであった。
 漱石は三歳の時煩った疱瘡がもとで右の頬にあばたがあった。そのため鏡に対して特別な感覚を持っていたと言う。あのカイゼル髪も毎朝入念に手入れした。集合写真の多くは斜め右を向いている。そして肖像写真は必ず修整させていた。
 明治二十九年、熊本五高の講師となった年の六月、妻に迎えたのが(中根)鏡子と言う名であったのも不思議な縁である。
 幼少より不遇であった漱石が子規と知り合い、人生に光明を見つけた頃である。
 その漱石がこの年九月初め、新婚の妻鏡子を伴い、鏡子の叔父・中根与吉を訪ね、一週間ほど九州北部を旅行した。福岡・大宰府・
二日市・久留米・船小屋などを回った。
 この時、久留米の臨済宗妙心寺派の江南山梅林寺で
  碧厳を提唱す山内(やま)の夜の長き
の句を作り、正岡子規に送っている。漱石はこの日、梅林寺住職東海猷禅玄達老師に「碧巌録」の提唱を受け一夜を過したのである。この事は、旅の予定には全く入っていなかった。猷禅五十三才、漱石二十九歳の時である。
 猷禅と言う老師は、平成四年新春譜「猷禅さんと子供角力」に書いた和尚さんである。
 天保十二年四月八日、美濃国方県群洞野村の大谷泰助の三男として生まれ、喜永五年、十一歳で美濃国尾崎山惠利寺の礼源和尚について出家得度。明治十一年、三十七歳の時、三河国佐脇の長松寺で寛州老師のもとで大悟徹底。
 妙心寺管長無学和尚の推挙を受け明治十二年、三十八歳で久留米梅林寺第十三世として晋山式を挙げた。当時の梅林寺は明治政府の廃仏棄釈の影響で荒廃しており、雨の日は本堂の中を傘をさして歩いたと言う。猷禅は寺の復興に尽くし、僧堂も再建された。
 明治三十八年、六十四歳にして妙心寺派管長に就任。多くの高僧を育てた。大正六年五月一日、梅林寺にて愛弟子竹田黙雷(後建仁寺管長)に後を託し、七十六歳にて遷化された。
 さて話は戻り、漱石は大正五年八月、かねてより交遊のあった下関の永福寺にいた青年僧鬼村元城(きむらげんじょう)に「あなたは久留米の梅林寺の猷禅さんを知りませんか。あの人は墨梅と書がうまいと聞きました。描いて貰はうと思ふがツテがありませんので一寸伺ふのです」と、猷禅の書を所望した。鬼村は八方手をつくすが、漱石のもとにそれが届く事はなかった。その後、漱石は名古屋に来ていた鬼村に「猷禅さんの懸物に就いて御心配は恐れ入ります。そんなに骨を折って頂くとこっちが恐縮するから好い加減でよろしう御座います」と尽力に感謝している。その礼ではあるまいが、鬼村は同じ寺の富沢敬道と共に東京の漱石宅に一週間ほど世話になって帰った。
 猷禅は若い時から絵を描くのが好きで、「布教の為に絵筆を取っていた(「三生録」より)」くらいであり、その書画は実に多いのであるが、これには縁がつながらなかったようだ。
 ちなみに昨年五月一日付で、梅林寺より百二十九枚を集めた「百年遠諱記念・三生軒遺墨帖」が発行された。
 また、梅林寺の記録「日単」(にったん)には夏目金之助・漱石の名は残っていない。
 晩年、中央公論の編集者だった滝田樗雲が、毎週のように紙を持参し漱石にねだって書かせたと言う「禅林句集」にある四句、
  始随芳草去 又逐落花回
  風狂蛍堕草 雨驟鵲驚枝
  白鷺沙汀立 蘆花相對開
  夜静渓聲近 庭寒月色深
は、若き日に会った猷禅や鎌倉の釈宗演の影響が少なからずあったと思われる。尚この四枚は、びょうぶ二枚折一双で、現在は二松学舎大に有り、今年秋、初公開される予定である。