吉川金次句集

 吉川金次句集全20巻
(この句集では繰り返しに「〱」が多く使われていますが、横書きでは表示できないので今回はそのまま表示してみます)

【最終回】
二月号まで連載した金次伝が尻切れトンボのように終結しましたので、第二句集「可和波勢」の序文と金次さんの後書きを掲載して新たに最終回といたします。

  序  文              中塚 一碧樓

  凍雲あり顔をあげ枯野をゆく      金 次

 さうだ 顔をあげろ顔をあげて力強く元気で行かう、今は首をうなだれてうろうろしてゐる場合ではない。皆んなで胸を張って堂々と行くべきである。
 空に見ゆるものは寒々とした雲のそればかりであり地の草は一やうに枯れ果ててゐる一いろである。この天とさうしてこの地と、僕たち実に堪え難いさみしさではあるが、今や僕たち敢然と顔をあげて行くべきである。
 一句によって作者の内に張ってゐる気魄を見て欣ばしく又頼もしくも思ふ、同時に皆んなでこの意気でありたく切に希ふ処である。
―指針を計す―

      〇
川はぜの小さきを愛づ若い同志のごとく  金 次

 小さい川はぜは、その形はあまりいい方とは云へないが、思ひの外に活発であり多少おかしみを持ってゐて何となく親しみを持てるものである。作者がこの小さい川はぜを同志のやうに感じた事は大いに頷き得る事で、川はぜは何の粉飾も知らない素朴な感じがするのである。川はぜに親しみ川はぜを愛する作者の心持は「若い同志」で誠に鮮やかに表現されており、作者そのものの持つ心情も良く出てゐると思はれるのである。
 同じ作者の句に「綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき」というのがある、綿の花の黄に革命の歎びを云ってゐる所素晴しいと思ふのであるが「大き歓びの」と云ふ表現の仕方が却ってこの大きな歓びの気勢を弱くしてゐると思へる、この点に不満はあるが心をひかれた一句であり「革命」「革命といふ」などと詠ってゐる石川啄木にこの一句を見せたいといふやうな気持がするのであった。                                      ―句評(絶筆)―

  あとがき              吉川 金次
 愛児を失った悲しみの余り「せきれい集」を出版してから十余年たった。戦争中過労の為発病した内耳障害は不治となって、寸刻も休みなしに私を苛んだ。其為勇躍して参加した共産党の運動も断念するを止むなきにいたった。

 生活に疲れ果て、暴風のような耳鳴りに虚無な絶望感に襲われた。そうした時にいつも温かく激励し援助してくれたのは海紅の友達だった。

 戦争中私たち世代の大多数がそうであったように、私も野良犬のような気持に追い込まれた。戦後、はじめて句を作った時、一碧楼先生は「今こそ顔をあげてゆくべきである」と励ましてくれた。それからは伏し目であるいたことはない。それがせめての恩師への答えであると思っている。

 今私は、小さな峠に立った気持だ、前途には畳々とした山脈を望んでいる。

 第二句集に私の画像を描いてくれた青起先生もすでに亡い。

 句集をまとめるに当たって、平安堂さん後規さん騾子君の献身的な協力があった。叉口語俳句の市川一男さんが親切な印刷屋の福田さんを紹介して下さったのも、私にとって大きな喜びだ.私はこれらの人々に大声で「有難う」とお礼を言わして貰う。
  一九五八年 三月二十五日

参考文献

 句集「せきれい」「可和波勢(かわはぜ)」
 大著「氏家の俳句史」 「のこぎり一代上・下」(農文協)
 「鋸を打つ」(舷燈社)
            完

【第1回】        中塚 唯人
「海紅文庫」第4弾として、「吉川金次句集」を電子書籍化すべく鋭意編纂中である。現在ほぼ完成を見たが、検討事項も多くあり修正中のところ、私の体調の関係でストップしているところである。
 そこで金次と一碧楼の戦時中の交遊部分は、俳句の師である中塚一碧楼は吉川金次を才能をことのほか買い、愛弟子として特に目をかけたが二人の交友は非常に興味深いものがあり、その部分を抜粋して今月より何回かに分けて、本誌で先取りし、掲載してみる。

 まずは金次氏の年譜に代わるものとして、尾崎騾子先輩の『「可和波勢」解説』(昭和三十三年)を紹介したい。次回は句について取りあげる予定。

 「可和波勢解説その1」尾崎 騾子 (海紅同人)
 畏友金次君が第二句集「かわはぜ」を刊行するにあたり、「従来句集が結社内の同人や知友の間にのみ多く配られていることは意味がない。むしろ、そんな自分の周辺よりも、今まで余り深い関心を示してくれなかった未見の人達に頒ちたい」と言っているので、未見の人の理解のたすけに句集に解説を付けることにし、僕がそれを引受けることになった。

 吉川金次は明治四十五年一月五日に生れた。栃木県の産である。鋸目立を業とする。(目立て=のこぎりの歯や、やすり・ひきうすの目などが減って鈍くなったのを鋭くすること。また、その職人)

 親代々鍛冶で、父兄と共に二十一才迄田舎で鋸を作っていた。昭和八年上京して工場に入り日給七十銭の生活に堪えられず、金五円の自転車を買って鋸の目立屋を始め、五里霧中の東京で散々街頭を彷徨した。生活と根かぎり闘つたが東京は有難いことに働きさえすれば仕事がありどうやら餓えもしなかった。」と彼自身「千住五年」と言う隨想の中で述べている。二十四才で結婚し一男三女の父であり彼の作品に現われるところから推して彼は非常な愛妻家であり、夫人又稀に見る賢婦人である。東京に十三年暮して、戦争のため昭和二十年郷里氏家町に疎開、終戦後二十四年に千住の現住所に戻った。

 学歴は高等小学を終えているだけであって、その後は、あくなき知識慾と、人間放れのした猛烈な独学とで広汎な、と言うよりは該博な学識を備えるに至った。それは独学にあり勝ちな欠陥と、独学でなければ得られない独自の煌めきをもった叡智の堆積とも言うべきものと思われる。

 作句上の知友としては義兄に「層雲」の飛南車=小山市次郎(小山智庸氏父君)があるが、句歴としては、もっぱら中塚一碧楼の晩年十数年間を師事して今日の俳句人としての礎をきづいた。一碧楼にとっても晩年の異質な「愛弟子」の一人であったことは彼の第一句集「せきれい」の小序に師愛に満ちた言葉を綴っていることでも知ることが出来る。

「この若者の句、至って素朴であり、至って剛直であって、僕は始めに此人の句に接して一つの驚異を感じ、何やら頼もしい心持にもなったのであった」と初対面の頃を述べ、「その時の句表現は無論稚拙なものであったが、此作者その後の孜々として止まざる句作修行は、新人『吉川』から遂に今日の『「金次』の大をかち得たのである」と結んでいる。

 現在金次は「海紅」における独特な作家として欠くべからざる地位を占めているが、俳壇がこうした優れた作家に注目し得ないことは俳壇自身の眼識の貧困の外の何ものでもない。               

 句集は年代により五つの小題にわかれ、それぞれのテーマともなり、作者の生活の進展をくぎる美しい断層ともなっている。

①凍雲 96句
 昭和二十年より昭和二十四年まで栃木県塩谷郡氏家町蔦地蔵堂に疎開中の作品であり、金次はこの二十年十二月には共産党に入党している。

凍雲あり顔をあげ枯野をゆく
 人間金次の峻厳な人生への再出発と見るべきであろう。金次的に生きぬいてゆくためのはげしい再出発である。

 蝗をくふかりかり喰ふ父とゐる
夕方そこにくりくり肥つた男の子と韮の花と
十月の夜海を渡つて引揚げて来た妹の足の汚れ
川鯊の小ささを愛づ若い同志のごとく

    妻病む  一句
おまへ座蒲団を敷け野びる味噌つけてたべる

綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき
 人間と人問のせっぱつまった愛情は彼の作品の精髄であり、父を愛し、妻を愛し人間を愛することから彼の生活と作品が出発する。これは言えば「人間への愛情」の詩篇であって、凍雲九六句いや彼の全作品の中を流れる清冽な響きである。或いは「憎しみ」さえ底にたたえた愛情にゆらいでいる。

②煤煙と靄 50句
 昭和二十四年八月から昭和二十六年末までの作品であり、疎開先を引き揚げて、南千住に帰り、彼は借金をして小さな家を建てる。彼の東京の一隅の毎日の労働が始まるのである。 

木の茂み傷痍の人笛を吹き太鼓をたゝく
俺らの苦悩に象が来でっぷりしたシールズが来た
夕暮れ早く子供は土間にガムを吐き出す
黙つて下駄はいて妻の子宮掻把の金借りに行く
 昭和二十四年代の東京の一隅に生きる庶民の一人が、自分の周辺をこの様な深い詩情でとらえている。これは皆が知っていて皆が忘れてしまう庶民の唄だ。

船が慓えるふかくふかく外板に船釘をうつ
秋深く洋傘直しは洋傘ひろげて足でおさえた
 打ちこまれてゆく釘が厚い船の外板にくいいってゆく、その板と釘と船の感覚をこの作者は的確に描き、洋傘直しの瞬間の動作から、深い人問の嘆きに到達しうる彼である。これは金次作品の独自と言うより俳句作品として未見の世界を開いたものである。しかし
ほつそりしたおやぢ子供三人あつて職安にゆく
のような、彼の深い詩性にじかにふれることなく生れ出た作品も含まれている。これ等はこの作者にして尚詩情以前の作品を生むことのある自由律俳句の詩的完成の困難さを物語っている。

木造船所ばたく首切るそこへひよつこり顔出す碧眼
 金次が描きたいもの、作品化したいものの激しい内容のあがきが、かえって、作品化をさまたげている。「煤煙と靄」はこうした欠陥をもっているために一層、たくましい作品の場の拡充を期待させるものがある。

◎手錠 34句
 昭和二十七年一月より六月までの、彼が共産党員として闘い、手に手錠がはめられ、彼の肉体が独房につながれた日々の記録である。
霙ふる手をもめば手錠が鳴る
何か物音す壁に背をつける屈せ
人間金次を此処で今一度凝視する気になる。彼はこうした体験の中から、更に静しつなものに到達している。
ぢしばり薄い花薄曇りのなかにあり

◎幻聴 117句
 昭和二十七年から昭和三十年七月まで。彼が耳を病む句は既に「凍雲」の中にある。 

頭蓋骨に穴あけて血をとりたい気持青葉に雨ふり
 彼のずんぐりと太い、がっちりと大きい身体や顔からは健康そのものの印象を受ける。しかし彼が頭蓋に穴を明けたい程苦しむ耳病が彼をさいなみ始めてから、かなり長い。戦争時代、列車の中で、過労のはて、一夜突然、激しい耳病の自覚症状を得たと彼が語っていた。耳鼻科の細谷不句(ふく)博士(海紅同人)の治療もついに効なく、或日は眩暈、或時は耳鳴り、或時は幻聴に悩むということである。これに堪えて、彼が積んでゆく一句一句の作品は尊く、この苦悩の中に笑顔を忘れない彼の人間のたしかさを愛さないわけにはゆかない。 

竹梯子の下だけが草青き日なり
なが雨ようようあがり臼歯が一本抜けた
稼ぎ疲れ畠の十月の茄子の花
 これはしみじみした四十五才の男の寂寥であり

秋晴巨大な機械のなかからでゝ来し美しい男
夜霧三河島都営アパートの暗い階段のぼり
堀泡立つ草むしる混血児と貧しくその母
ペンキぬる筆ペンキの缶初夏のポプラの下にて
こには金次の美しい近代的抒情の世界があり

建具屋の善さん女房不作でよれよれの十円札つまみ
舟の子の肋もみえて咲く向日葵
法華にこりおかみさんの薪割とひとつ七輪
 これ等は千佳界隈の日々の市井を写しきって余すところない彼の詩情の表白である。

「幻聴」の最後に三句
奥に幻聴あり柾木若葉がきらきら光り
耳鳴りの暴風単衣で雨の筋をみる
耳鳴りに息づまり墨で栄螺を写す気になつている
耳の苦悩が彼に墨をとらし鑿をとらして、やがて彼の生涯の仕事にもなろう面造りが始められる。

◎心を彫る 115句
昭和三十年から昭和三十三年三月まで。聴神経障害不治を言渡され、耳病の苦悩と積極的に闘うために、彼は木彫を始める。最初句会に平板な木切に彫りつけた面を持参したときは、それを眺めるだに心の痛みをおぼえた。しかし面を刻むときも金次は異質の男であろうか。今日四十数面を刻み、既に能面を手がけるところに来ている

草むら心つかれる日白い蝶ひらひらす
石垣に青い苔生え妻子を優しくす

  聴神経障害の不治を言渡されたときの彼の作品は
芦がまつ青俺の耳鳴りの過去とこれから

 そして更に
とどのつまり聾になつて耳の奥に軍歌聞へる
            ○
 あらゆる貧困のもと、あらゆる苦悩のもと、あくところを知らない素樸さ、明かるさ、頑迷さで、それ等を一つ一つ打ちくだいて生きてゆく、金次のやさしい、たくましい、ふてぶてしい人間性への魅力が、この句集の命ではなかろうか。これ程みずみずしい、これ程無骨な、これ程正真な今日の作品を並べた句集は今までどこにも生れておるまい。(昭和三十三年三月二十日)


【吉川金次伝第2回】   中塚 唯人

「河和波勢」解説(その2)     尾崎 騾子
◎手錠
三四句
昭和二十七年一月より六月までの、彼が共産党員として闘い、手に手錠がはめられ、彼の肉体が独房につながれた日々の記録である。

霙ふる手をもめば手錠が鳴る
何か物音す壁に背をつける屈せず
人間金次を此処で今一度凝視する気になる。彼はこうした体験の中から、更に静しつなものに到達している。
ぢしばり薄い花薄曇りのなかにあり

◎幻聴 117句
 昭和二十七年から昭和三十年七月まで。彼が耳を病む句は既に「凍雲」の中にある。 

頭蓋骨に穴あけて血をとりたい気持青葉に雨ふり
 彼のずんぐりと太い、がっちりと大きい身体や顔からは健康そのものの印象を受ける。しかし彼が頭蓋に穴を明けたい程苦しむ耳病が彼をさいなみ始めてから、かなり長い。戦争時代、列車の中で、過労のはて、一夜突然、激しい耳病の自覚症状を得たと彼が語っていた。耳鼻科の細谷不句(ふく)博士(海紅同人)の治療もついに効なく、或日は眩暈、或時は耳鳴り、或時は幻聴に悩むということである。これに堪えて、彼が積んでゆく一句一句の作品は尊く、この苦悩の中に笑顔を忘れない彼の人間のたしかさを愛さないわけにはゆかない。 

竹梯子の下だけが草青き日なり
なが雨ようようあがり臼歯が一本抜けた
稼ぎ疲れ畠の十月の茄子の花
 これはしみじみした四十五才の男の寂寥であり
秋晴巨大な機械のなかからでゝ来し美しい男
夜霧三河島都営アパートの暗い階段のぼり
堀泡立つ草むしる混血児と貧しくその母
ペンキぬる筆ペンキの缶初夏のポプラの下にて
ここには金次の美しい近代的抒情の世界があり
建具屋の善さん女房不作でよれよれの十円札つまみ
舟の子の肋もみえて咲く向日葵
法華にこりおかみさんの薪割とひとつ七輪
 これ等は千佳界隈の日々の市井を写しきって余すところない彼の詩情の表白である。

「幻聴」の最後に三句
奥に幻聴あり柾木若葉がきらきら光り
耳鳴りの暴風単衣で雨の筋をみる
耳鳴りに息づまり墨で栄螺を写す気になつている
 耳の苦悩が彼に墨をとらし鑿をとらして、やがて彼の生涯の仕事にもなろう面造りが始められる。

◎心を彫る 115句
 昭和三十年から昭和三十三年三月まで。聴神経障害不治を言渡され、耳病の苦悩と積極的に闘うために、彼は木彫を始める。最初句会に平板な木切に彫りつけた面を持参したときは、それを眺めるだに心の痛みをおぼえた。しかし面を刻むときも金次は異質の男であろうか。今日四十数面を刻み、既に能面を手がけるところに来ている。

幼い子供と家にひつそりおれば蕗匂ふ
草むら心つかれる日白い蝶ひらひらす
石垣に青い苔生え妻子を優しくす

 聴神経障害の不治を言渡されたときの彼の作品は
芦がまつ青俺の耳鳴りの過去とこれから

 そして更に
とどのつまり聾になつて耳の奥に軍歌聞へる
   ○
 あらゆる貧困のもと、あらゆる苦悩のもと、あくところを知らない素樸さ、明かるさ、頑迷さで、それ等を一つ一つ打ちくだいて生きてゆく、金次のやさしい、たくましい、ふてぶてしい人間性への魅力が、この句集の命ではなかろうか。これ程みずみずしい、これ程無骨な、これ程正真な今日の作品を並べた句集は今までどこにも生れておるまい。
(昭和三十三年三月二十日)


【吉川金次伝・第3回】 中塚 唯人
  先月号までの尾崎騾子先輩の「金次句集可和波勢解説」で金次さんのイメージはおおよそ掴んで頂けたと思うので、次のテーマとして、金次氏と「海紅」との話を中心に進めていきたい。

 《中塚一碧楼と『海紅』の人々・その1》
(吉川金次著「のこぎり一代」より抜粋)
 中塚一碧楼と『海紅』の人々に初めて会ったのは、昭和十年(一九三五年)三月、下谷区(現在台東区)三ノ輪の梅林寺で開かれた句会だった。梅林寺は小さな禅寺、住職は河東碧梧桐の高弟喜谷六花和尚である。句会は義兄の飛南車(小山智庸氏の父上)と懇意にしていた同じく碧梧桐の弟子である渡部嫁ヶ君が紹介してくれた。金次が故郷で雑誌『巷人』をやっているとき、句や随筆を寄稿してもらって何度か会っており、東京で友人もなく孤独に過ごしていると飛南車から聞いて、梅林寺の句会に出席したらよい、と勧めてくれたのである。

 この日の句会に集まったのは総勢十二人。主人の六花和尚に一碧楼、細谷不句、宮村釜村、福島一思ら『海紅』のお歴々が並び、金次が席に着いたとき、句を書いていた。その筆跡が実に見事だった。筆を持つのが苦手な金次はそれにまず感心してしまった。田舎の騒々しい句会とはまるで雰囲気が違った。

 やや猫背、細面の浅黒い顔。一碧楼は床の間と向かい合って座っていた。黒々とした髪をオールバックにし、太い黒縁の眼鏡をかけていた。帰り道、お寺を出たところで偶然一碧楼と並んだので、この句会の会費のことを尋ねると、「いいんですよ、これからもおいでなさい」。一碧楼は低く、温かい、口ごもるような口調で答えた。

 この夜から一碧楼は『海紅』の諸先輩の中では一番率直に話せる人になった。毎月十日の梅林寺句会にはその後十年間、ほとんど毎回出席した。

女工さん疲れた手をふとセルロイド玩具
どつしり腰をおろす木挽さんに日は廻ってゐる大きな鋸
砥面に水打てば鉋の鋼肌のにほひ
たまたま雨の休は倉庫の軒の草の伸びてゐて草のゆれてる
ふと迷つてゐる道が藪になつて来て紫陽花のまろい明るさ
秋霖暗がりの壁に肌つけて二十四の性欲
ひと押し鞴しづかに吹き火のいろ鋼に乗り切る
 「女工さん」は梅林寺の句会で初めて作ったものの一つ。筆で書き慣れていないので鉛筆で書いた。鉛筆ならば和紙よりこの方がいいだろうと原稿用紙をくれたのは隣にいた一思だった。
「木挽さん」の句は一碧楼に大変ほめられて嬉しかった。
 また「砥面」の句を一碧楼は小さな声で「鋭いな」と言い、真剣な顔でみていた。
自分の作品をこのように真剣に取り扱ってくれることが上手下手、作品の良否よりも私には楽しかった。それだからこそ高熱を出しても句会は休まなかった。句会は私の疲れた心の置きどころとなった。
「二十四の性欲」は上品な句を作っている人をびっくりさせたかも知れない。出席者から「ちょっと解らんね。なんで二十四なんだろうな」という声が出た。「なに、なんでもないんです。私は二十四なんです。二十四にもなると性欲は激しくなるものですから」と真面目に答えた。一碧楼は少し呆れたようだったが、それでも楽しそうに微笑した。

 自由律俳句雑誌『海紅』は大正四年に河東碧梧桐が創刊したものだった。大正初期、「新傾向俳句運動」の機関誌として発足した。明治末期から大正初期にかけて新傾向俳句の運動は、野原を焼き尽くすごとく広まった。
 自然主義の強い影響下にあった。金次が句会に参加した当時は、碧梧桐は『三昧』を主宰し、『海紅』は碧梧桐の弟子の中塚一碧楼が指導者だった。このほか荻原井泉水の『層雲』があり、この三誌が自由律俳句の代表的なものだった。金次が郷里にいた時は『層雲』傾倒の人と共にやっていたから作品はその影響を受けた。金次の父達が参加した獺祭吟社は新傾向の流れを汲むものと見てよい。自由律俳句も作ったがいくばくもなく、大半の人は脱落し飛南車と『かみなり社』の人々が残った。氏家では句会の進め方は「運座」で、出句者が互選して高点句から披露して批評するやり方だった。獺祭吟社時代には席代を課した。
梅林寺句会はこれらと非常に違っていた。まず出句者は白紙に何句書いても自由だ。だから四十句も出す人がいるかと思うと一句という人もいる。各自の作品を書いた紙に署名をして順繰りに回し、最後に一碧楼の前に集めて一碧楼を中心に批評して行く、というやりかただった。だから最高点などというのは存在しない。初めから素っ裸で人の前に立つような句会のやり方だった。梅林寺句会は自由律俳句の句会として古く、有名だった。また決して無駄口をきかない会で、しんとして各自の息づかいがわかるほどだった。 梅林寺の句会は厳しいが、しかし渋みのある句席で、床の間の掛け軸も蔵沢の竹の絵のような男らしいものを掛けていた。お菓子なども簡素で爽やかだった。昭和十一年(一九三六年)一月十日の句会には干し柿と蜜柑が大きなお盆に盛られていた。主人の六花和尚は九代目団十郎の顔をもっと立派な上品にしたような感じで、大寒の夜を次々と句座に座る人が挨拶するのに答礼した。ゆったりとあたりを払うような見事さであった。

 昭和十一年(一九三六年)一月十二日、金次はトクと結婚した。トクは氏家町古町の農家の娘である。友人の媒酌で平凡な見合い結婚である。簡単ながら郷里で式を挙げた。夜、金次は正座してトクに話した。「私は貧しい、これからも働いて私たちは生活を築いていきたいと思います。しかしあなたが私と暮らすのが嫌だと思うなら今すぐ帰ってもいい。また明日でも、一年後、二年後でも同じです。しかし私と別れたいと思った時は誰にもいわず、まず私に話していただきたいと思います」
 トクはうなずいて聞いた

 この年といえば二、二六事件の起きた年だ。軍部の手によって午前五時に首相と内府と総監が官邸で殺され、蔵相と前内府と侍従長が重傷を負い、東京朝日も襲われた。いよいよ軍部独裁かという時代だ。

 三月十日の句会では
雪ふり雪消える高橋宰相を想へばまざまざと白髭    一碧楼
「蔵相だったんですがね。宰相といったのが具合がいいので。構わんですかね」
「いいでしょう。以前、首相になった人ですから」
一碧楼は句のなかの言葉を決しかねる時には必ず六花和尚にまず聞いた。二人の対話に高橋蔵相への同情とここまで来てしまった国の将来に対する深い憂いを汲み、同情と憂いは金次も同じで、高橋是清という人に金次も人間的には好感を持っていたようで取ることが出来た。

叛乱を喜ぶ男をり春昼熱心に話し    金 次
金次が反乱を喜んでいるわけではない。それなのになぜこんな句を作ったかというと、職人の中には、本当に叛乱を喜んで青年将校達を英雄視している人が随分いた。その対話を句にしたのだ。その頃の政党や政治に彼らは虚無的な不信を持っていた。金次の句はつまらないような句だが、こうした大衆の直面していることを句にする人が句会にはいなかった。これは『海紅』以前からの不満で、口にはしないがずっと金次の気持の底にあったのだ。

 句会には出ていたが、金次が雑誌『海紅』を購読して出句し始めたのは、この年の秋からである。それまでの作品は義兄飛南車らが出した句集『かみなり』(同年七月刊)に発表した。故郷では同人誌『巷人』休刊後、飛南車の周囲に若い者が集まって『かみなり社』という自由律俳句結社ができていた。

『海紅』に金次の作品が初めて載ったのは昭和十二年(一九三七年)一月号で、
看板絵のさめたるもありて晩秋地上との距離
土を運びおくに土むくむくともり上り秋夕べ
林檎しなびてゐて足冷たい妻何か怒りてをり
の三句だった。三句も載るとは金次にも意外だった。

青い蜜柑が食べたい妻は頬に雀班ができた(昭和十一年十月)
 父になる日も近かった。金次は仕事先を広げることに努め、これまで行かなかった町に足を伸ばした。また鋸や鉋など大工道具の商いにも力を入れた。商品を並べる飾り台を次々と買い換え、ショーウィンドウも作った。生家の兄の作った鋸も販売した。将来は外に出ないで、家で仕事をしたい、とトクと話し合い、自分の生活を守ることに懸命になっていた。


吉川金次伝・第4回   中塚 唯人

《中塚一碧楼と『海紅』の人々・その二》

吉川金次著「のこぎり一代」より抜粋)

 年変わり妻身重足のむくみを話す(昭和十二年一月一日)
暖冬 大声をあげて俺の児が生まれた(一月六日)
 元気な女の子だった。いづみと名付けた。清澄な泉のように大きくなってくれ、と願った。
 昭和十二年七月七日(一九三七年)、中国で日中戦争の発端となる盧溝橋事件が勃発。

銀杏茂れる出征兵士やヽ老けてゐる(八月)
 盛夏、駒込のお稲荷さんの庭で見た出生兵は青い顔をしていた。『海紅』同人にも出征する人が相次いだ。
「先生、この頃は愛国心、愛国心、と日本人の専売みたいに言っていますが、どうでしょう。アメリカにも、支那にもロシアにも愛国心はあると思うのですが」
「それはそうだよ。誰だって自分の国は良いのに決まっている。日本人ばかりが特別だなんてことはないじゃろ。しかしそう思わないと都合が悪いからな」
 一碧楼も腹の底では戦争を歓迎しない一人だった。俳句雑誌の経営者として当時そんなことを言えるものではなかった、句会の帰りにこんな話になった。『海紅』にもいろんな人がいた。同人の大体の傾向は自由主義の人が多いようだが右寄りのひともいた。

 昭和十三年(一九三八年)には一碧楼の次の悼句があるが、そこに表現されている気持は戦争協力などとはまるで別世界だ。
工兵S君立とまつては去り地が凍てしをおもふ君を
  悼句
冬木の楓を前にしつかむ何もなし
 一碧楼の句に一貫して流れている孤独な哀愁と人間そのものへの温かさはどこから来るのだろう。一碧楼の作品にうたわれる人間は巷に右往左往する庶民の顔を持っている。一碧楼は生涯借家住まいの一庶民だった。一碧楼は庶民の苦しみをずっと見つめたに違いない。怒鳴りはしない。己を含めて庶民の生活の哀れさ、おかしさを好んで句にうたった。しかし戦争を賛美する気にはどうしてもなれず、ただ雑誌経営者として時々協力的な句を作った。これが一碧楼の戦争協力の作品がごく少ない理由と金次は考えた。こうして金次は一碧楼に傾倒して行くのだった。

 金次は戦争来るの不安な中にも猛烈に句作に励んだ。世田谷の海紅社(一碧楼宅)の句会、下落合に住む高橋晩甘の句会、九貫十中花の山手会、福島一思の句会、また上根岸の子規庵の句会などにも参加した。晩甘居句会は梅林寺よりも華やかな気分があり、海紅社の句会はどことなく家庭的だった。

 一碧楼はあるときの句会に、
「金次君、君は山から掘り起こした鉱石みたいなもんじゃな。これから骨を折ってかすを削り、みんなしてみがけばよくなる。今のままがいい。うまい人は『海紅』にも沢山いる。僕らが欲しいのは、ずばりとした、ずかずかものが言える人だ。そういう力のある作家になってもらいたいな」と言った。六花も不句もうなずいていた。金次もなるほどと思った、が、そのとき金次も褒められているとはまったく思わなかった。四十年も経って、先生は随分褒めてくれたんだと気がついた。

 昭和十二年(一九三七)七月七日に日中戦争(支那事変) が始まる。すでに昭和一二、三年頃には『海紅』誌上にも「日本的意欲を盛らなければ真の興国の国民詩とは言えない」というような俳論が登場していた。文学報国会ができて情報局の監視の下に雑誌を編集しなければならなくなった。
「役人などというものは句が全然わからんのじゃから始末が悪い。こういう言葉を使っちゃならんとか、時局認識が不足している。もっと士気を鼓舞するものでなければいけないとか、枝葉をつかまえては文句を言う。僕らだって時局の重大さは知っている。しかし、俳句を作るものは重大であればあるほどじっと落ち着いてものを見る目と態度が必要だと思う。誰でも彼でも血走った目になったらそれこそ国が危うい。俳句を作る者くらいはそうであっては困るのじゃ。耐えて静かにものをみる。それが大切じゃと思うんだが、さっぱりわからない」
と一碧楼は嘆いた。


【吉川金次伝・第5回】  中塚 唯人

《中塚一碧楼と『海紅』の人々・その三》
 この頃、父から鋸鍛冶の符牒を聞いて記した。ホウチョウ(鋸)、ゴト(仕事)、ハナコワシ(目立て)、フデ(炭)など、かつて鋸鍛冶が仲間同士で使っていた隠語だ。大工の符牒も集めた。これを原稿にして同人に見せたら大変興味を持って、「君今後、こういうことも多いにやるべきだ」と激励してくれた。「鋸鍛冶符牒考」と題して「海紅」に掲載された(昭和十三年一月号)。想えばこれが金次の鋸研究の第一歩だったのだ。

 昭和十四年二月二十二日(一九三九年)、長男の徹が生まれた。句会で話したら、先生からお祝いの句を贈られた。
きさらぎ子が生まれ千住大橋ずっと大きい     一碧楼

 統制で木綿などの繊維品が手に入りにくくなっていた。嬰児と二歳の子を持つ私たちには辛かった。ゴム製品も統制で自転車のタイヤとチューブは買えない。だから無理して乗ってしょっちゅうパンクさせていた。灯火管制で暗い。これが続くと気持ちも暗い。防空演習は一週間続くこともあり、これは強制的だから嬰児をおぶってでも出なければならない。「火ばたき」「防火砂」「バケツ」などを用意させられた。油脂焼夷弾は砂をかける。黄燐焼夷弾のときは水をかける、もし押し入れに落ちたら、掻き出して水または砂をかける、という話だった。演習は真面目にやらないと目をつけられるのでやったが、火ばたき(棒の先に縄をつけたもの)などで火を消せるものか、誰も自信がなかった。銭湯が蛇口を減らした。時局はいよいよ迫ってくる。日用品の泥棒が増えた。暮れも押しせまって、炭を表に置いたらほんのわずかな隙に盗まれた。子供は病気で寝ているしほとほと困った。一思が分けてくれるというので、武蔵小山まで行って貰ってきた。炭一俵でこの苦労である。
吾らが日々息づまる冬木にふれたく     金 次

 生活は厳しく辛かった。しかしそのつらい生活をうたう句会は楽しかった。あるいは生活が苦しいだけ一層句会が楽しかったのかも知れない。一碧楼、そして六花という優れた指導者がいたからだ。毎月の梅林寺句会は待ちかねるくらいだった。常連の人々はみなそうだったらしい。この頃のように熱心で清々しい句会はその後経験していない。言論思想の圧迫が日に日に激しくなり、生活苦をうたうのはまず危険思想と見なされたが、金次も人間だ。いくらなんでもうたわないではいられなかった。

 一碧楼は作品を直して発表する時は必ず葉書をくれた。一碧楼は句の内容の誇張を異常なほどに嫌う人だった。金次には初めの頃は口癖のように「上手になるな」と言った。
「君の句の強いのはいい。だが、時によると顔をそむけたくなるのがある。これはよくない。やっぱり句は強くとも、人に顔をそむけさせないようでないと困る」
金次はこの先生の言葉を人生そのものへの教えと思った。

 昭和十四年(一九三九年)九月十日の梅林寺句会は灯火管制下に行われた。暗い電灯の下での句会が常となった。
 十月二十九日、朝ひょっと『朝日新聞』の文芸欄を見ると金次の句が載っていた。先生が推薦してくれたのだ。外出から帰ると、田舎の親爺も素早く見つけ、大喜びで葉書をよこした。掲載されたのは、
 川が堤がある想ひ合歓の木に実がなつてゐる
青い空にそれは小さなれいしの実がある
などの五句だった。原稿料十五円也には驚いた。生まれて初めての原稿料だった。

【第6回】        中塚 唯人
 ある日の句会で、一碧楼は、京都あたりで俳句に対する当局の弾圧があった話をした。こんな句は手帳にしまっておくんだなとそれとなく気をつけるよう金次にも注意した。

 昭和十五年(一九四〇年)十二月に自由律俳誌が統合されて『新日本俳句』になった。自由律がいかにも自由主義を連想させるからという情報局の命令だったらしい。自由律俳句を「内在句俳句」などとも呼ぶようになった。これも戦争を有無を言わせずに実行するやりかただ。
『海紅』は時局に協力する句が少ない、と注意されたとも話したがそんな時は一碧楼も六花も嫌な顔だった。『海紅』のこれらの人々は好戦派ではもちろんない。しかし反戦主義者というほどでもなかった。時局に便乗した戦争讃美の俳句に文学的良心が反発したのだ。『海紅紀元二千六百年記念号』(昭和十五年)には、
飯をばらばらとこぼし焔口餓鬼をかんじてる 金 次

 という句を作った。焔口餓鬼というのは、餓鬼地獄の亡者で、糸のように痩せて腹をすかしている。目の前に旨そうな食物がある。手にとって食べようとすると、たちまち食物は焔になって口も喉も焼く。
 この句は南京米の配給に関係した句だった。ぼそぼそとした南京米には大人は我慢もしたが、離乳食の子供を抱えた私たちは困った。トクは母乳が足らず、配給の少々のミルクに頼っていた。重湯や粥を作るにしても南京米はまずかった。
「君、君の悪い癖だぞ。一番悪い癖だぞ。こういうことを言うのは、やめた方がいいぞ」
激しく一碧楼は言い放った。私は押し黙って頭を下げた。 

日々飯や芋のことみづ菜大株になりすぎた
けちん坊のくらしで黐の木の花咲いた
 この二句くらいなら採ってくれた。これぐらいのリアリズムは情報局に呼びつけられても何とか言い訳はできたかも知れない。しかし、焔口餓鬼の句では言い訳はつきそうにもない。句会だから気心がわかっている。まず大概のことは外部には漏れない。と言っても、不用意にちょこっとしゃべったことで、こういう句を盛んに作っている、などとなったら当時のことだからひどいことになった。
 一碧楼は弾圧を受けることなどは嫌で、それは人間だから自分の生活も可愛かったに違いない。しかしそればかりではなかったと思う。もし弾圧を正面から受けて『海紅』が解散するようになったら自由律の伝統が切れてしまう。それを一番に心配したに違いない。また手塩にかけた弟子を何もわからない者の手に渡したくもなかったのだろう。その夜もそれっきりで、後はもとの一碧楼だった。

「一碧楼元気、既にご承知とも存じますが此程、全俳壇の大同団結、日本俳句作家協会が結成されまして十二月二十一日その発表会を挙げました。之は一部(定型)二部(自由律)より成り、会長は虚子氏を推し、大政翼賛会よりの祝辞、激励の辞などあり盛会でありました(下略)」(『海紅』昭和十六年一月号)

 短歌は戦争中、ほとんど自由律は影を潜めた。俳句の方はそうではなかった。自由律という名前こそ「必然律」「内在律」と呼び、また雑誌も『層雲』『海紅』その他が統合して『新日本俳句』になったが、自由律の実質は変わらなかった。

開 戦
 昭和十六年(一九四一年)八月二十三日、男の子が元気に生まれた。一碧楼の本名直三の一字をもらって直明と名付けた。幼い児は三人となり、仕事の傍ら、食物を探すのに大いに汗をかいた。十二月六、七日には「海紅」同人と諏訪に行き、句会に出た。一碧楼を中心に諏訪の俳友たちと和やかに談笑、湖畔を散策したりして、愉快に過ごしたが、八日の朝に夜行列車で新宿に着いたら、ただならぬ気配だった。それはその日、対英米宣戦布告があり、即時開戦、真珠湾攻撃を聞いたのだ。その時金次はせめてあらん限りの努力をして妻と子を守らねばならないと思った。
 戦争は次第に悪化し、「海紅」の集まりは貴重だった。それはひとりの街頭に働く人間の生活感情をうたえるからだった。しかしそれも次第に変化して、遠慮してものを言う、自分の正しい感情ではなくて、べつな歪曲した解釈をしなければならないようになっていった。金次は窒息しそうだった。

驟雨ふり梨の実半分づゝたべわが子と妻すわり
道草青々と頭にたれ何か叫びたい
十月雨ふりつづく一つの箱を作る歪めり
藷をくふ嵐の中に身を潜めた気持ちで食ふ
秋夕仔牛がゐる母牛ぢっと青いまなこ動かさぬ(昭和十八年)

 さらに戦況は不利になって、物資はますます不足してきた。田舎へ米や野菜、卵の買い出しにしばしば行った。
 次第に金次は出句ができなくなった。一碧楼は句会だけはできるだけ出るようにと言った。

 金次にも徴用令状がきた。工場はもと時計製造の鶴巻時計店英工社の赤羽工場で、高射砲の信管を作っていた。自分の店は閉めて、まずは錬成期間ということで浦和の寮で合宿した。やがて昭和十九年(一九四四年)三月からは家から近くの赤羽の工場へ通った。工場からの賃金ではやっていけないので、家に帰ると自分の仕事をした。
旋盤に光がさす寒夜の徹夜が開ける
冬日暮れるわれ一日それとゐる旋盤を拭く(昭和十九年)

 昭和十九年(一九四四年)には田舎から母の危篤の電報が来た。急いで汽車に乗ったが着いた時には既に帰らぬ人となっていた。
野に斑雪さうしてわが母の骨をあげる(『俳句日本』創刊号)

 母の弔いをして帰京すると、間もなく末っ子の直明に血尿がでた。同人の同愛病院副院長をしている細谷不句が病院に来るよう言っててくれた。五月、直明は左の腹を五寸以上も切る大手術を受けた。腎臓がんだった。直明の入院中に強制疎開の命令が来た。金次としては、十年間苦労してようやく客もできたし、店に大工道具も並ぶようになり、東京は離れたくなかった。それでも懸命に氏家に借家を探したが、なかなか見つからず、金次は一人東京にとどまり、家族は一時妻の実家に身を寄せることにした。直明の手術のあとはまだ良く直ってはいなかったが、妻のトクは生まれて九ヶ月の次女明子を背負い、金次は直明を抱いて六月二十八日に雑踏の中を上野から汽車に乗った。

第7回                              中塚 唯人
 東京に引き返し木村という大工の家の三畳間に引っ越した。ここから工場へ通った。そこにも、近所の人が聞いてよく目立てを頼みに来た。池袋から「海紅」同人の加藤羽六も来た。羽双は渋谷の大きな中国料理店「北京亭」の主人で、家主の娘は「おじさんあんな立派な紳士知ってるの」とびっくりしていた。

 女工員が身づくろいするばらばら切粉が落ちる夕べ
 職場には女の人も多かった。なかには芸妓や女給、または妾でもしていたかと思う人もいた。だが概して真面目だった。金次は自分も含めて働く人の小さい美しさ、生活をうたった。この頃から戦争に対する深い嫌悪と反逆の気持ちが内攻して抜きがたく成長していったのである。

 田舎に疎開した妻のトクも子供四人を抱えて苦労した。五人も世話になっているのだから金次も送金をしたが、トクも気苦労が多かった。どんな小屋でもいいから移りたいと便りをしてきたので、八月、盆休みに帰郷したとき、西導寺の和尚に相談したところ、氏家駅前の蔦池地蔵尊堂なら住めるということで、早速、掃除して母子五人は地蔵堂に入った。苦しいのはお互い様だから、できるだけ生家をはじめ親戚の世話にならぬようにしたかったのだ。

 劫 火
昭和十九年十二月になると次男直明の様態が悪化した。工場から帰って妻のトクの手紙を読むと、すぐに、東武線で宇都宮まで行き、宇都宮から東北線に乗り換えた。しかし、二十六日ついに帰らぬ人となった。
命絶ゆる鶺鴒疼く冬日をとぶ      金 次

 昭和十九年(一九四四年)七月既にサイパンは落ち、十一月からは東京大空襲が始まっていた。翌三十年三月九日の夜は、風が強かった。みんな起きろ、起きろ、爆撃だぞ、と怒鳴るので飛び起きた。B29のもの凄い爆音が聞こえた。高いところへ上がってみると、足下の赤羽から王子方面は黒々としているが、浅草、深川の下町辺は火炎が渦巻いて燃えさかっている。

 工場の徴用工の仲間も次々と出征した。材料の回らない日もあって、生産はがた落ちになり、仕事は午前と午後で交替したり、また一人が一日中やると一人が遊ぶ、というような状態となった。工場にも爆弾が落ちた。火はすぐに消し止めたが、電車も止まり、電気も止まり、工場は休み。朝飯も炊けないので乾パン三袋が一日分として渡された。

 横浜の帽子屋にいたことがあると言っていた小林は真面目によく働いた。その小林がよく話しかけてくるので、文学の話、歌、俳句の話までいろいろと語り合った。あるとき小林が歌を作ったから見てくれ、と言うので、その作品を手に取ってみたら、それは道徳訓みたいなものだった。そこで私は歌とか俳句はそんなものではない。人を教えるとか説教するとかいうものではなく、まず第一に自分の言いたいこと、感じたことをうたうものだと、言った。
「じゃあ、吉川さん、明治天皇陛下の御製はどうなんですか」
 匕首でズブリ横っ腹をやられたようなものだ。私はしどろもどろになってやっと辻褄を合わせたが、小林はおそらく納得しなかっただろう。
「海紅」同人のことも心配になり、加藤羽双のところに、省線の線路づたいに池袋まで歩いて行った。避難所にいた羽双は家族共々無事だったか、渋谷の道玄坂の「北京亭」という中華料理店は往事の盛大さは二度と取り戻せなかった。
 世田谷区上馬の海紅社も訪ねた。一碧楼は眉尻を「へったれ眉」にして喜んだ。
「実は戦意昂揚の俳句を作れ、戦意昂揚の句が少ないと言われとるのだ」
「戦意昂揚の句を作って街の電柱に貼れ、と言うのですよ、金次さん」
 夫人がやりきれなさそうに口を入れた。
「そこで先生はなんと答えました」
「考えてみるとは言ったが、やる気はないな」
 お茶を飲みながら、私は工場での明治天皇御製の一件を話した。「君もか、それは困っただろう。いや、あれは困るんじゃ。あれはほんとうに、困るな。いやあ、それは困ったろう」
「先生もそんなことがあったのですか」
「うん、あった、あったよ、苦しかったな。まあ仕方がない。あれは神様が教えてくださるもんじゃから、と言っといたが、僕も困った」 一碧楼はいかにも困ったように眉を寄せて話したが、また可笑しそうに口ばたに皺を作った。私の眼鏡のつるが壊れて困った話をすると、これは使えないかと、自分の古い眼鏡のつるを探してきてくれた。

 一碧楼とはこれが最後になった。この年の十二月三十一日、一碧楼死す。その後に、私は小林に、誰にも言わないでくれと約束してから、明治天皇御製は文学としては無価値だ、とはっきり言った。言ってしまうと胸のつかえが急に取れたような、また肩の荷を下ろしたような気分になった。

 七月初め、金次は会社と交渉して、家族が疎開している氏家から赤羽まで汽車で通勤するようになった。その通勤の途中、突然、激しい耳鳴りに襲われた。過労と栄養不足がたたったのだ。それから以後金次は内耳障害に苦しむことになるのだった。
 宇都宮も爆撃されて焼け野原になった。八月十一日、艦載機ムスタングが氏家に飛んできて、駅の上空で旋回した。子供を防空壕に入れた後、私とトクは地蔵堂の中、地蔵さんの前にいた。ダダダダダ、とすさまじい掃射音がした。二人は畳に身を伏せた、機関銃の玉が一つ、地蔵の前に落ちていた。よく見ると地蔵の脇腹に白くかすめた傷痕があった。私たちからわずかに三尺くらいの距離だった。              

 昭和二十年(一九四五年)八月十五日には疎開先の氏家駅前の地蔵堂にいた。その頃耳鳴りが激しかったが、あたりが妙に静かになって、おかしい、と思ったら、戦争に負けて降伏したという。こいつは良かったと喜んだ。早速、先年「魔よけ」 だと貰っておいた神棚を引き出して堂前の石にたたきつけた。そうして足で踏み潰して火を付けて燃やしてしまった。こんな不合理なものを礼拝しないと危険だったのが口惜しかったからだ。              

第八回                           中塚 唯人

  物はないないづくしだった。食糧は乏しく、疎開者にとって、生活はますます厳しくなった。戦争中は、量は乏しく品質は悪くとも配給があったが、敗戦後、配給はばったりなくなってほとんど闇ばかりになってしまった。それでも戦争がない、という実感は、飢えても一抹の安らぎがある。焼夷弾や爆弾が身に降りかかる恐怖からは解放されたのだ。もう赤羽の徴用工場に行かなくてもよい。

 しばらく身体を休めていたら、耳鳴りは大分軽くなっていた。金次は鋸の目立て道具を持って農家を回り、目立てをして金の代わりに食糧を貰った。米、麦、藷、なんでもよかった。
凍雲あり顔をあげ枯野をゆく        金 次

 栃木県の共産党が再建されることになった。金次は日本の民主主義を実現するためには共産党再建が大切だと思い、その仕事に参加したいと思って、直ぐさま入党した。

 金次自身氏家町に生まれ育ったとはいえ、東京で暮らして十余年。町のことも近村のことも具体的なことは知らない。本は読んでいたが、政治運動なるものに頭を 突っ込んだこともない。それに金次の描く「共産党像」は既成の政党とはまったく違うものだった。それでも塩谷郡南部地区の責任者として努力したが、振り返ってみると、金次のこの仕事がうまくいったことはまるでなかった。それでも勉強にはなった。講演会開催、党員の獲得、農民組合の結成準備、そして昭和二十一年(一九四六年)の春の選挙の準備にと、体当たりで走り回った。

 昭和二十二年(一九四七年)には、町会選挙があり、金次はやむにやまれない事情で共産党の候補者となった。金次は「選挙運動は街頭演説だけにする」「絶対に金は使わない」と宣言し、五円分だけ紙を買い立候補したことを書き、貼って歩いた。結果は二十五票の獲得だった。

 敗戦の年はほとんど句を作れなかった。それでも口ずさんだ「凍雲」など数句を記して東京の中塚一碧楼(『海紅』主宰者)に手紙を出した。

 「金次様(昭和二十一年)二月十六日 一碧楼生
 拝啓 お手紙難有 御入党の事大きく頷きました。
愈々ご活躍の事祈上げます。久しぶりに貴句に接し喜ばしく、
 凍雲あり顔をあげ枯野をゆく
さうです。顔をあげて元気に、此上とも元気に願ひます。小生も顔をあげて歩きまする。
 氏家行乍残念延ばして下さい。先日一度結城へ行き、窓から汽車に乗つたりして、帰って来て草臥《くたび》れが出てこりごりしました。もっと交通がよくなる迄は自重したいと思つてをります。御了承願ひ上げます。
  句なるべく引続いて送つて下さい。小生今年六十この冬の寒さこたへましたが頑張つて梅の句などやつております。子供さんの一周忌の句拝読致したし。
冥福を祈り 合掌」

 昭和二十一年の正月、金次は腎臓癌で逝った次男直明のことをどうしても書いておきたくなった。紙がないので義兄の飛南車から印刷の排紙を貰った。一昼夜書き続けて原稿用紙三十六枚分くらいになった。書き終えるとトクを呼んで読んだ。手を取って慟哭した。

 直明の死と自分自身の新しい出発を期して、これまでの十年間の作品を纏めて句集を作ってみようと思った。義兄に相談したら、紙はあるから刷ってやるという。ではお願いします、と千円渡した。手持ちの現金すべてだった。
 句集は、直明が死んだときの一句からとって『せきれい集』と題した。一碧楼は序文を快諾してくれた。表紙は岡山県に疎開中の挿画家細木原青起に、題字は梅林寺の喜谷六花師にお願いした。『せきれい集』は序文、題字、表紙意匠とも『海紅』最高の人々の協力によって揃った。
 明けて昭和二十二年(一九四七年)元旦、一碧楼死去の知らせを受けた。大晦日の朝、なくなったという。こんなに早く逝くとは夢にも思わなかった。秋に三女が生まれたとき、お祝いの意を込めて紅の罫線の入った葉書を貰ったのが最後だった。絶筆の句は前年十二月十五日の海紅社句会のものだった。

 病めば蒲団のそと冬海の青きを覚え
 魴鮄一ぴきの顔と向きあひてまとも
 後で聞いたのだが胃がんだったような話だった。
 復刊『海紅』の第一号は昭和二十二年一月三十一日だ。一碧楼はついに復刊号を手にすることはなく世を去った。私の句集には喜んで長い序を書いて下さったが、それをお目にかけることが出来ず、とうとう最後の一年間お目にかかれなかったのが実に残念だった。
 この序文が最後の句評とともに、恩師の最後の遺言だ、と金次は思った。

 二月十二日(一九四七年)義兄の飛南車が結核で亡くなった。氏家では俳句の愛好者が江戸時代末期から切れ間なく続いており、明治中期以降には子規ー碧梧桐の流れを汲む革新派がいつも活動していた。『生活俳句』を氏家で初めて作ったのは小山飛南車だった。窮乏の生活を直視して作品化した最初の人である。飛南車の死に遭って、金次はこの伝統を正しく継承して発展させることが大切だと痛感した。そして新しい俳句運動を組織してゆく気持ちになった。そして氏家を中心にした俳誌の創刊に力を注いだ。
 金次の耳鳴りはさらに激しくなり、仕事先で気持ちが悪くなり横になることもあった。仕事も満足に出来ず、やりかけた党の仕事にしても、文化関係の仕事にしろ、とてもできない。実に言いようもない苦しい気持ちだった。病院にも通い、鍼や灸にもかかったが、耳鳴りは治らなかった。その後、難聴に苦しみ話も出来ない、聞くのも駄目。あまり難しい本もまずいので、自然に絵や彫刻などに興味を持つようになった。

 昭和二十三年(一九四八年)の暮れに急に思い立ち、東京の南千住に十五坪の土地を借り、自分たちの家を建て転居した。
 昭和二十七年一月六日(一九五二年)には、「詩材より見た海紅俳句」の原稿を書き、そこで雑誌に発表された作品を分析して、海紅俳句には、現実離れした「花鳥諷詠」的な作品がいかに多いかを指摘、労働と生活の重視を強調した。『海紅』の俳句は、季題はないが季感を重視してた。そのため当時の作品には、季題に社会現象を取り入れている定型俳句以上に古い「花鳥諷詠」趣味が強かった。
 この論文は『海紅』三、四月合併号と五月号に掲載された。
 同年一月三十日には「一碧楼精神とは何ぞや」を書く。二十四枚。不満足ではあるが出来た。
 一碧楼没後、海紅同人の間では一碧楼を神格化する傾向が強かった。これは師を誤る。一碧楼の仕事を歴史的に検討してこれからの進路を見出すべきだ、と主張した。

【第9回】

 一九五二年三月八日、書きものをしていたときに、党員と外語大の学生が来て、今からビラ撒きだというので、よしきたと外に出た。もちろん非合法のものだったので、既に手が回っていて南千住署に連行された。取り調べには一切黙秘したのでたちまち留置場にぶち込まれてしまった。取り調べで、金次と一緒に捕まった大学生があまりにも激しく抵抗するので、刑事が三人がかりで締め上げた。「よせ」と怒鳴って、金次は一人の刑事に飛びかかり、そいつの首を力任せに壁に押しつけた。こいつはとんでもない、と大勢で掛かってきて後ろ手に手錠をはめられた。
薄日さし寒い留置場の男共の顔をてらし    金 次
まぢかに鶏の声す留置場の窓が夜明けだ     〃
外は霙だ毒々し刑事ものやわらかにもの言うとき 〃

 ビラ撒きで公職選挙法違反。金次のようなのは警察で彼らに降参すれば即日釈放となるが、こちらがあまりにも頑張ったので、小菅の東京拘置所まで行く羽目になったのだ。独房十二日目の三月二十二日夕、金次は不起訴で釈放された。

 一九五二年五月一日のメーデーは「血のメーデー」になった。金次は上野公園から出発したデモ隊に加わって皇居前広場に向かった。広場に近づくと、警官隊が何かを叫ぶと同時に襲いかかってきた。金次は耳元に電光のような刺激を感じた。周りを見ると後頭部付近から出血し数人倒れていた。金次は倒れていた者が持っていたプラカードの柄を持って、警察官に突進した。銃声が聞こえ、たちまち大乱闘になった。デモ隊は後退し、また進んだ。はるか前方に黒煙が上がった。自動車に火を付けたのだ。
 金次はこれまでと思って、身なりの乱れを直しその場を抜け、国電に乗った。家へ帰るとトクが後から言った。耳元に三ヵ所ほど痣を見つけたのだ。
「シャツも取りかえた方がいいわ」
 金次はシャツを替え目立ての仕事を始めた。警官がしきりに靴音を立てて家の回りを歩いていた。

 小菅刑務所から帰ってから金次はよく本を読んだ。俳句をやるからといって、俳句関係の本ばかりを読むようなことはなかった。短歌の古典や、西鶴本、自然科学の本も読んだ。また美術関係にも興味を持って、「興福寺展」「東大寺名宝展」「法隆寺展」などに行った。出席した句会は年間二十三回。「海紅」だけでなく、「口語俳句」「新俳人」関係の句会にも出席して積極的に学ぶことにつとめた。
 そしてリアリズム俳句を提唱した。人間にとって各自の生活はかけがえのない唯一のものだ。似たような生活はあっても同じ生活はない。そうして人は共通した言語を持って社会生活をしているのだから、甲の体験の作品は乙の共感を得ることが出来る。様々な人が、その多様な生活を見つめて作品化することが大切なのではないか。一碧楼先生はかつて金次に「人はみんな顔かたちが違うように、皆一人一人の言葉を持っている。その自分の言葉で句は作るべきだ」と言ったが、これは生活を見つめる句作態度によって初めて本当のものになるんじゃないだろうか。個性は孤島の一人ぼっちの人間では問題にならない。社会の多様性の中で初めて考えられてくる。だから作品に行き詰まった「海紅」も、生活を容赦なしに見つめて追求する句作態度で作品の多様性を取り戻すことも出来るし、先生の言った個性重視も発展させることが出来ると、このように述べた。この意見はかなりの人が耳を傾けてくれた。面白いことに碧梧桐以来の長老が案外に好意的だった。

 また金次はこうも言った。みな真実を求めるとか、真実が大切だ、とか言う。私もそう思う。しかし作品見ると大変お体裁のいいものばかりのようだ。もっとも「私はいつもそうだ」というならまことに結構だが、私はそれを疑う。私はいたって悟らない男だからかも知れないが、面白くないときは怒鳴りたくなる。損をすれば腹が立つ。それは俳人らしくないと言って、月や花などを眺めてはいられない。よく、誰が見たって花は美しい、なんて言うが、美しいという感じがしないときだってある。花が美しいと感じたときには句になるが、そうでないときは句にならないか これは深く考えねばならない。私は、花を見て美しく感じなかったときの気持ちも立派な句になると思う。成功するかどうかわからないがやってみたい、と言った。

 それでも耳鳴りは激しい。ある時は草津節、おけさがする。東大の耳鼻科に行くが、全然処置なし、と宣告される。築地の診療所を紹介して貰うが、ここでも「治らない」と言われた。
 能楽堂へ行く。耳は聞こえないが、金次は舞台を穴が空くほど見つめていた。金次は能の舞台から自分の生きる道を何か学び取ろうとした。 

 一九五二、五三、五四年と、年を追って金次の読書力は衰えた。その代わりに美術展を見る回数が増えた。優れた美術品を見ると理屈抜きに面白くて気持ちがいい。力づけられる。内耳障害が次第に悪化して暗い淵に臨むような気持ちの時も、よい彫刻、陶器、絵画を見ていると気持ちが落ち着いた。芸術品を見ることはまた読書にも影響する。読んだものの理解にとても役立つ。読書もまた芸術品観賞と理解に役立ち、結局は無駄なことはないようだ。
 特に一九五五年は苦しくて船底を歩む気持ちだった。しかし、この年の末には金次は「鋸の研究」と「彫面」の第一歩を踏み出した。

【第十回】     

 昭和三十年の暮れに、なにげなく始めた木彫は、次第に金次の生活の中で大きな部分を占めるようになった。仕事以外の金次の「楽しみ」は、初め読書と句作が中心だったが、耳鳴りの悪化で美術鑑賞へと移り、習字や戯画を経て、木を彫ることに到った。また狂言の鑑賞が加わった。初めに彫った朴の板は日立の工場で貰ってきた廃材のようだ。彫刻刀は、使えなくなった刃ヤスリを焼き戻して改造した。

 句会に笑ってもらうつもりで持参した。初めは呆れたり可哀想だと思ったらしいが何回かやるうちに空気が変化した。「大いにやってみるがいい」と、幼稚とも何とも言えないものを手にして、平安堂と青起が励ましてくれた。

 道具も材料も廃物利用で寺社展の目録などを探し出して参考にしながら金次は面を作った。平安堂は、一面一枚ずつ能面集を参考にと貸してくれた。材を彫るにしたがって刻々と肌が変化して行き、目鼻口が次第に形を表してくる。金次の気持ちは和らいだ。耳鳴りを忘れ、夜半まで続けることもしばしばあった。一年間に四十一面を彫った。彫り始めてから生活に疲れ果てて、句も読書も一切捨ててしまおうかと思うこともあった。それを口に出すと、妻はすがりつくようにして言った。
「みんな、決して止めないで。決して止めないで」
彫ることで肉体がくたくたに疲れることを望んだのだ。

 昭和三十二年海紅同人の伊藤後槻の紹介で狂言の、後に人間国宝となる野村万蔵先生に能面彫刻の為に入門した。後槻は「彫るなら能面だ。能面はちゃんとした先生に就かないといけない」と言って尽力してくれた。野村万蔵先生は、彫面も下村清時(下村観山の兄)の弟子で、職業人ではないが名手だった。入門に先立って、後槻は能の世界のことなどいろいろ話してくれた。野村先生には四月、染井能楽堂で初めて会見した。
 六月初め、後槻と連れ立って先生の家を訪ねた。新築の家で、玄関を入るとすぐに舞台がある。舞台の見所に当たるところで挨拶をした。先生は何の目的で面づくりをするのかと尋ねられた。
「能面は私達の祖先が生んだ立派な芸術だと思います。こうしたものを作った人々はただ偶然に出来たとは思いません。長い歴史と優れたものを作る気持ち、技術があったと思います。私は面作りを学ぶことでこの気持ちと技術を知りたいのです」

「ああ、結構です。お友達になりましょう」
 と先生は明るく答えた。それから、面や道具を取り出して見せてくれた。その上、「小面」《こおもて》(年若い女の面)を出して、これを見て作るようにと貸してくれた。七月初めに電話してくれ、面を作っているところを見せて教えると先生は言ってくれた。暗い洞窟を抜け出ようと体を岩に打ち付けていたら洞窟の一部がぽっかりと空いて、そこから這い出した。外は月光で、はるかに霞んでいるが道はあるようだ。そんな気持ちだった。借りた「小面」を手本に、この月はほとんど毎日彫った。足りない材料は一つ一つ揃えながら進めた。
 先生は十年の知己の如く面白く話してくれた。金次作の面の正確でない点を指摘される。「泥眼」(能の女面の一つ)の面を見る。これは実に美しい。いろいろ教えて頂いた末に、「曲見」《しゃくみ》(ややしゃくれた顔の中年の女面)を彫って塗らずに持参せよ、というので次はこれに取りかかった。そして月に一、二回先生を訪ねて教えを請うた。小学生になった気持ちで、無我夢中で彫った。

 生活は厳しい中にも次第に改善された。昭和三十三年七月には『せきれい集』以後の十年の作品のうち四百十二句を集めた『可和波勢』が出来上がった。題字は平安堂、著者画像は大正から昭和にかけて活躍した漫画家の細木原青起が寄せてくれ、序文は亡き一碧楼の金次に対する最後の評にした。青起と親しくなったのは戦争末期からで、金次の出した第一句集の表紙絵のセキレイも描いてくれた。一碧楼亡き後の『海紅』の再建にも尽くした人だ。青起は一九五八年一月に肺がんで死去。

所詮肉体は不可解だ冬木葉を残し
これが絶筆となった。

 もう一人尽力をしてくれた人が岡田平安堂だ。彼は九段に立派な店を構える筆墨商で、一碧楼と親しく、戦後、『海紅』復刊について一碧楼からまず相談を受けた。そうしたことから一碧楼没後も『海紅』経営の中心となって尽力していた。金次は平安堂から書画、陶芸などについて努めて学ぶようにした。句会の他にもよく訪ねたが、行くたびにいろいろ美術品を取り出して鑑賞させてくれた。飲食に出された器はすべて後に人間国宝となった濱田庄司作だった。

 それと金次の彫面に深い関心を持ってた人に芦屋夫人と呼ばれた森楢栄がいた。折りに触れ『海紅』誌上の金次の句や文章に触れ、耳の病気を気遣い、彫面を励ます細やかな文面の手紙をくれた。楢栄は戦前、関西財界の要職も勤めた実業家の夫人だった。これら『海紅』の有り難い先輩の励ましが金次の力となった。これらの人々の厚意に感謝し、彫り続けた。しかしそれを日常生活に利用することはなかった。その後も万蔵先生に習い面を彫り続けた。出来たものは、お世話になった人に贈り、また望まれれば進呈した。そして金次の彫った面を先生は何回か舞台で使ってくれた、金次は彫面の専門家でもなければ俳人でもない。鋸の目立屋だ。職業をおろそかにしないようには務めたが、このように彫面に熱中できたのはなんと言っても妻の積極的な協力があったからだ。子供は、長女、長男に続いて次女も中学を卒業、働きながら定時制高校で学んだ。          

【第十一回】
実験する考古学
 戦後、耳鳴りを病んでから金次は古社寺にしばしば通うようになったが、そのうち鎌倉時代の絵巻物を見て、そこに描かれている鋸の形が現在の鋸とは違うことを発見、絵画に描かれた鋸に興味を持った。ちょうど面を彫り始めた頃である。そしてそのことは鋸の歴史に対する関心を日に日に高めていった。日本古来の玉鋼《たまはがね》(和鋼)で作った鋸はもうほとんど使われておらず、それを作った鋸鍛冶も最後の世代が数えるほどになった。そして戦後、鋸制作の機械化が進み、日本の鋸の作り方は大きく変わりつつあった。
 このままでは日本の鋸を作る技術は滅び、遺品も消える。日本の古い時代の鋸に触れることは出来なくなり、研究する手がかりもなくなってしまう。鋸は日常の道具で、使われなくなれば捨てられてしまうのだ。金次はそれを毎日口にする有様だった。妻は「それほどなら自分で研究してみたら」と言った。
 だが考えてみれば、この研究には参考書が一冊としてあるわけではない。相談相手もいない。どこから始めてよいやら。それに費用もどのくらいかかるものやら見当もつかない。しかし日本鋸は道具として優れたものに間違いないので、将来この研究をする人は必ず出てくる。その時に、これまで鋸を作った人、直した人、使った人はどれだけいたか数えきれないだろう。しかし一人もそれを研究して残した人はいなかったのか、と言われるのが口惜しい、と金次は考えた。妻もやってみたら、と後押しをしてくれた。金次も、成功しなくても、後悔しないと思い、ノートに書き残しておくだけでも、それを使ってくれる人があったらと決心した。
 それからというものは東京国立博物館の考古課を訪ね日本最古の出土鋸を見せてもらった。渡された実測図をもとに、ボール紙で紙型をとり、手持ちの鋼板を切って成形し、両側に歯を立てて目釘孔を開けた。すると四世紀の鋸の姿が現れた。その後も次々と各地の古墳から出土された鋸を復元模造した。そしてどうやって作ったかを検証し実際に使用してみた。
 その結果、それぞれ①構造、②歯型、③使用法、④使用対象、⑤切断材料によって横挽き、縦挽きの歯型の変化の必然性、⑥鋸の種類による鋼板の厚薄と鋸歯の細粗の必然性などを追求した。古墳の鋸は完全な形で出土されるものは少ない。検討を重ねるうち、納得出来ない点が出てくれば何回も作り直したものもある。金次は鋸を作り、各種の鋸を修理し、鋸を使う人々の仕事を見てきた。その経験も加えて、金次は鋸の変化を追った。

 さらに中世、近世の絵画、文献の中にも鋸探しを進め、できるだけ鋸の知識の集積に努めた。また遺品の鋸研究のため『海紅』に「鋸についてのお願い」を出したら、古物の収集家でもある岐阜の森みちかげ氏(海紅同人、森命氏父君)より墓から見つけたという相当に古い鋸が贈られてきた。さっそく武儀郡武芸川町跡部(現在の岐阜県関市)のみちかげ氏宅を訪ね、続いて飛騨高山で鋸を探した。さらに民芸館や工芸試験場や古道具屋で鋸を手に入れ、白川郷でも合掌造りの家を建てるとき、巨木を倒すために使った伐木用の鋸を手に入れた。その後、夜行列車で、芦屋の森楢栄さんを訪ねたが、あまりにも汗まみれのひどい姿だったので、出てきた女中さんは一言も言わずに門の扉を閉めてしまった。仕方なく新聞受けにメモを入れ、京都の海紅同人のところへ向かった。楢栄さんからはすぐに京都に電話があり、お嫁さんと飛んできて、お詫びを言われた。
 戻ってから収集してきた鋸の錆を落としてみるとどれも貴重なものでありがたかった。

 その後も地方を行脚し、古墳の出土鋸の復元などを行い、その研究成果を本にすることにした。本は初めから自費出版するつもりだったから、平安堂の岡田多可子夫人に相談に行った。句集の関係で平安堂夫妻とは懇意にしており、主人亡き後も、夫人に鋸研究のことをいろいろ話して助言をもらっていた。出版の具体的な話は平安堂の姪の遠藤佐和子さん、夫の遠藤定吉さんに進めてもらった。校正は『海紅』同人の尾崎騾子、河合夢舟氏が協力した。途中、多可子夫人と佐和子さん来宅の際、トクは「皆さんに.ご迷惑はかけませんから」と、貯金通帳(百万円記入)を見せた。これは、「金次さん鋸研究に熱中して自費出版すると言うが、奥さんは大丈夫なのかしら。こんなことで夫婦別れなどになったら」などと言っている人がいると聞いてトクがそんなことはない、それなら平安堂の皆さんにも心配をかけないようにした方がいい、と言って見せたのだった。       

            

吉川金次伝・第十二回
  昭和四十一年十二月二十八日『日本の鋸』は刷り上がった。すこぶる立派な著書が出来た。表紙は紺の布製、題字の金も美しい。内容もよく出来たと思った。昭和四十二年一月三日、氏家の先祖代々の墓へ参り、著書の完成を告げた。その後小学校へ行き校長に面会を求め、名を名のり、この学校の出身者だと言い、著書を進呈しますと言った。校長はきょとんとした顔で金次の顔を見て、本の定価を見て黙って、一千三百円を突き出した。「この本は私の著書で、教材にもなると思うから寄付するので使っていただきたい」と言うと、今度は「へえ」という顔で「ありがとうございます」の一言もなく、署名をしてくれと言った。
 後に、新任の校長手塚邦一郎氏が手紙をくれた。それによると、『日本の鋸』を新聞で見て読みたいと思い、知人に聞くと既に寄贈されているはずだというので、あちこち探したら本は物置の隅に押し込まれていた。手塚氏は、ほこりを払って読んで感動、朝礼の時に子供達にその話をした。今度帰郷の時はお会いしたい、と結んであった。

 新聞による反響は予想外に大であった。工場から仕事を終えて帰ってみると、「申し込み殺到」だとトクが言う。殺到は大袈裟だが、金を送ってきた人が三人、問い合わせが四人、著書交換したい人が一人。郵送しておいた『日本の鋸』を毎日新聞の「出典展望」で取り上げてくれたおかげだ。記事には優れた文化史だ、とあった。それからは申し込みが続いた.本を手に取った人がまた頒布に協力してくれた。申し込み、問い合わせは大学や研究所の研究者が多かった。博物館や文化財保護委員会から十部単位の申し込みがあった。

『日本の鋸』を出版して金次の仕事もこれで終わりかと思われたが、終わるどころではない。この反響にびっくりしただけではなく、協力してくれた人々の誠意が結晶したことに感謝し、次に向かって歩み出してゆく大きな励ましとなったのだ。

鋸館と『氏家町の俳句史』
 氏家民俗資料館は、栃木県では最初に出来た民俗資料館だ。明治時代に出来た役場の建物二棟を移築して使っていた。資料館が出来たのは、黒須氏との間で「俳句史」の話が出た頃だった。黒須氏は氏家町の文化財保護委員をしており、資料館作りを推進した。金次は、展示資料がもっと充実される必要があると思い、「鋸はあるから寄付してもよい」と申し出て、ここから資料館に「鋸館」をつくるという仕事が、「鋸研究」「俳句史」と並行して進行した。
 その一棟にとりあえずは「鋸館」が置かれ、金次が収集した鋸の一部が寄贈された。それが何回か行われて、資料館の一部に「鋸室」ができた。やがてそれが発展し、資料館の西館二階全部にその頃金次が持っていた鋸資料すべてを運んで「鋸館」が誕生した。そして昭和四十八年には一階も含め西館全館を鋸館とし、文献室も備える、と言うことになった。昭和五十三年十一月、ついに独立した「新鋸館」が完成した。二人三脚で尽力した黒須氏はその年の九月に帰らぬ人となっていた。黒須氏はこれまで「鋸館」の運営に予算が少ないとこぼしながら鋸館の資料の展示整備に努めてくれた。

 金次は氏家町に生まれて二十一歳までいた。また戦争で疎開し、約五年間過ごした。その間に親しくした人はもちろんあり、世話になったと思う人もいる。それらの人のうち、黒須光雄氏は最高の友人だった。彼と協力して鋸館を創立し、『氏家町の俳句史』を執筆していた頃が、金次にとって郷里の人々との交流がもっとも幸せな時だった。しかし、彼も金次も「ふるさと自慢」とは無縁だった。

 金次は、昭和五十二年九月に、東京作家クラブ(山岡荘八会長)の「第十四回文化人間賞」を受賞した。この賞は長い間、目立たないことに努力して立派な仕事をしているが、一回も表彰されたことはなく、まして自分を宣伝したことのない人に与えられるものだった。金次のことは能楽書林の丸岡大二氏と野村万蔵先生が推したようだった。金次は黒須氏こそ「文化人間賞」に相応しい人だと思った。受賞者は推薦人の資格があるというので、翌年、黒須氏を推したが、選考の結果が出る前に彼は逝った。
 黒須氏との出会いは、氏家町に民俗資料館が出来たと聞いて出掛けた時にあった。そのときに同郷の医師の黒須氏と郷土研究家の長島氏が同道した。いろいろ「郷土史」の話が出て「俳句史」におよんだ。そこで、
「この氏家にも俳句を作った人がいる。どうです。氏家町の俳句史を書ける人はいますか」と黒須氏が言った。
「そうだな。俺なら書けるな」。金次は、はっきり答えた。
 答えるとすぐ構想が頭の中で組み立てられていった。

 金次は氏家町の俳句運動を、五期に分けて考察することにした。まず文化文政の頃から明治中葉に至る『卯の花連』の時代を第一期、次いで明治三十五年、六年から大正初期までを第二期とした。第二期は正岡子規の指導の下に俳句が革新されつつあった時で、いち早く子規、碧梧桐の新しい俳句の洗礼を受けた時代だ。明治三十九年(1906年)には河東碧梧桐が氏家に来た。以後写生派の強い影響の下に運動は展開された。第三期は、革新化した氏家の俳人たちが『獺祭吟社』に集まり、個性あざやかな活躍を示した時代である。第四期は昭和五、六年から二十年まで。氏家の俳句運動が文字通り汗を流して働く人々に中心を移していった時期で、作品は無名の民としての俳句作家がいかに生き、いかに戦争に駆り出されてゆき、いかに窮迫し、いかに傷ついたのか、の記録である。最後に敗戦後を五期とし、氏家町の俳句運動全体について考察する一章を置いた。
 金次は資料集めに奔走し、昭和四十七年五月刊行した。出版の一切は『日本の鋸』と同じく平安堂夫人の世話で東京堂が進めてくれた。出版費九十六万円は黒須氏が負担、金次は、表紙題字銅板代、編集協力お礼など十八万余円を支出した。序文を寄せてくれた荒川祐海師、平安堂夫人は既に亡く、それが残念だった。

 六月には子供達が出版祝いをしてくれた。孫が四人。みな元気で幸せだった。最後に金次が受け取った「文化人間賞」の賞状を載せてみたい。                              

           表 彰 状
   文化人間賞 第十四回受賞者  吉川金次殿                     あなたは栃木県氏家町の鋸鍛冶の家に生まれ、独立して東京で鋸の目立業を営みながら、四十歳の半ば頃から鋸の歴史的研究に着手されました。内耳障害で聴覚を失い、激痛と身体障害者のさまざまな困難の中で自己を克服し、玉鋼による鋸製作技術の復元、古墳出土鋸の復元、故郷氏家町に地元有志の協賛による鋸館の設置、「鋸」その他の著述等、すべて独学で、文化史的に庶民の手仕事を意味づけられました。
 そのほか、能面の彫刻、俳句など多面的な活動をされながら清貧に甘んじて今なお本業の鋸目立をつづけ、純粋にして毫も俗的名利に奔らず、鋸研究に生涯を捧げんとしておられる独自の生き方、人間的な魅力は、まさに当会の文化人間賞にふさわしいものと確信いたします。
  仍って茲に、第十四回文化人間賞受賞者としてあなたをえらび、表彰状ならびに正賞、副賞、記念品を贈呈して、その功績をたたえます。
   昭和五十二年九月二十七日
        東京作家クラブ会長 山岡 荘八 

  来月号からは句集『せきれい』、続いて『可和波勢』
を掲載します。                    

吉川金次伝・第十三回
句集『せきれい』より
昭和十二年
看板繪のさめたるもありて晩秋地上の距離
土を運びをくに土むくむくともり上り秋夕べ
林檎しなびてゐて足冷たい妻何か怒りてをり
童女蜜柑をむく皮點々として霧流るゝに落ち
今晩夜業はない隅々暗い様に思ひ人等厚着して通る
みぞれのトラックに机を積んだトラックがつしりしてゐる
積み終りトラック粉雪の街に行くきつかり土面を残し
冬朝鳶は手ッ甲をつけてしつかり歩いて行つた
水をくむ音うち響き夜業苦しく冷たい
働らいてをれば枯草ちヾれまるくかたまりて陽をうけ
 長女いづみ生る
一月六日女兒産れ嬰兒つぶらなる目をあけ
今日あたり幾分赤兒が黄色い産婆さん輕々ともち泣きもせず
野牛寂然とゐる動物園木々の枯れゐるに
松丸太ふとき引き悩む馬早春の地を蹴り
夏蜜柑ごつごつの皮むき砂糖をかける灯の下
 四月十五日清水公園皆香園二句
市電空席に端然薄してゐる中年の婦人
風南より吹き俺家歪んで見るそこに義弟が来た
櫻咲き北向きの家暗いに住みつき
子供我が家をのぞき幼なき子マントを着
シャコ生きてゐるそれを掌にのせて示し妻よ小さき顔
壺の猫柳葉が出た友達すね長いあぐらをかいた
春は脂肉冷たき頬彼女まなこを上げてくる
石工に地一帶のしめり芽ぶかん欅立ち
ぶ厚い桶これに水一杯たゝへよう春の日
にきびある女出て來り水菜ある畑ありて
幼女遊び雨の日そこに居るつゝじ花ありて
 五月二十三日井の頭吟行三句
青芒かたまり茂りて川ますぐに流れ
くずの葉ひたひた地につかん川の邊くれば
千住五年で五月井ノ頭に來てどしどし地を踏み
夏草日影あるところ老大工腰をおろし
床屋にものを言い硝子器の鮒死んでゐるやうに見える
うるし桶うるしをたゝへ五月の陽一方からさしこんで來た
初夏の夜佛具屋の店頭に伏せてある鐘
うるしかぶれの顔重く足を伸し足二本
ウヰンドウ硝子に身をよせて薄物見てゐる男
雨期ある日馬は厩に居てしつかりした四肢
しばらくは地ならし機動かない半裸の男ハンドルを持ち
ふらり蚊が來たそしてしん菊は小皿にある唐辛子の苗を植えたゞそれを妻は青いものに見た
家に熱ある夏朝よその兒より小さい兒を裸にした
埋立地一本のポプラは根元から葉をびつしりつけて
ある時蓮池のそばをとほり蓮の花微動もしない
夏夕大ぶりの子供何やら細い木に登り
若い男どすどす畑をとほりなすの花咲くを
鏡台かけ動かない晝妻汗して座す
夏ある日染工場何んにも仕事してないボイラー
ほこり机に白く裸形それによりかゝり
かみなり止んだもつと話してゐたいこの腰掛は固いやうだ
 九月十九日於子規舊居
ゆるがない斡ありて夕べ柿の葉はおほかた綠
身のふしぶしけだるく燈火管制の蚊帳の内部に座り
シャツ一枚の身を置き梨のうすみどり
飛魚たべる梅干皿にあつてまるく
殘暑髪を洗ひ風くるに坐し子ある女
新しいインクそして銀貨何枚かある秋夜
拳むなしくて秋夜水を一杯呑んだ
ぶどう前にして兒と妻と道よく見ゆる室に
大谷石一本一本積む人それだけのこと幾日かして草枯れ
秋の日煉瓦のかけらを踏み煉瓦が濡れてゐて冷ゆる
沼に何んにもない工場はるかにならんで影し
疊どこも暗い剃刀の替刃其他金物を灯の下にならべ若者

昭和十三年
病犬草をはみ靄一帯枯草はら
初冬汚れた自轉車の土間にあつてやゝ大きく
初冬夕べしんかんと晴れた豚肉燒えては喰ふ
をとこは初冬小さきふいごかついで道を石をふんで來た
初冬藥鑵にむかひ人間のからだ大きく
冬至灰の固く生乾鱈を燒くことする
靜穩冬のくもり日梅干の核噛み碎く
巻尺を伸し測量手ら冬木の林にゐる
柳に葉がまだあり主おだやかに芋を喰つてしまふ
冬日雲の厚み街にはうれん草人は商ふ
ある日凍雲ただよひ石鹸台所に平たく
門松の竹に節があり枝を打落とす
冬日ある人倚り電車貫く如し白棒立ち
冬日室に置く氣持しぜん首がまがつてゐる水仙の花が
紅茶茶碗にちょつぴり紅茶が殘り兒を厚着させて
冬の日車に積む蹄鉄は正しく蹄のかたちしてをり
女はまづしい黑子をもちだいだい一個地にある日
早春家裏に地面があり籾がらを焚く厚いズボンはいて
早春舗道のまんなかで下水の蓋をぽんととつて中にはいつた男
鑵からどろどろ液體こぼす早春雪曇り
冬夜子供に小鍋の粥がありおれらは白い飯くふ
店に奥行があり春夜醫療器がづつと並び
春の日木工場内くらくべにや板ぺたんと廣く
春夜魚をたべ章魚をくふ兄貴の財布にひもありて
淺く箱に水あり春夜底に動く八ッ目鰻口と胴と
春日今戸燒の小さな竈があり今日は煙立たず
三月道路から低く店の奥見え兎肉を商ふ人をりて
春朝張板を車にのせて賣らうおやぢに橋がでこぼこ
妻に春の空境内木蓮の花があり
薄着平座して妻子と薄い太刀魚であり
杉菜ぞくぞく伸びそのなかに土台をすえ大工たち
溝べりに住み山吹いくらか花殘り家のまはり
晩春の日南に出て疊屋はまち針をぞつくり揃へ
深く土の濕り馬鈴薯の花まだ咲かず
夏足袋をはかう疊一ところに足を伸して
農民にかんらんが伸びかゞんで虫をとる一つ一つ
 館林吟行二句
手に水をつけ菱をずるずる抜くそうして實をもぎ
麥の穂かたかた五月城沼をめぐり
孔雀草が花落ちて幾日かたち子供やうやく立つた
家のまはり草が生えてゐそうして毛深い人々
空地に石ごろごろ夏の日犬に陰嚢があり
吾ら濕地をめぐりそうしてきよう竹桃殘りの花
曇日妻の顔まづし池の端の蒲の穂三四本
夏夕しらじら街路が見え夕飯のがんもどきをたべる
夏布團欲しある夜乳母車を買うて子を置きたり
隠元の花すこし咲く夏夕人の顔が大きくて
夕べ子供を裸にしもらつた梅干を瓶にうつす
ひまわりの花さかず夕べ小供の顔ぞりぞり剃り落す
 子規忌
人に刺青があるつゆ草花さけるに
秋夜やたらに水を飲む男完全なあごしてる
かなり暗い店で秋の夜冬瓜がある二つ
秋の夜一皿の鯨の肉をたべ湯をごくごくのんでしまふ
無花果を掌にし鬱々雲深く
妻がはらんでゐ塩鱈を噛む秋の夜に
疊のひとゝころすれ秋朝やすりの包を手にして
川がうす光りあちこち乾草つむ人
堤のむかふ大きな川がある畑の秋茄子は固くて
採って來た野菊が枯れてしまい一つ二つ栗むく妻に
鏡台がある十五夜の栗を供へやふ夫婦とその子と
くもつて草枯るゝを疊を一疊かついで行つた
子供は毛糸にくるまつてぐつすり寝る雨がばらくふつて來た
朝櫻の葉が落ち川から鯉を釣つたおやぢ    

昭和十四年
初冬夕べ野の明り山羊が生きてゐる
わかさぎをたべ暗くて十一月或る夜に
青い草まだあるこつこつ錠前直す男
二三枚鋸を直し子供を抱いてりんごくわせる
蓮根ところどころ節ある冷ゆる堀の水流れず
かもめがなん羽も飛ぶぼく川面を歩む氣持冬朝
霜厚く地に鉞とぐひとりの人
冬の日漬物石の平たく妻のはらめり
曇り日おやぢのシャツの袖口ひゝらぎに葉がある
背ひろく人行く土堤のひとゝころ草枯れず
何か話したい冬の日妹の顔大きくて
まづ湯豆腐を食べよう妹の体が坐わる
足袋をぬぐ寒夜の布團に坐し
ざらめをさじごとなめ轟々ふゆの風ふけり
雪汚れてとけ何も言はず桶屋のおやぢ
正月の二十日も過ぎ子供は髪ふさふさに伸び
 碧梧桐三周忌二句
冬の日かげり海苔を乾す簀の子がならび
冬の海が見たいうすく餅を切りたり

(この句集では繰り返しに「〱」多く使われていますが、横書きでは表示できないので平仮名で書き直しました)

吉川金次伝・第十四回   中塚 唯人

(この句集では繰り返しに「〱」が多く使われていますが、横書きでは表示できないので今回はそのまま表示してみます)

句集『せきれい』より

昭和十六年
沙魚を干してお内儀さんうすい綿入れ着てゐる
寒くて妻は魚を切り小さな刃物で
鶏頭赤くすこし大ぶりな猫動く
白菜畑たのもしくジャンパーにポケットがある
みづ木落葉し左官はまるいこて手にもつて
 博物館御物拜観
冬の日御物のかんなはちがふかたち鋸の變らないよろこび
日々くらして冬夜疊にころがつて馬鈴薯
おやぢものごと言はぬ皿に柚子の汁しぼり出す
冬日柚子の木ありそこら低いところ指物屋
ばら〳〵木の葉が散る小さい鎌握つてゐる
桶に薄氷張つた上り框にしつかり腰かけてゐる
炬燵ぶとんうすい今日菜漬けをはり
海苔をもつてゆけ弟のオーヴアながく
無花果冬木のかたち女は子をなして子を負う
けふ足袋はかずゐる包丁を出せ磨いでやる
ばく〳〵牛が口あけて冬の日の牛舎はぬれてゐる
芽麥畑をもの言はずあるく兄弟
ぎんなんむくことにしてせまい室にすはり人々
冬の日山形から射つて來た青い雉にふれ
何んだか喰ひ足らぬ氣持で冬夜の桐の下
わがくらしの俳句手帳或る時雪うすくふつて消え
冬何んの花ひとつひとりどぶろく飲みたい
びん一本そこにあり寒夜の妻は細いからだ
桃の木芽をもちそれがやま鋸であつて手に提げる
若い煙突掃除夫のやさしい風貌二月風ふけり
日々飯や芋のことみづな大株になりすぎた
春夜鋸をもつてくるからだ雨にぬれて
母がつゝんでくれ伸びすぎているほうれん草ひとたば
三月ゆけば櫟林からつづく地の起伏
筍をくふわが身のまはりをはなれず男の子
桃の花あり妻はもつて來て一枚うすい債券
曇つてずつと木棚ありなづな實となつた
けちんぼうのくらしでもちの木の花咲いた
そうして疊替がしたい獨活もたまにはたべたい
女はつゝじさく路次のそこに子を抱く
 博物館

わがよろこび莖に無造作に切つてある來國俊だ
 四月二十七日浦和子安觀音二句
雑談してお前と俺とそれは丘の斜面のたけのこだ

初夏の日直立してふとい桐苗の芽あり
 五月十一日佐渡吟行五句

それは初夏の海からつかんでみたい彌彦の山
山に雪のこりみさきかけてずつと潮ぐもりする港
めし充分にくふ小さい藤の花地にさきし
僕なま干の烏賊を手に大根の花ちら〳〵する
金魚一匹生きてゐる夜子供達よくねむり
歩いて海は見えないそこに咲いてそら豆の花
初夏の夜が明け田の涯なくて家々うごかない
水田の畔直線ときく聲す朝靄の中の人々
養魚池には遠い一莖二莖芍藥の花咲いた
せりのびわが正面を來る幅ひろい人
ときどきひかげり一劃の寂寞小さい桃の實
ぢしばりうすく咲き堀の泥をかくなり
夏が來た指物屋の親方弟子達にまじり働く
六月雨にぬれ重工業地帯建物全体響あり
むん〳〵暑い土のうへにぎつしり青いぶどう生つた
われら父母ありたのもしき夏木うしろにす
小さい顔で汗かいてもの言ふ母なり
胡瓜を味噌漬をもつて來たお母さんの大きな手
生きて子を産みあを〳〵つゆ草さく
炎天雲うごく一本大きい胡瓜買つた
迷はずズボン買うて秋夜の人々の中を行く
草の穂草の實若い夫婦が畑打つ
だまつて夏すぐるくらし木の葉をつかみ
くらして日々太い大根ありよろこぶ
りんごみづ〳〵しいまるめろは默つてる
ひかりなく芦の穂あり風吹くわが頭
小あぢ喰う合着のシャツ着て親子よりそう

昭和十七年
日さすそして妻がつくつた干藷を燒いて
人の聲する寒い椿の木がある
場末をあるきすこし離れて來た冬の山見る
人々ひるめしたべる寒い工場のドアがある
雪くると思ふ工場にて釜の湯を呑み
 十二月六日諏訪吟行七句

小佛を山を遠い想ひ桐の木葉なし
日さし葉が落ちぶどう畑低く腹這ひたい
靄かゝりすそかけて山動くごとく冬日
冬日野良着で桑畑の桑にまじり
これに懐疑なしまだ凍らぬ諏訪の湖
諏訪の友達は何となくよい赤蕪すこし大きく
山ひだ雪くる太刀魚が箱にある
遠く來た峽からつづく桑畑あり冬日
冷える夕べ人を呼ぶ湖が親しい
まだ旅にある氣持妻に手傳つて菜を漬ける
迷はず十二月この日三疊の室にすはる
雪うすくのこり馬鈴薯の一籠をよしと思へり
冬夕いゝ氣持で友達の家から出る栗の木がある
薪がつんであるあつみさんとそこら歩るく霜をふんで
冬日ぼつ〳〵話すこと樂しく孟宗藪に入り
こゝに思ふ幸福あり雪かぶり小さい葱ばたけ
明るい畔をあるく冬日さし籾殻散つてゐる
川べり雪あり鑄物なまこを舟からかつぐ人びと
その大きな嘴家鴨が凍りつく水の中泳ぐ
冬すぐるくらし妻は白足袋をはく小さい足
みづ菜ありかうして肉身が有難い
芦の芽うす青いジャバは相當に遠い彼方
三月風ふいて肢体哀しいぼうざめがある
畑の木がぼんやりしてわけぎもつてくる女の人
白木瓜壺にさす幼兒がそれを見てゐる
父母あり家のまはり櫻しんかんと咲きたり
地にしどみさくそこにて弟の鼻梁をかんじる
 従兄弟良次郎を思ふ

航空母艦を想へば紫陽花の芽があざやかだ
菜種さくそこからずつとつづく天のひろく
草なき家のまはり春夕子を負ふてあるく
 結城吟行

青々草木のなかに坐してゐる氣持寺の一室
桑の實がまだ食べられない一帯の曇り空
草に毛虫がぢつとしてゐる筑波が動かない
草青く今日にしんを買ふて來た厨
夏菊すでに咲く一枚のござに坐り
わがくらしのそのやう夏大根固い
海静かに光りもちの木にもちの花咲く
どくだみ咲いてうすく日に焦げて子供達
若い人形師が夏の日人形の手首をもち
いんげん青く伸び家裏その徒弟の眼あざやかだ
ときどき現實と離れる氣持一つ蝶がとぶ夏晝
吾子這いまはるはだかで青いりんごをたべる
 従兄弟良次郎戦死

思念どう〳〵と浪音がくる暑い部屋
十月の夜明け防空訓練をつづける人々
忽忙としてゐる氣持だ子供にりんごをする
誰彼を無縁と思ふ冷える日もゝひきをはくとき
 十月二十五日平林寺吟行二句

きびしく生きこれにまだ青く雑木の林
楓さくらに秋日さすぼく老親を思ふこの時
友達若いかんじ凍夜小米の花をうしろに
はるかまで川面のひかり枯芦を刈る人見え
炭團をあんかに入れ幼な子の柔らかい足をつかんだ
梅のつぼみ青くて海が見える
幼女は横濱の海を見る氣持春の日青い帽子
青菜に毛虫がはふて鶏頭の花じつとしてゐる
息をつめて振り向かぬ思ひ山茶花咲く
巷にすこしあられふり十二月この朝太陽てり
妻は二枚の障子を張りかうしてその白きにをり
疾風冬木あり鷄の交ふ
家うち凍る父母と八日あまりの夜晝
霙ふりうんと物を食ふ氣持板の間に坐り
凍雲あり少女らは地を蹴つて遊ぶ
淺春鯉一匹を貰つたそして生きてゐる家うち
霙ふり子供の手足のよごれ
辛子菜を噛んで降り照りさだまらず
夕となりし妻はそのたけしほうれん草手にもつ
紫陽花の芽ふときこゝにて気持やう〳〵さだまる
これを仰ぐ阻塞氣球が五月の空に動かない
警報解除てつせん咲く三つほど夕べ
薄暑の日仕事のまはりに來てわが金槌いじり小さい子供
通草青々と頭にたれ何か叫びたい
夏朝子を抱くちいさい手足をふんばる
それ子供のやう蛇目草咲いた一叢
一日稼ぐぐつしょり汗かいたもちの木花さく
翼燈あり輕爆編隊ゆく大きい夏の夜明の空
南瓜をたべる盆十六日の夕べ汗かいた
くびを日がてるたぢろがずみよう荷の葉長け
家のなかが狹まい一鉢朱い唐がらしがある
日ざしにむいてゆく涼しい顔がしんとしてゐる
柿をひとつもらつて喰ふ大工さんの子供と
待避所ずいぶん深いひまの實生り
しう雨ふり梨の實半分づゝたべわが子と妻とすわり
藷をくふあらしの中に身を潜めた氣持で食ふ
十月雨ふりつづく一つの箱を作る歪めり
桑の下葉がきばみくもり空に翔つ白い鳥
秋夕仔牛がゐる母牛はぢつと青いまなこ動かさぬ
陸稲刈つて束ねるうす日さす若い男と女
むく鳥五六羽とび草に土に没する思ひわが体
ひゝらぎの葉をつかむ冬にむかふわがくらし
地に擔架ひろげる夜に黄葉をかんじる
長女を故郷に歸す氣持山茶花を前にする
家に居足が冷えぼく茶の葉が咲いたと思ふ

吉川金次伝・第十五回  中塚 唯人
 (この句集では繰り返しに「〱」が多く使われていますが、横書きでは表示できないので今回はそのまま表示してみます)

句集『せきれい』より
昭和十九年

蕪を煮る子供たちとそれをたべ冬夜
共苦くろいこの炭を火鉢におく
冬日よろこんでわかさぎを干して喰ふ
霜ふる我應徴士白い服を着る
二年工場に働く冬木のなか行く
うす雪ふり應徴士一隊ならびたり
應徴二月だわれら油だらけになる笑つた
旋盤に光がさす寒夜の徹夜があける
冬日暮れるわれ一日それとゐる旋盤を拭く
一筋春の川をかんじてる工場のうちにゐる
辛夷花ありわが作業服を着る帽子かぶる
氣持殘業が体にひびいてくるほうれん草すこし夕餉にする
三月九日母死す
麥の芽あり母が死んでる
兄弟母の体を拭く背筋のところぬくみ殘れり
野に斑雪さうしてわが母の骨をあげる
友情を感じるたらの芽が太い
 四月次男直明入院す
吾子が命を託す氣持著莪花ある病院の庭
わが子のはらから出た數の腎臓結石が初夏の日
 五月強制疎開命令くる
薄暑の日まづ本をつめる大きな箱買ふた
 六月末十年住みし南千住を去る
家を去る暑い日水とにぎりめしをくつて
 故郷に來て二句
草に水が溢れまことふるさとゝ思ふあざみの花
故郷われの前に立ち一本青い筍
くちなし咲く疎開した子供に
ぼく子がゐる工場の窓から見え合歡の木
たうもろこし小さく生るシャツ着て工場にゆく
草刈鎌が欲しい秋の日川べりでそれを磨きたい
妻は二うね三うね蕪の種をまく家裏の土を起す
南瓜を煮てお地蔵さんに供へる朝飯の子供と親
秋のくもり空の雑木のなかにまじる兵士
秋の日の少女の額汗ばみ一台小さな旋盤
秋の日煎大豆を掌に工場の友達とゐる
女工員がみづくろいするばら〳〵切粉が落る秋夕べ
青い栗すこしとり川のほとりにくる子供と夫婦
雜茸をとる枝川の水の澄みて 

 愛児直明歸郷後腎臓嚢腫再發百方手をつくせしも
 空しく十二月二十六日夜ついに死す
十二月吾子埋める青木をさす
漂泊をかんじる一筋冬のなはてをくる
母を子を拜む冬田の畦に立つ
命絶ゆるせきれい疼く冬日をとぶ

第二句集「可和波勢」《かわはぜ》より
                       中塚 一碧楼

凍雲あり顔をあげ枯野をゆく      金 次

 さうだ 顔をあげろ顔をあげて力強く元気で行かう、今は首をうなだれてうろうろしてゐる場合ではない。皆んなで胸を張って堂々と行くべきである。

 空に見ゆるものは寒々とした雲のそればかりであり地の草は一やうに枯れ果てゐる一いろである。この天とさうしてこの地と、僕たち実に堪へ難いさみしさではあるが、今や僕たち敢然と顔をあげて行くべきである。

 一句によつて作者の内に張つてゐる気魄を見て欣ばしく又頼もしくも思ふ、同時に皆んなでこの意気でありたく切に希ふ処である。―指針を計す―     

      

川はぜの小さきを愛づ若い同志のごとく 金 次

 小さい川はぜは、その形はあまりいゝ方とは云へないが、思ひの外に活溌であり多少おかしみを持つてゐて何となく親しみを持てるものである。

 作者がこの小さい川はぜを同志のやうに感じた事は大いに頷き得る事で、川はぜは何の紛飾も知らない素撲な感じがするのである。

 川はぜに親しみ川はぜを愛する作者の心持は「若い同志」で誠に鮮かに表現されてをり、作者そのものゝ持つ心情も良く出てゐると思はれるのである。

 同じ作者の句に「綿の花の黄に大き歡びの革命だこのとき」というのがある、綿の花の黄に革命の歡びを云つてゐる所素晴しいと思ふのであるが「大き歡びの」と云ふ表現の仕方が却つてこの大きな歓びの気勢を弱くしてゐると思へる、この点に不満はあるが心をひかれた一句であり「革命」「革命といふ」などと詠つてゐる石川啄木にこの一句を見せたいといふやうな気持がするのであった。
―句評(絶筆)―

凍 雲-その1
凍雲あり顔をあげ枯野をゆく
蝗をくうかり〳〵喰う父といる
鋸を打つ冬の空が青く
菠薐草の畝こうして妻の髪のそゝけ
 愛兒直明一週忌
冬夜小さい位牌と猫柳が壷にある
夕方そこにくり〳〵肥つた男の子と韮の花と
綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき
川鯊の小さきを愛づ若い同志のごとく
十月の夜海を渡つて引揚げて来た妹の足の汚れ
露深く炭を熾すこうして思うひとりの同志
鰊のしらこを焼く彼が憂愁のごとく
歯朶が石石の間に伸びたもの言うか石仏達
梅の実小さくその下を歩く僕と青起さん
ダリヤは黒ずんだ花の昼間汗ふく
かんぴようのわたが流れる日にやけた姉といる
労仂組合を創る夏夕人々目の荒い莚にすわり
綿の実摘む人おり洪水のあとの川澄みきつた
土間うす暗い馬一頭と仂く友のくらし飼糧桶あり
雲厚く農婦小麦を蒔く指からぱら〳〵落ち
蝗を煮るわが家の上を白い鳥とぶ
話す間も同志肥料を切り返しふごに入れ
黄にふる銀杏の下におり吾が身が小さい
野坂さん予算の嘘を云う僕達の良心のごとく菊あり
霜柱どろ〳〵とけ黒い馬日南を駆ける
萱が束ねてあるわが声のひゞき
俺達蝗を煎つてたべそこに税金が来た
妻が自転車のハンドルをおさえた炭俵をおろす
藷をすこし貰つて喜んだ夕べの水々しい春の雲
つぎ〳〵税金くる油菜すこしたべ闘う気持だ
硝子炉に石炭ほうりこむ音響きわが部屋
                        

第十六回      

 句集『せきれい』より

昭和十九年
蕪を煮る子供たちとそれをたべ冬夜
共苦くろいこの炭を火鉢におく
冬日よろこんでわかさぎを干して喰ふ
霜ふる我應徴士白い服を着る
二年工場に働く冬木のなか行く
うす雪ふり應徴士一隊ならびたり
應徴二月だわれら油だらけになる笑つた
旋盤に光がさす寒夜の徹夜があけ冬日暮れるわれ一日それとゐる旋盤を拭く
一筋春の川をかんじてる工場のうちにゐる
辛夷花ありわが作業服を着る帽子かぶる
氣持殘業が体にひびいてくるほうれん草すこし夕餉にする
 三月九日母死す
麥の芽あり母が死んでる
兄弟母の体を拭く背筋のところぬくみ殘れり
野に斑雪さうしてわが母の骨をあげる
友情を感じるたらの芽が太い
 四月次男直明入院す
吾子が命を託す氣持著莪花ある病院の庭
わが子のはらから出た數の腎臓結石が初夏の日
 五月強制疎開命令くる
薄暑の日まづ本をつめる大きな箱買ふた
 六月末十年住みし南千住を去る
家を去る暑い日水とにぎりめしをくつて
 故郷に來て二句
草に水が溢れまことふるさとゝ思ふあざみの花故郷われの前に立ち一本青い筍
くちなし咲く疎開した子供に
ぼく子がゐる工場の窓から見え合歡の木
たうもろこし小さく生るシャツ着て工場にゆく
草刈鎌が欲しい秋の日川べりでそれを磨きたい
妻は二うね三うね蕪の種をまく家裏の土を起す
南瓜を煮てお地蔵さんに供へる朝飯の子供と親
秋のくもり空の雑木のなかにまじる兵士
秋の日の少女の額汗ばみ一台小さな旋盤
秋の日煎大豆を掌に工場の友達とゐる
女工員がみづくろいするばら〳〵切粉が落る秋夕べ
青い栗すこしとり川のほとりにくる子供と夫婦
雜茸をとる枝川の水の澄みて
 愛児直明歸郷後腎臓嚢腫再發百方手をつくせしも空しく十二月二十
六日夜ついに死す
十二月吾子埋める青木をさす
漂泊をかんじる一筋冬のなはてをくる
母を子を拜む冬田の畦に立つ
命絶ゆるせきれい疼く冬日をとぶ

第二句集「可和波勢」《かわはぜ》より
                 中塚 一碧楼

凍雲あり顔をあげ枯野をゆく      金 次
 さうだ 顔をあげろ顔をあげて力強く元気で行かう、今は首をうなだれてうろうろしてゐる場合ではない。皆んなで胸を張って堂々と行くべきである。

 空に見ゆるものは寒々とした雲のそればかりであり地の草は一やうに枯れ果てゐる一いろである。この天とさうしてこの地と、僕たち実に堪へ難いさみしさではあるが、今や僕たち敢然と顔をあげて行くべきである。

 一句によつて作者の内に張つてゐる気魄を見て欣ばしく又頼もしくも思ふ、同時に皆んなでこの意気でありたく切に希ふ処である。―指針を計す―     

      

川はぜの小さきを愛づ若い同志のごとく 金 次
 小さい川はぜは、その形はあまりいゝ方とは云へないが、思ひの外に活溌であり多少おかしみを持つてゐて何となく親しみを持てるものである。

作者がこの小さい川はぜを同志のやうに感じた事は大いに頷き得る事で、川はぜは何の紛飾も知らない素撲な感じがするのである。

 川はぜに親しみ川はぜを愛する作者の心持は「若い同志」で誠に鮮かに表現されてをり、作者そのものゝ持つ心情も良く出てゐると思はれるのである。

同じ作者の句に「綿の花の黄に大き歡びの革命だこのとき」というのがある、綿の花の黄に革命の歡びを云つてゐる所素晴しいと思ふのであるが「大き歡びの」と云ふ表現の仕方が却つてこの大きな歓びの気勢を弱くしてゐると思へる、この点に不満はあるが心をひかれた一句であり「革命」「革命といふ」などと詠つてゐる石川啄木にこの一句を見せたいといふやうな気持がするのであった。―句評(絶筆)―

凍 雲
凍雲あり顔をあげ枯野をゆく
蝗をくうかり〳〵喰う父といる
鋸を打つ冬の空が青く
菠薐草の畝こうして妻の髪のそゝけ
 愛兒直明一週忌
冬夜小さい位牌と猫柳が壷にある
夕方そこにくり〳〵肥つた男の子と韮の花と
綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき
川鯊の小さきを愛づ若い同志のごとく
十月の夜海を渡つて引揚げて来た妹の足の汚れ
露深く炭を熾すこうして思うひとりの同志
鰊のしらこを焼く彼が憂愁のごとく
歯朶が石石の間に伸びたもの言うか石仏達
梅の実小さくその下を歩く僕と青起さん
ダリヤは黒ずんだ花の昼間汗ふく
かんぴようのわたが流れる日にやけた姉といる
労仂組合を創る夏夕人々目の荒い莚にすわり綿の実摘む人おり洪水のあとの川澄みきつた
土間うす暗い馬一頭と仂く友のくらし飼糧桶あり
雲厚く農婦小麦を蒔く指からぱら〳〵落ち
蝗を煮るわが家の上を白い鳥とぶ
話す間も同志肥料を切り返しふごに入れ
黄にふる銀杏の下におり吾が身が小さい
野坂さん予算の嘘を云う僕達の良心のごとく菊あり
霜柱どろ〳〵とけ黒い馬日南を駆ける
萱が束ねてあるわが声のひゞき
俺達蝗を煎つてたべそこに税金が来た
妻が自転車のハンドルをおさえた炭俵をおろす
藷をすこし貰つて喜んだ夕べの水々しい春の雲
つぎ〳〵税金くる油菜すこしたべ闘う気持だ
硝子炉に石炭ほうりこむ音響きわが部屋  

第十七回

凍 雲-その2
 妻病む 一句
おまえ座蒲団を敷け野蒜味噌つけてたべる
地にかぶりつくようしどみは咲き我等はどこでも前進する
石炭殻に雨ふる家の鶏が生んだ温い卵手にとり
煙草が苗床に芽生えぶこつにものを言う
青いキャベツがひとつ味噌が底にあるみそがめ
畑のキャベツ花立ち天皇のふとつた顔をかんじてる
 耳鳴りを病み 一句
頭蓋骨に穴あけて血をとりたい気持青葉に雨ふり
靴型あり木が青々と立ちて靴屋の青年
子供の着物を作ろう妻は帯の縫目をほごす夏の日
松葉牡丹の花咲きアルミの銭をいじる時あり
驟雨草をうつ新憲法を踏みにじる芦田を憎み
夏草深い大きい牛の体ブラツシかけてる
汁をこぼして幼い子供秋夕たべるちいさい蛤
煮干こぼれ町から帰つて来て包を妻に渡し
夜チヤブ台かこみ脚をもぐ蝗がうず高くなり
ふてぶてしく縞の着物の小母さん包どつかり置き
曇り日牛の臓物を売つているそれを買うて人ごみに入り
稲妻のきらめき雹降るなかの桃の木と花と
散乱する雹こつ〳〵としてもてば掌にとけ
ふとい竹一本植えた此処に住みついて開拓の人等地の起伏
いづかたも早春の山が禿山だ鍬がかつちり光つて木の根を打つ
畠の隅に石ころを積み農民の気持麦伸びたり
体ねつある夏蜜柑をすゝる妻の前歯が欠けて
 同志前田武夫君死す 二句
枯草の畷がでこぼこだ同志の棺を送る薄暮のなか
夜枯野を帰る同志を焼くあか〳〵わがうしろ
夕映のなかにトラックの響きずんと没する冬の陽
草枯れる砂利を篩い女は砂利を箱にあけて背負う
冷たくインクに汚れ革のローラーをもつ若い甥の顔
空の一方かまきりじつと動かない白い卵をうみ
赤旗壁にかけ冬夜オルグ達かたまつてねる
 東條等の処刑をきく  一句
戦犯の首を絞めるのだしんかん晴れた初冬の空
いくらでも工場の汚水が流れ切れぎれの冬の雲
黒豆煮る中共が勝つ喜びを妻と話しあう
皿のざらめ日なたでふかしたパンを喰う
外套を子供にかけ固い餅を焼く
此奴ジャンバーの襟立てゝ軍鶏を抱いてる
頬かぶりして友達茄子苗の油障子上げて見る眼ざし
破れたシャツの袖口で子供は騒ぎながら春の日くれる
友は行商の儲けを話して炬燵の俺に顔を近づけた
ビラはりおわり子供へ林檎一個買うて妻は笑つた
早春の星いつぱいの空だ妻とビラはつて歩く妻の手の冷え
疲労もろ〳〵の家具のかたち夏蜜柑をわかち食う
雪曇り汚れた蒲団綿かたづける妻の大きいまなこ
壜一本障子の陰に光り子供に着せる下着つくろつて
溝の青い泥妻はとき〴〵鋭く子を呼び
早春の木まばらに立ち行商に行く鋸を車体にしばる
小雪ふる藷をふかす風に火の粉が散り
旗立ち同志壇上の声静かにひびき白髪の光り
桐の花ありわが袷の着物の汚れ
家のまわり草深い子がすこし痩せ葛湯をなめる
馬鈴薯背負つた人汗垂し芥溜め雑草のたけ
夏場で仕事がない生温いトマトを喰う夜
ぶちこんだポンプ井戸の水が溢れまだ濁つている汗をふく
やんま一ぴき部屋うち女は口あいてねむる
部屋の隅に撒いてDDT子供ごろ〳〵ねむり
 徳田書記長遭難の写真をみて 一句
ダイナマイト投げられ徳田さん素裸の体若々しい
病院を出て鈴懸まだ青くわかめ一把買う
綿畑枯れる姉は痩せた体野良着きて
土くれひろ〴〵秋が来緬羊木柵に体すりつける
 党地区事務所建つ 一句
我等事務所をもつ同志のどよめきをかんじてる
子供と黒玉を買う燕とぶ群集の前うしろ
亀の子哀歓なく売られ木の芽緑を含み
雨ふり鯨肉買うてくる道辺の小米の花
いつも僕等に彼等の目辛夷の花枝に朽ちたり
いつぱい生温い靄だ厚ぼつたく肩掛してゆつくり歩く荷揚達
 義姉板倉を建つ 一句
背戸で筍を煮る手を拭くに喜び溢れ 

 煤煙と靄-その1
何がなんでも借金返えそう家のまんなかにどつかりすわる
木の茂み傷痍の人笛を吹き太鼓をたゝく
裸の子供が糞する痩せた白い鶏がそれをみた
まるで銭がない暑い埃が立つヤツチヤ場のにおい
おかみさん抽斗の銀貨とり出して売りどろりと光る溝の水
俺らの苦悩に象が来でっぷりしたシールズが来た
空地鉄屑のそばで大工妻子と遠く離れて仂き
隣りの菊びつしり蕾み帰京六十日熱い湯を呑み
船が慄えるふかく〳〵外板に船釘を打つ
夕暮れ早く子供は土間にガムを吐き出す
そこへ割栗うちこみすこし雨ふつて来た顔をぬぐう
石垣に氷雨ごかいをとる泥を川底から掻きあげる
自転車が買いたいしよつちう考えていて炭切るとき
煉炭の穴おかみさん赤黒い顔金づまり
妻が昆布巻をまく風にまじりて人声す
湯に行つて来た妻の手を美しいと思う風鳴りて
芦刈つたこゝまで押しよせてこい冬の海
黙つて下駄はいて妻の子宮掻把の金借りに行く
小ビラの束を雨に濡れながらもつて来た婦人党員の豊頬
動物的な疲れ煤煙と靄こもる街に月が出て来た
真黒い椎の木のとこに大工さんが住んで赤児を生んだ
耳鳴り軽く楽しく夕飯をたべて聞く遠い電車の音
下水工事のぎつしり組んだ丸太の底から出て来て俺をまともに見た
柾木の艶々した葉つぱ子供にランドセル買つてやろう
金なく仕事なく薄氷の下に芹を見た
作りずての菜畑に埃り立つ仕事ごつくり無く
夜みづ菜をくうしみ〴〵と平和を欲し
老人夫婦塩辛なめて飯くつてぼろ〳〵筵にこぼす
ここは焦つては駄目だ道にばら〳〵樫の葉が散り
薺の実ちらほらすこし稼いで句会にゆく
わかめの匂いたゞよう売りに来て大柄の女のひと
赤ん坊を負うて飴売りが地べたに飴の鑵を置く

第十八回
煤煙と靄(その二)
濡れた手で人参買つた雲の下を雲がとぶ夕
丘から見える海のうねり明日はメーデーだ
セルでは寒い子供にのませるヒマシ油買いにゆく
妻が連絡にゆく月落ちた路地の角にふつと消える
暮しやゝよくなる妻は内職の銭ためて歯医者に通う
同志留置場におり雪どけの泥日が照る
槇の古葉若葉コッペ二つで昼飯にする
子供が飯をこぼす壁が落ちていて鶏が頭を出す
溝掻廻し金物あさる男をパンパンが見た
ほつそりしたおやぢ子供三人あつて職安にゆく
疲れて素麺たべながら妻の黒子を見た
夜の涼しい風に吹かれてまな板買つた
朝から耳鳴り烈しく生姜をかぢる淋しい
木造船所ばた〳〵首切るそこへひょつこり顔出す碧眼
子供夏休中仂いた金もつて修学旅行にゆく
闇米を買いおかみさんこつこつうごかす小さいプレス
秋深く洋傘直しは洋傘ひろげて足でおさえた
 不句先生死去 一句
どぶろくも作ろう俺の家の青畳の上に不句さんと坐りたい

 手 錠
雨降りまたはれる子供が毛糸を穴だらけに編んだ
目立鑢手にもつて土間にすわる戦争反対だ
日々停電す煉炭にかざす老理髪師のてのひら
台風去つたしんとしてたべる鮪のちあい
がんもどきを喰う何んとなく砂漠を想うとき
大晦日の雨ふるなかちいさい松を買つて
若い大工がたゝき鑿一本一本買溜め薄雪ふんでゆく
飾窓のすべらかな革手袋をみている若い巡査とピストル
妻がふとつて来て白い卵をひとつづゝ卓に置く
晴れ切つた澪杭によする薄氷の光り
こころもち鴨居が低い麦を買つて箱にあける
風吹く天井の塵がおちる義理はかゝさず
俺の夜業にひよつこり来た同志詩人で前歯がない
低い火の見の半鐘さかりの犬は下ばかりむいて
煉瓦三つ四つころがつて火を焚けばよる社宅の子
筵に雛を放つ戦争で三人の子を亡くした大工
銭がない雪の上に犬を繋いだ
 独房にて 六句
まじかに鶏の声す留置場の鉄棒の窓が夜明けだ
霙ふる手をもめば手錠が鳴る
天地に恥じず朝独房で糞するとき
本を読み日がさせば立つて独房の窓を動かし
ひつそり煉瓦壁刑務所のなかに一本の川あり
何か物音す壁に背をつける屈せず
八重桜一本雨ふりつゞくわがくらし
高潮の川の波頭風に吹きまくられ妻と
ズボン買つてくる小さい店浅い箱のわらび
でたらめの講和が来て自転車に空気を入れる
監房を出て十日わが身に木蓮の白さ迫り
三月廿三日 義母死す
母の老いてなほ黒い髪顔にかゝり
反動を憎む人参の花盛りなり
ぢしばり薄い花薄曇りのなかにあり
 五月一日 二句
このとき地の足音のとどろき体を組み
さざ波濠のいろ敵に真向う
 五月卅日 同志桜井君敵の兇弾に倒る 一句
君の血舗道に流れ梅雨ばれの空を二度と見ず

幻 聴(その1)
電車切通しの草みづ〴〵しい鉄骨にペンキ塗りおり
池辺小さい家に住み子供ら池に遊んで魚がよりくる
何んのつもりか子供が軒下に小さい山椒を植えた
蛙鳴いた黙つて間をおいて同志と行く
お婆さん菰刈つて来て乾す降つたり照つたり
梔子咲き庭をだん〳〵貸してしまつた地主のおやぢ
野菜が高い野良犬が骨をかぢる音す
運河の筋舟のくらしに鉄線の花など咲く夕暮れ
舟の子の肋もみえて咲く向日葵
甥の仕事熱心そうして話すとき妹の口元に似て
なが雨よう〳〵あがり臼歯が一本抜けた
日本に自由なく燕泥を啄みて肩の上を飛ぶ
野菊びつしり咲き野菊のなかの炭団工場
しまい胡瓜の高いかおり俺の頭が薄くなったと
 映画 原爆の子 一句
もの言わぬコンクリ壁あり原爆症の少女のいのち
 一碧楼先生七週忌 一句
あらし句会の夜の先生黒いマントを濡らし
ぺンキが臭うペンキやの妻黄胆でねている
秋晴巨大な機械のなかから出て来し美しい男
法華にこりおかみさんの薪割とひとつ七輪
夕べ二日の月あげだまを買つて白菜を煮る妻
魚の臓物がある霜が雪のようにふかく
夜霧三河島都営アパートの暗い階段のぼり
寒い油ボロ燃やし修理工達まじめに話すボーナス
 五、三〇の同志出獄 一句
闘志蜜柑をくう顔が白くなり同志の少女
竹梯子の下だけが草青き日なり
女衒のような気持になつて松のとれた街をあるく
 父なき甥達を思う 一句
霜どけ日が照り幼なくて大人の世界にふれる二人の甥
小雪ふるわけもなく堕胎を思う
沼青いいちにち鋳物工場で鋳物をたゝき
山薯を擂る風がでゝ来た家のはしら
低い屋根の石に日があたる日雇にでゝいて深いまなこ
月賦の金を稼ぐ気だ春朝の浚渫船泥を掻きあげ
妻と映画見にゆく南風に大きくうねる川の波
 映画 ベルリン陥落 一句
建物燃ゆる燃ゆるなほ燃ゆる赤さわが赤旗は
春になって秋刀魚をくう殴つた子供と
蜜柑ちいさい妻の頬骨に風立ちぬ
堀泡立つ草むしる混血児と貧しくその母
黄色い澤庵を切る子供が入学した家のなか
 故郷に妹の小家建つ 一句
今は家が建ち甥達が朝夕に見る初夏の黒髪山
垂れて棕梠の実だいつしんに刄物を研ぐ義眼のひと
遠い煙やすらかな気持紅い足元の虎杖
ペンキ塗る筆ペンキの缶初夏のポプラの下にて
蜆取り婆さんの足元から漣もたゝぬ川面
杉菜まつ青いま倉庫から出て来た男
建具屋の善さん女房不作でよれ〳〵の十円札つまみ
煉瓦屋煉瓦をつむそれに椎の花匂う
梅雨どこも濡れて豆腐屋のおからが懐しい匂う
もちの花梅雨にばら〳〵落ちてそして闇米は暴騰す
土堤のむこうは満潮だだん〳〵地盤がおちる所紫陽花盛り
青紫蘇わつさりしたその刺青した手首がさびしい
家中寝てしまつた梅雨ながびいて室の小さい木椅子
護送車一台通るとある橋の袂のあかめがし梅雨空
親子せつせと仂いて朴を植え葉が茂ればよろこぶ
近代美術館 一句
体いつぱい緑青の流れる女のきびしさを曇り日
米が高い室の隅に蜘蛛がいる巣をはる
職制の圧迫あり秋の日照るとき工場貯水池の水
土管叢のなかに積む其人と土管に照り降りす
どうにもなが雨だ雨音にまじり犬が吠えてる
物価騰りだしぬけに綿を買うと妻が言い出す
夕べの冷え小さい八百屋で玉葱撰つてる
三畳の間借りの若い亭主で女は大粒のぶどう買う
 松川事件被告に 一句
アリバイはつきりした葉鶏頭が地に立つ
おやぢの白髪が光り夾竹桃のひとつ残つた花と
木の実の玩具だいじにもち子供遠足からずぶ濡れで帰り
またインフレ襲来する気配土台の大谷石風化す
水甕に日がさした男リヨウマチで足腰立たず
レバーを喰つたなんとなく寂しい水を呑み
夜疲れてもの想うとき麻の実の粒粒
年寄つて窓硝子一枚の明るさに小菊が銹色で
再軍備三十万に反対そこでどつしり白菜に石を置く
百日咳すこしいゝ子供と茶箪笥の小さい蜜柑
機関車蒸気滊を吐くときいちめんの枯草
ひつじ田のいろ汚れて蒲団干す寮住のひと
其印肉が鮮かだ地主はぬかりなく地代をとる
家出娘パチンコ屋におり日向にはまだ青い草があり
家かげ子供炭切りして箱いつぱいにして
奥歯が抜けた雪がちらつく
砥面凍るくらして二月の膠煮るなる
鱈子買つて雪踏んで妻の細い鼻筋
血を売りこの早春の日子供に乳を含ませ
雪ふる潮油漕船繋がれて銹る
雑踏冬木壜おちている誰もしらず
無骨な女だ何やら小草の黄な花をうつとりみる
鑢だこ削るすでにふさふさ肩に垂れる子供の髪の毛
「どん底」みたいみづ菜をたべる夫婦で   

第十九回 
幻聴(その二)
蕾の桜の木そこからみる鉄工場の奥の深さ
ひまな馬車屋が梅干作るつもりの梅の蕾がびつしり
機械とまり大工場の内部からみる落日だ
塩鮭の切身をたベゴム長をはく
台所のあげ板が腐る後妻また孕み
青い木立の深さ慇懃な腹黒い男で
塔婆あつさり書いた梵妻は脂ぎり
金をかぞえて舗道が溶け猫が死んでる
俺の仕事のうしろ姿を写生した胴を図太く
はとむぎに雨ふるは彷徨の思い
子宮癌ではなかつた温かい饅頭を買う
ブツカキ食ふ体のまわり叢がおいかぶさる
ガス燃ゆるみづ菜伸びきつた一株
賃銀未払なり啞の塗装工の硬いしぐさも
狆に逞しい性慾ぬくい芝生にて澄んだまなこ
養女すくすく育つ初夏の沼で雷魚とつて来た
榎わつさり茂り人が集つて仔犬を品評す
霖雨の霽れ間に釘が腐つた板を干して女
のどかに糊に蝿がくる雨の音雨もりはない
子供と若い草木の朝だぱちんと卵を割る
法華狂信の婆にも溝にも櫻が散り来て
辛夷の花に風強く仏画の浄土は知らず
枳殻の刺艶々に平和がぐつと身に近く
ちつちやな無花果もう生つて妻は少し汗ばみ笑う
晴れて春の日の工場の鍍金槽深くあたり暗く
  古稀祝賀 六義園にて青起さんに
銀髪でさらに若葉のなか悠々とゆく
  平安堂さんに
さんざ世渡りして窯の火の美しさ云う
  後槻さんに
初夏の気魄仕舞一番舞うて元気に笑う
  羽双さんに
欝蒼木立池あれば水の辺にゆく
  耳鳴り猛烈  三句
奥に幻聴あり柾木若葉がきら〳〵光り
耳鳴りの暴風単衣で雨の筋をみる
耳鳴りに息づまり墨で栄螺を写す気になつてる

心を彫る
幼い子供と家にひつそりおれば蕗匂う
草むら心つかれる日白い蝶ひら〳〵す
青いバナナどつさり籠に盛つている声は聞えず
石垣に青い苔生え妻子を優しくす
照りふり百合咲く鏨をひとつ欲しと思えり
  聴神経障害不治言渡さる  二句
唖のようで黐の花の匂にむせる
芦がまつ青俺の耳鳴りの過去とこれから
涼しい青い頭で伜は粘土をこねた
  赤滝鉱泉  二句
我がくらしの苦楽錆色の湯を体にかける
ほゝづき咲いた貧しき鉱泉宿の人々
とゞのつまり聾になつて耳の奥に軍歌聞える金貸しにもなつてみたい魚を焼いた網が燃えてる
妻小鯵をさき骨をとる暑さよう〳〵去りし
金魚死に絶えたこまめに錆釘で塀を繕う
僕に狂人の意識あり暗い地面白粉の花
黒い小猫と戯れる単衣で白髪がふえ
ブザーが鳴る踏切番しつかりと電車みつめ葉鶏頭高く
飛行機雲の一筋珠数玉の実はかえりみられず
水溜りに赤のまんまと顔を映している黙り
がらくたあり冷え〴〵玩具工場のなかで飯くつて
  藤浪小道具工房  一句
天窓十月の雲の影ありそして端然として作る鎧の色
貸がとれないふとい蚯蚓が這いだした石をはがした
ばた〳〵霜月で月経不順のしぐさ海苔をあぶって
まづは美人で椎の実土手で拾うハンケチをだし
寒い無花果に繋がれて柴犬が人に狎れぬ
きり〳〵箍をしめ桶屋がおつとりした後妻をもち
勢いつぱいもの固い男の歳末に白いもやし散らばる
耳鳴り烈しい目に在る冬の蒼い天
深さ晴れた冬空の氷の上の仔犬
駄菓子をポケット歳末の街をゆく船底を歩む如くに
つき纒うくらしの不安冬靄うすらいで光る川面
ゆくて歳末の笹の葉が散りなまこ屋根の筋筋
葦が朽ちる聾に寒い靄が押し寄せて来た
倖餅の黴を削り豆炭をつぎ足して
  平安堂増築を祝う  一句
家をみあげ堅い芽のさらに日にむいて沙羅の一木が
沼の辺の冬木の下で倭鶏が美しく
雪明りに女の痣が鮮かにて
うだつがあがらず青砥で磨いでる
雪が霏々機械は工場の奥の方に据り
庇が温い顔の彫りの深い婆さんが髪を染めてる
春の低気圧漉し水のんで友達子をうみ
葉櫻にて絶望的に橋が腐つてゆく
菠薐草の根元に糸蚯蚓がかたまって動く多淫
まじめに墨打って精悍にお茶をのんでる
犬の抜毛が散りしらじらしい嘘を言つて
子供の顔を彫つているどこかで桜が散つている
  伜家出  二句
伜家出して曇日の紫陽花の葉がうちかさなる
伜を殴り哀し料理前の大鯉が生きていて
  京都にて  一句
あらび漲る鴨川の音友の声が暗くなり
螢光灯が灯り梅雨が深い細菌の世界
情婦ありて額が咲くきりぎしをゆく人
天に合歓の花がいつぱい下剋上に共鳴する
垣に木槿が不如意に咲いて靴下をぬぐ
無智の倖生簀の雷魚ちいさいまなこ
世も末の歯を出して魚を値切る
椎の実まだちいさい仔犬がためらつている湿り
胃の蠕動雲は垂れてコスモスの花
女の老醜の銀杏がしきりに落つる
曼珠沙華あり釈尊は一族をみな殺しされた
梢に椋鳥が来たどこか狡智があつて兄貴の猫背
冬瓜は人の頭に似て想ふ人肉のあじわい
扉にサルビヤの花がそうて修理のきかぬアパートの頽廃
空いつぱいの銀杏の黄葉に克つている
新米出廻る愚直なだけを鼻にかけてる
石焼藷匂う子宮癌でから元気の底がみえる
噂話の主と豆柿と堀に映るどつちみち
瓶底の意識耳鳴りし畳にこぼす青インク
極寒藍色の天妻はわけもなく抜毛を蓄める
堤の草がいつまでも青くて嫉妬の面の美しく
霜柱ぞつくり踏み倒して逃げた男にばつたり逢つた
元旦でお通夜で薄く酒に酔う
減税はもた〳〵し物は騰る水章魚の切口

吉川金次句集第20回

心を彫る(その二)
板の間の冷え砥くそがすこし手に臭う
冬日の光り柔らかにうけやつと出来た面の目鼻
神武以来の好況で冷凍鯨の切身がとけるしたたる
ガスタンク臭う男娼が道を横切る躊らわず
猫柳が光り文句たつぷり
聾で都合のよい時雪柳散り
何か共謀したい気持に白梅が鋭どくて
もいちど春雪が欲しい面の唇に塗りて残る朱の色

妻と印幡沼に遊ぶ  五句
沼を二人でみる鳥が飛んでゆく漣
鷺が僕達から遠く去り沼吹く風音は聾で
櫻はまだ〳〵宗吾さんでおみ鬮を売る坊主が美男
沼は善人の顔して竿が立つてる水温い
日がえりして其とき冷ゆる沼の面てが

メーデーが迫りボイラーのコツクからお湯が滴たたる
皿の朱が乾く大脳が痺れる
白砥やわらかい耳鳴りを忘れ鑿を研ぐ
水爆を発明す蒲公英ひとつふたつほおける虚無感
わつさり紫陽花の葉舞楽の腫面に惚れる

野村萬蔵先生に入門す  一句
僕のゆくてたゞ手にする古作の面の重量感

 谷中天王寺五重塔炎上  三句
焼け爛れて木組の隙に見ゆる青葉と人間
まだ梅雨の焦げた桷が基壇にひとりでに崩れ
焼けて九輪がつくりゆらぐ世のはじめ

それ〴〵海原に向き漁夫の墓が小さい風化す
すべてが放射能をおびてシヤボテンの花いまひらく
子供汗疹だらけ小鈴作りの内職の小鈴が鳴り
土用の丑もすぎ夜の木の間にみゆるテレビの青
業とゆうもの真夏の街裏で羊がまっ黒に汚れて啼く
すつからかんに競輪でとられ目立賃をまけろと言う
疑惑する桃の木の脂に蝶が離れず

男鹿半島にて  三句
美しく相剋し漁夫の屋根の石もの思う
身ひとつ北の海の岩潮泡たまり
すべて命あり俺に荒海の透き徹る

なまはげの面をみる
藻の髪が手にからみつく赤さが映える
白菜の光り人工衛星をみた息を弾ませる
持病をもつ小壁のベニヤ板煤け
福祉事務所の卓に指の欠けた手はつきりひろげ男
すでに冬泥眼の面の慕情が魅せる
金泥一分のひかり泥眼面まぶたに描く
赤貝の殼なまなましい時首を垂れ
白菜をたべる太陽が出て来た
丸鋸のひづみ暖炉燃え
四面のコンクリ壁が猩々の牙白くする
類人猿をよつく眺めひとりでに哀しく雑踏 

【最終回】
二月号まで連載した金次伝が尻切れトンボのように終結しましたので、第二句集「可和波勢」の序文と金次さんの後書きを掲載して新たに最終回といたします。

  序  文             中塚 一碧樓

  凍雲あり顔をあげ枯野をゆく      金 次

 さうだ 顔をあげろ顔をあげて力強く元気で行かう、今は首をうなだれてうろうろしてゐる場合ではない。皆んなで胸を張って堂々と行くべきである。
 空に見ゆるものは寒々とした雲のそればかりであり地の草は一やうに枯れ果ててゐる一いろである。この天とさうしてこの地と、僕たち実に堪え難いさみしさではあるが、今や僕たち敢然と顔をあげて行くべきである。
 一句によって作者の内に張ってゐる気魄を見て欣ばしく又頼もしくも思ふ、同時に皆んなでこの意気でありたく切に希ふ処である。
―指針を計す―

      〇
川はぜの小さきを愛づ若い同志のごとく  金 次

 小さい川はぜは、その形はあまりいい方とは云へないが、思ひの外に活発であり多少おかしみを持ってゐて何となく親しみを持てるものである。作者がこの小さい川はぜを同志のやうに感じた事は大いに頷き得る事で、川はぜは何の粉飾も知らない素朴な感じがするのである。川はぜに親しみ川はぜを愛する作者の心持は「若い同志」で誠に鮮やかに表現されており、作者そのものの持つ心情も良く出てゐると思はれるのである。
 同じ作者の句に「綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき」というのがある、綿の花の黄に革命の歎びを云ってゐる所素晴しいと思ふのであるが「大き歓びの」と云ふ表現の仕方が却ってこの大きな歓びの気勢を弱くしてゐると思へる、この点に不満はあるが心をひかれた一句であり「革命」「革命といふ」などと詠ってゐる石川啄木にこの一句を見せたいといふやうな気持がするのであった。                                      ―句評(絶筆)―

  あとがき              吉川 金次
 愛児を失った悲しみの余り「せきれい集」を出版してから十余年たった。戦争中過労の為発病した内耳障害は不治となって、寸刻も休みなしに私を苛んだ。其為勇躍して参加した共産党の運動も断念するを止むなきにいたった。

 生活に疲れ果て、暴風のような耳鳴りに虚無な絶望感に襲われた。そうした時にいつも温かく激励し援助してくれたのは海紅の友達だった。

 戦争中私たち世代の大多数がそうであったように、私も野良犬のような気持に追い込まれた。戦後、はじめて句を作った時、一碧楼先生は「今こそ顔をあげてゆくべきである」と励ましてくれた。それからは伏し目であるいたことはない。それがせめての恩師への答えであると思っている。

 今私は、小さな峠に立った気持だ、前途には畳々とした山脈を望んでいる。

 第二句集に私の画像を描いてくれた青起先生もすでに亡い。

 句集をまとめるに当たって、平安堂さん後規さん騾子君の献身的な協力があった。叉口語俳句の市川一男さんが親切な印刷屋の福田さんを紹介して下さったのも、私にとって大きな喜びだ.私はこれらの人々に大声で「有難う」とお礼を言わして貰う。
  一九五八年 三月二十五日

参考文献

 句集「せきれい」「可和波勢(かわはぜ)」
 大著「氏家の俳句史」 「のこぎり一代上・下」(農文協)
 「鋸を打つ」(舷燈社)
                                    完