万華鏡Ⅲ

鬼貫というひと その2    中塚 唯人

【鬼貫伝】

 鬼貫は酒造業・油屋の三男坊で、末の 息子に生まれたが、長兄は早世したので実際は次男坊だった。家業の酒屋は兄が継ぎ、鬼貫は気ままに道楽息子として俳諧に夢中になった。

鬼貫の名字の上島の読みは出自からは「かみじま」であるが、通常「うえしま」または「うえじま」と呼称される。まあこのへんは「おにつら」が読めればよろしいのでは。は治房、通称を輿三兵衛、あるいは三郎兵衛、惣右衛門、惣兵衛という。

槿花翁(きんかおう)、馬楽堂(ばらくどう)、囉々哩(ららり)、犬居士(いぬこじ)、仏兄(さとえ)等(とう)の諸号(しょごう)もある。武士として出仕していた時代は藤原宗邇(ふじわらむねちか)と名乗り、幼名は竹松。長じて利左衛門宗邇となった。後には藤九郎と改め、さらに後には半蔵と理由は解らぬが色々名乗っていたようだ。

 鬼貫には芭蕉への対抗意識が強く表れており、この俳号は先に述べた芭蕉の俳諧感を強く意識したもので、鬼貫も同じよう紀貫之(きのつらゆき)に対抗しているのだ。貫之はいわば正道をまっしぐらにすすむ詩歌の王者だ。それに対する鬼貫は、世間から観れば正統から逸脱した亡者のようなものだ。つまり貫之は雅の世界を堂々と歩む「花の貫之」であり、それに対して鬼貫は花から一番遠い俗の権化である「鬼の貫之」だ。ともかくもこの時代は、紀貫之や「古今和歌集」を抜きにして詩歌を語ることは出来ない時代だった。「鬼の貫之」を持ってして「花の貫之」にまっこうから、大胆にも挑戦状を叩きつけたのが鬼貫の名前の由来なのだ。

 坪内稔典氏の『上島鬼貫(神戸新聞総合出版センター)』から引用させてもらうと、青年時代の鬼貫はもっぱら風流の人で、その次の中年期に武士になり、そして晩年は市井の風流人になったようで、鬼貫の生涯を三期に分けて考えている。

 青年期 貞享元年(一六八四)年二十四歳まで。伊丹の 若者たちと俳諧に熱中した。

 中年期 貞享二年から享保二(一七一七)年まで。二十 五歳から五十七歳にあたり、伊丹を離れ、武士として
生きようとした。

 晩年期 享保三年から七十八歳で亡くなる元文三(一七 三八)年まで。享保三年には俳句観をまとめた独(ひとり)ごと』を刊行し、続いて『藤原宗邇伝』、『仏兄七久万』などをまとめ、この時期に自分の生涯を自分で整理しようとした。

 鬼貫は八歳の時から句を作り始めたが、十二歳の時に 俳諧師維舟(いしゅう)と言う人に句をみてもらい、長点、つまりは 最高評価を受けた。 その句は

一声も七文字は郭公(ほととぎす)

 鳥のホトトギスの鳴き声は、「テッペンカケタカ」と聞こえるそうである。してみるとこの鳴き声、たしかに文字数が七を越えている。つまりはこの句は謎々であり「一声も七文字はあり」は? の問いに「ホトトギスはテッペンカケタカ!」だとの答えだ。鬼貫の時代には、このような謎々とか見立てという言葉遊びが流行ったのだ。

 もともと一六世紀から俳諧は連歌師の間で、連歌の会の余興としてもてあそんでいたが、やがて、専門の俳諧師が現れるようになる。
 江戸時代の初めにはまずは京都で松永貞徳を中心に流行した。その一派を貞門と呼び、俳諧史では貞門俳諧と呼ばれている。貞德は和歌や、連歌などの大家で、江戸時代初期の大文化人であった。彼は当初、和歌に入門する前段階として俳諧を勧めた。なにしろ和歌を詠むには『古今和歌集』や『源氏物語』のような知識が必要だ。つまりは、和歌において使用してよい、何度も登場するみやびな言葉(歌語)が決まっており、それを学ぶためには先のような本を読まなくてはいけないわけだ。つまり和歌はそう簡単に学問の素養のない庶民が急に詠むのには敷居が高いのだ。そこで貞德はまず和歌を詠む前段階として俳諧を勧めたのであった。貞德によると、俳諧(はいかい)俳言(はいごん)を用いた詩歌であった。俳言とは歌語、つまりは和歌では用いない言葉、つまりは俗語、縁語、掛詞流行語(はやりことば)などで、庶民の得意な日用語であるから、それで作ることは容易だ。貞徳は初め、俳諧を和歌や連歌に進むための一段階とする考え方を示していたが、俳諧を作ることで詩歌になれ、次の段階で和歌に進めばいいというわけだ。                                                つづく