吉川金次伝《よしかわきんじでん》
第一回 中塚唯人
「海紅文庫」第4弾として、「吉川金次句集」を電子書籍化すべく鋭意編纂中である。現在ほぼ完成を見たが、検討事項も多くあり修正中のところ、私の体調の関係でストップしているところである。
そこで金次と一碧楼の戦時中の交遊部分は、俳句の師である中塚一碧楼は吉川金次を才能をことのほか買い、愛弟子として特に目をかけたが二人の交友は非常に興味深いものがあり、その部分を抜粋して今月より何回かに分けて、本誌で先取りし、掲載してみる。
まずは金次氏の年譜に代わるものとして、尾崎騾子先輩の『「可和波勢」解説』(昭和三十三年)を紹介したい。次回は句について取りあげる予定。
「可和波勢」解説 尾崎 騾子 (海紅同人)
畏友金次君が第二句集「かわはぜ」を刊行するにあたり、「従来句集が結社内の同人や知友の間にのみ多く配られていることは意味がない。むしろ、そんな自分の周辺よりも、今まで余り深い関心を示してくれなかった未見の人達に頒ちたい」と言っているので、未見の人の理解のたすけに句集に解説を付けることにし、僕がそれを引受けることになった。
吉川金次は明治四十五年一月五日に生れた。栃木県の産である。鋸目立を業とする。(目立て=のこぎりの歯や、やすり・ひきうすの目などが減って鈍くなったのを鋭くすること。また、その職人)
親代々鍛冶で、父兄と共に二十一才迄田舎で鋸を作っていた。昭和八年上京して工場に入り日給七十銭の生活に堪えられず、金五円の自転車を買って鋸の目立屋を始め、五里霧中の東京で散々街頭を彷徨した。生活と根かぎり闘つたが東京は有難いことに働きさえすれば仕事がありどうやら餓えもしなかった。」と彼自身「千住五年」と言う隨想の中で述べている。二十四才で結婚し一男三女の父であり彼の作品に現われるところから推して彼は非常な愛妻家であり、夫人又稀に見る賢婦人である。東京に十三年暮して、戦争のため昭和二十年郷里氏家町に疎開、終戦後二十四年に千住の現住所に戻った。
学歴は高等小学を終えているだけであって、その後は、あくなき知識慾と、人間放れのした猛烈な独学とで広汎な、と言うよりは該博な学識を備えるに至った。それは独学にあり勝ちな欠陥と、独学でなければ得られない独自の煌めきをもった叡智の堆積とも言うべきものと思われる。
作句上の知友としては義兄に「層雲」の飛南車=小山市次郎(小山智庸氏父君)があるが、句歴としては、もっぱら中塚一碧楼の晩年十数年間を師事して今日の俳句人としての礎をきづいた。一碧楼にとっても晩年の異質な「愛弟子」の一人であったことは彼の第一句集「せきれい」の小序に師愛に満ちた言葉を綴っていることでも知ることが出来る。
「この若者の句、至って素朴であり、至って剛直であって、僕は始めに此人の句に接して一つの驚異を感じ、何やら頼もしい心持にもなったのであった」と初対面の頃を述べ、「その時の句表現は無論稚拙なものであったが、此作者その後の孜々として止まざる句作修行は、新人『吉川』から遂に今日の『「金次』の大をかち得たのである」と結んでいる。
現在金次は「海紅」における独特な作家として欠くべからざる地位を占めているが、俳壇がこうした優れた作家に注目し得ないことは俳壇自身の眼識の貧困の外の何ものでもない。
句集は年代により五つの小題にわかれ、それぞれのテーマともなり、作者の生活の進展をくぎる美しい断層ともなっている。
①凍雲 九六句
昭和二十年より昭和二十四年まで栃木県塩谷郡氏家町蔦地蔵堂に疎開中の作品であり、金次はこの二十年十二月には共産党に入党している。
凍雲あり顔をあげ枯野をゆく
人間金次の峻厳な人生への再出発と見るべきであろう。金次的に生きぬいてゆくためのはげしい再出発である。
蝗をくふかりかり喰ふ父とゐる
夕方そこにくりくり肥つた男の子と韮の花と
十月の夜海を渡つて引揚げて来た妹の足の汚れ
川鯊の小ささを愛づ若い同志のごとく
妻病む 一句
おまへ座蒲団を敷け野びる味噌つけてたべる
綿の花の黄に大き歓びの革命だこのとき
人間と人問のせっぱつまった愛情は彼の作品の精髄であり、父を愛し、妻を愛し人間を愛することから彼の生活と作品が出発する。これは言えば「人間への愛情」の詩篇であって、凍雲九六句いや彼の全作品の中を流れる清冽な響きである。或いは「憎しみ」さえ底にたたえた愛情にゆらいでいる。
②煤煙と靄 五○句
昭和二十四年八月から昭和二十六年末までの作品であり、疎開先を引き揚げて、南千住に帰り、彼は借金をして小さな家を建てる。彼の東京の一隅の毎日の労働が始まるのである。
木の茂み傷痍の人笛を吹き太鼓をたゝく
俺らの苦悩に象が来でっぷりしたシールズが来た
夕暮れ早く子供は土間にガムを吐き出す
黙つて下駄はいて妻の子宮掻把の金借りに行く
昭和二十四年代の東京の一隅に生きる庶民の一人が、自分の周辺をこの様な深い詩情でとらえている。これは皆が知っていて皆が忘れてしまう庶民の唄だ。
船が慓えるふかくふかく外板に船釘をうつ
秋深く洋傘直しは洋傘ひろげて足でおさえた
打ちこまれてゆく釘が厚い船の外板にくいいってゆく、その板と釘と船の感覚をこの作者は的確に描き、洋傘直しの瞬間の動作から、深い人問の嘆きに到達しうる彼である。これは金次作品の独自と言うより俳句作品として未見の世界を開いたものである。しかし
ほつそりしたおやぢ子供三人あつて職安にゆく
のような、彼の深い詩性にじかにふれることなく生れ出た作品も含まれている。これ等はこの作者にして尚詩情以前の作品を生むことのある自由律俳句の詩的完成の困難さを物語っている。
木造船所ばたく首切るそこへひよつこり顔出す碧眼
金次が描きたいもの、作品化したいものの激しい内容のあがきが、かえって、作品化をさまたげている。「煤煙と靄」はこうした欠陥をもっているために一層、たくましい作品の場の拡充を期待させるものがある。
つづく