各地俳況2

 

六花さんという人(第1回)  岐阜   森 命

の六花は雪の意」従ってリククワなのだが、碧梧桐も平安堂もロクカと呼び、それを聴いてロクカと思いこんでいる人もある。別に訂正する必要もないし気になることもない。幼い時から雪が好きで、少年の頃に雪が降るとうれしくてならず、今戸からタケヤの渡しに出て向島へ行き、鐘ヶ渕から汐入りの渡しで帰ったもの、雪の中で飛んだり跳ねたりするのが快かった。それで六花としたのだが、下に花などという字がつくのがイヤになって、碧梧桐に相談したら、いまさらかえなくてもいいでしょうと言われたことがある。深雪の屋(みゆきのや)という別号を使ったこともある。」これは昭和四十年六月に喜谷六花師御自身が語られた俳号の謂れである。

 六花師は碧梧桐高弟であり、大正四年三月の「海紅」発刊に同人として加わり、お亡くなりになる昭和四十三年十二月二十日、九十三歳まで海紅を支えてこられた方である。俳人であると共に、曹洞宗総持寺派の高僧でもありました。

 ここからは六花(りっか)さんと呼ばせていただきます。

 六花さんと言えば「黙っている人」と碧梧桐が命名した如く寡黙を代名詞とされた方でもあります。

 六花さんの語られた話と共にその生涯を振り返りたいと思います。六花さんは明治十年七月十二日、浅草馬道町の仲見世脇に出生されました。五歳の時、浅草橋総泉寺の末庵、松吟庵の祖母の許に養われました。その頃の事を次の様に語られています。

「その頃の総泉寺門前は、ところどころに老松亭々と聳え、浅芽が原という広い野原を控えて、民家も遠く、化地蔵と謂われた丈余の地蔵尊が立ったりして、砂利を掘った跡の池が処々に在り、葭葦など生い茂ってまことに淋しいところでありました。私は総泉寺へ行っても雲水たちが子供など相手にしてくれないので、この原で蟹や蜻蛉を相手に一人遊びすることに慣させたのでした。

 六歳で町の桶田小学校というのへ入学したのですが、学校というても昔のままの寺子屋で、近所の植木屋の老爺が机や硯箱を荷い、お目見えの駄菓子や煎餅を持って寺入りし、ここでようやく子供同士の交りを覚えたのでした」。七歳の年に今戸の父のところへ戻り待乳山小学校に入学して尋常を終わり、浅草小学校に移られます。

十一歳の年、父と訣れます。その後、曹洞宗高等学林(現駒澤大学)、哲学館(現東洋大学)へと学業を納められました。

僧籍には十一歳で入られましたが、実際得度剃髪されたのは明治二十五年四月、浅草総泉寺においてであり十五歳の年でした。

さて、六花さんが初めて句作されたのは、明治二十二年十二歳の時。二六吟社に投句されたのが残っています。

二六吟社とは、二六新報の記者であった子規門下の中村楽天が主宰していて、会場は劇評家であり俳人であった田村西男(女優田村秋子の父)が経営していた上野公園の花山亭でした。そして、明治二十六年、十六歳の時「小日本」の子規選「大」字読込み夏雑詠に

大海や夕立まさに降らんとす    六 花

読売新聞、尾崎紅葉選、雑詠、時計に

露店や道端ながら時計鳴る     六 花

があります。六花の号は、初期にすでに決まっていた様です。

 僧となり、俳句の道にも入り込んだ六花さんは、明治三十年六月、二十歳にて終生の地となる下谷区三ノ輪梅林寺に若い住職として入山されました。梅林寺は江戸時代からの名刹でしたが、前の住職が株に手を出して失敗し寺を売りに出したもので当時四百八十円で買い、さらに二百円をかけて修理をされました。この経緯を詳しく記したものはありませんが、「早く父に訣れ母の切望で本堂もない廃寺の様な梅林寺を手に入れて這入った」と記されています。決して楽な入山ではなかったのですが、結果としてこの入山が、生涯梅林寺の住職として、宗門にあっては大教師、東堂二十八世中興の大和尚として最高の栄位を得られる事になりました。

 明治三十四年十二月、二十四歳で日本派に入り、終生の友人となる小澤碧童と知り合います。後でわかった事ですが、碧童も二六吟社に出たことがあります。

 碧梧桐に会うのはもう少し後です。日露戦争に歩兵第三連隊から応召して、三十八年三月支那本渓湖に衛生兵として出張。十月に召集解除となります。

その直後から碧梧桐に師事する事になります。明治三十六年の「春夏秋冬」冬の部には三句入集しており、すでに日本派での地位は明確なものになっていました。

 三十八年十二月から翌年にかかる第一回「俳三味」に

短日や全く暮るる城の六つ     六 花
木のなくて村は草焚く枯野かな    〃
独栖の書架に器や煮凍りし      〃

等の作品を発表し、自らの俳境を確立させています。

 小澤碧童、大須賀乙字と共に、碧門の三羽烏とうたわ
れました。明治四十年、碧梧桐の手で刊行された「続
春夏秋冬」には、広江八重桜、碧梧桐、菅原師竹、安
斎桜磈子、碧童に続いて第六位の一二二句入集。

「日本俳句鈔第一集」にては、桜磈子、八重桜、師竹に続いて第四位の一三一句が入集しています。

 さらに六花さんは「毎日電報紙」の俳句選者を担当し、俳誌「紙衣(かみこ)」の選者も務められています。

 六花さんの定型俳句時代は、大正元年十二月、当時大阪に居た朱鞘(しゅざや)派の内田易川編により紙衣社から発行された句集「寒烟(かんえん)」の序で大須賀乙字が、

「六花は明治の召坡である。其句の洗練雄勁なる点において召坡以上の作者である。かねて僕の最も敬服している作者である。刻骨鏤心(大変苦労すること)という形容は実に君の句作ぶりに嵌った詞である。構恩縦横という側ではなくむしろ一つ所を深く掘って行く作者である。多作中によい思付を僥倖しようという人とは行き方を全く違えている。ややもすれば逸し去らんとする情と景とを追うて捕風の苦しみに悶く作者である。一見何でもない事のようで実は他の容易に道破し得ざるところを巧妙に詠じている」と述べています。「寒烟」の句より

人の住めば寒烟はあり春を見ず   六 花
川魚の木の芽と光り交はしけり    〃
寒月や盥の水に鼠捕り        〃
町中に燕の落す小鮒かな       〃
葱畑や三葛飾の北の隅        〃

 すでに碧梧桐にとって無くてはならない存在であった六花さんは、「碧門の長老」とも呼ばれ、碧梧桐と共に「新傾向」に邁進しています。

全国行脚中の碧梧桐に代わって「日本及日本人」の地方俳況欄の選者もつとめられていました。 

碧梧桐のお墓三ノ輪の梅林寺にあります。お骨はここと郷里の松山に分骨されましたが、息子の駿氏により枚方へお骨は移されました。墓碑銘は生前碧梧桐が書いたものです。
 六花和尚のお墓も同じく梅林寺にあります。以前はお団子型の趣のあるお墓でしたが、地震により倒壊し、現在は歴代の住職と合祀されています。

六花さんという人(第2回)  岐阜   森 命

 六花さんの定型俳句時代は、大正元年十二月、当時大阪に居た朱鞘派の内田易川編により紙衣社から発行された句集「寒烟(かんえん)」の序で大須賀乙字が、

「六花は明治の召坡である。其句の洗練雄勁なる点において召坡以上の作者である。かねて僕の最も敬服している作者である。刻骨鏤心という形容は実に君の句作ぶりに嵌った詞である。構思縦横という側ではなくむしろ一つ所を深く掘って行く作者である。多作中によい思付を僥倖しようという人とは行き方を全く違えている。ややもすれば逸し去らんとする情と景とを追うて捕風の苦しみに悶く作者である。一見何でもない事のようで実は他の容易に道破し得ざるところを巧妙に詠じている。」と述べています。「寒烟」の句より

人の住めば寒烟はあり春を見ず   六花
川魚の木の芽と光り交はしけり   〃
寒月や盥の水に鼠捕り       〃
町中に燕の落す小鮒かな      〃
葱畑や三葛飾の北の隅       〃

 すでに碧梧桐にとって無くてはならない存在であった六花さんは、「碧門の長老」とも呼ばれ、碧梧桐と共に「新傾向」に邁進しています。

 全国行脚中の碧梧桐に代わって「日本及日本人」の地方俳況欄の選者もつとめられていました。

 少し話がそれますが、六花さんは碁がお好きでありました。梅林寺には榧の五寸、石は二分八厘ぐらいのがあったと海紅同人の田島絹亮氏は語っています。もともと碧梧桐は碁好きで旅行中の折、囲碁の欄を見るため新聞を買ったくらいでした。将棋好きで有名だった滝井折柴も田端時代には盤石を備えていたという事です。棋力の方は六花さんによると「碧先生の方がちょっと上だったでしょう」と言うことでした。

 明治四十四年、碧梧桐等と共に「新傾向」機関誌として「層雲」刊行にたずさわります。季題句の選にも当たりました。しかし層雲が荻原井泉水の個人誌化するに及んで碧梧桐と共に層雲を離れました。
 この頃すでに梅林寺は碧梧桐系の最も有名な句会場になっていました。梅林寺句会は毎月十日と決まっていました。                            
 同時に中村不折、碧梧桐により起こされた「六朝書(りくちょうしょ)」が、六花、小沢碧童、岡田平安堂、塩谷鵜平、伊藤観魚・兼崎地橙孫、細木原青起、井関源八郎等が加わり「龍眠会」として発足しました。そして、機関紙「龍眠(りゅうみん)」が発行されると六花さんは発行人となりました。これより数多く残った六花さんの独自の高雅な書体が出来上がってゆきます。

 いよいよ大正四年三月十五日「海紅」が創刊されます。創刊号は八十六ページを有し、数千部を発刊。表紙は紅色で題字は無論、碧梧桐でした。これより新傾向俳壇は「海紅」系と「層雲」系の二系に分裂することになりました。

 大正十一年十二月、碧梧桐は海紅を離れ、海紅は一碧楼中心となります。六花さんは鵜平、桜磈子と共に海紅に残りました。その後、碧梧桐が「碧」を発刊し、大正十二年関東大震災の後「海紅」が玉島に移り、大正十三年に「東京三昧稿」が発刊されると梅林寺句会は毎月第二土曜に開かれることになります。

 ここで六花さんの寡黙について師の語られたままを記しておきます。
「私の口の重いのは子供の時からで、年をとってから必要にせまられて話をするようになり、多少口が軽くなったのでありますが、若い頃はまことに黙り坊で話下手で話下手だからつい無口になる。寡黙は生まれつきなのですが、或は幼時の環境のせいかも知れない。」

 俳句を作りそめたのも、黙って独りで楽しめるという気持があったかも知れません。海紅堂例会に出席するようになったのも、明治三十五年の春からで、碧梧桐先生も四方太五城等の先輩も、余り多くを語らなかったが、最もよく談笑したのは癖三酔、浅茅君らで、鳴雪翁も相応相槌をうっておられました。席末の私は運坐の十題を作るのに苦しんで、黙々呻吟、人々が談笑の中にいつの間にか句ができているのに恐れを感じたもので、いつも影の如き存在であったのでした。

 同人間で稍々古顔になってからも、不相変黙って坐隅にいるので或る酒席で小沢碧童君から「こんなだんまりな面白くない男はない」ときめつけられ、それでも後から「それでいてこの男がいないと淋しい」と、いってくれたりした。宇佐美不喚洞君も「この男はいつも黙っていて他の言うことを呑み込んでしまう、ずるいぞ」と評したりしました。故平安堂が向島長命寺で、筆供養を修したことがあり、珍蔵の古研筆墨軸物など陳列したので案内をうけて参観した折、偶然一碧楼君も居て会を出てから、何か別れるのが惜しく共に百花園へ足を伸ばしたのでした。早春のまだ枯れがれな園裡を漫歩、水の浅い池辺に枯芦を眺めつつ語ったと思いますが、共に口の重い同士で何を話したのか記憶がないのです。多分とぎれとぎれに園のさびれを話し合った位と思います。(中略)
 おしゃべりをしないから同人談笑の中でも、自然のけもののようになり孤独のようにもなるのですが、不思議に孤独感に襲われることが尠い、人々の話の中にいることが相応に面白く、嫌怠を感じることもないので衆人稠坐の中でも単身閑坐の折でも常に変らず凡庸のままに暮らしていられることは、幼児から今に至る環境のお陰と思っております」                                   

㊟ 「(かんえん)」とは、寒々とした煙や靄を言います。

 

六花さんという人(第3回)  岐阜   森 命
 大正十四年三月、碧梧桐を中心に風間直得を編集人として「三昧」が発刊されると、六花さんは笑風、寒骨等とその同人に加わり

まど下に捨てし水仙を拾ひ去る父の庭あるき                                                                      六 花
子供ら遊び去る草ほつほつと生ひそめし                                                                            〃

等の句がありますが、やがて「三昧」が直得の主導するルビ付俳句には同調できず、初めて碧梧桐と袂を別って「三昧」を去ります。すでに碧梧桐の句作意欲は確かに減退し、国外の旅行に活力を費やしている時でした。

 しかし、六花さんは、たとえどうであろうと碧梧桐と袂を別る事がつらかったのか、三年程句作を休んでいます。

 そんな六花さんに昭和三年十一月、弟子である西垣卍禅子(本名隆満)が、六花句集「梅林句屑」を発行します。発行所は「窓社」東京府南足立郡伊興村字狭間耕地、東陽寺内とあります。卍禅子は戦時下の俳誌統合時に一碧楼と共に「俳句日本」「自由律」誌を担当した人で六花さんと同じく曹洞宗総持寺派の僧侶です。大宮市の東光寺のお施餓鬼で六花さんと一緒になり、白扇に

娘さん冬まちぐさの小切にうつむく  六花

の一句を書いてもらいそれを縁に自由律俳句に入門した人です。

 ちなみにその祝賀会は遠藤古原草、谷口喜作両氏の発企で数寄屋橋ガード下の「花の茶屋」で開かれました。

「梅林句屑」は六花さんの四十代の句を集めたもので、その生活、人となりが充分に詠われた貴重な句集です。

きのふの白魚にて朝餉をし夫婦
古い机を離るる家の蕗を煮る妻
針箱の糸のくさくさに夜よげな妻
冬のあかしのもと足し綿探し来て妻
妻たる喜びの菜の株が明るし
伴ふ妻がまわしの夜露を感ず
しめやかにあり胼早き妻の夜見るよ
妻に裏が廣い柿の木をはなれ青黍
みなよい姑たちで茹蕗を剥ぐなり

と、妻を愛し

夏休みの日課帳母が見る父が見る
子を親戚の者と避暑にやる何かいとほし
芭蕉のそばで遊ばせる子に友を選るなり
子ら鶯餅の青い粉こぼれ
此学年すみなお御経教えん子
夏休み終る夜のさざめき妻と子
蚊帳なきふしどものの屑のように子等寝た

 良純世田谷中学入学 大正十年

二階のない中学よ残雪よ
幮に眠りつつ手にする教科書を除けてやる

と、子を愛し

蚊が出ぬ不思議なやうな小夜着にて母臥し
栗むいて貰う母ならざりしかな
綿入れいくつも重ねてをる母の写真ができた
菊にゆかんとするくつぬぎの母の手とらむ
まといに殊に多き母のそびらの蠅
前にす母のもの子のもののぬき綿

と、母を愛しながら生きた日々を深く刻み込まれています。
 しかし、震災の翌年、大正十三年秋には、その最愛の妻と子を同時に失なわれました。想像を絶することでありますが、句集には唯一句「喪中」として

みなは寝し仏壇とぢてひと夜の布団に入る

があるのみです。

 また震災後の句に

訪ひ来る誰もの渇きに庭の柿むく
またしては堤に上り火の原を見る涙す
恵みのくろ米の風呂敷をあけ半玉である
地震からの墓地のあれの花を持たない梅の木

下町で生まれ、下町を愛した句も多い。

乞食仲間にひたふれ彼岸会の夕
車の軸の油道暖かく
花火の音の夜格子戸の妻向いと語り
古い金魚屋が晴々と酉の町の道
酉の市へ細い町を曲がって我れも赤い浅草の鮨の秋の雨夜で通る

 昭和七年中頃、当時駒沢緑園にあった海紅社へ谷口喜作が訪れました。話の内容は、六花さんが、しばらく休んでいた海紅の句をまた作られる気持ちになって、梅林寺でも句会を持ちたいと言うものでありました。

 そして、喜作さんは、
「もう六花さんの肝は決まっていますよ。」
と、一碧楼に告げました。この時、一碧楼は、何かほのぼのとした顔つきをされたと伝わっています。

 六花さんは、はじめ「慈門」という名を持って誌上に発表され、進んで一碧楼選の雑詠欄に投句されました。
 昭和八年の海紅年頭雑記に「全くの返り新参で云々」
と言っておられます。

 昭和十二年二月一日、河東碧梧桐が豊多摩病院にて敗血症を併発し逝去します。二月五日、梅林寺にて喜谷良哉大和尚として葬儀をとりおこないました。

 この時、門人大谷句仏上人は宗門の違いにより梅林寺の山門前にて合掌をして帰られました。追悼の二句、

更けて人なき街とだけは覚えしその夜の雪の中を 六 花
碧童よ泣け君が泣くによき火鉢ここにある    六 花

六花さんは梅林寺に分骨を得て墓碑を建立されました。

 さらには昭和十六年十一月三日には、碧門にあって最初からの無二の親友であった小沢碧童までが亡くなります。

この人の通夜の時雨同人まゐるべきはまゐり   六 花

 僧としての六花さんは、昭和九年晩春、大本山永平寺に詣で京都を巡っておられます。

 永平寺
祖山の雪を踏む姿だけもむかし人に似た   六 花

 

第四回

昭和十二年秋、海紅同人により六花さんの還暦賀会が開かれました。

うつむいて歩く癖のふと眼をあげ木槿風なく  六 花

 昭和十三年二月大本山老師危篤の報を受け、下野馬頭乾徳寺に趣き、老師遷化荼毘式に列されます。九月には東京曹洞宗宗務所長に就任されました。
 しかし、昭和十四年秋、父五十回忌をいとなまれた後腸患のため順天堂病院入院。十八年四月には急性肺炎に耳下腺炎を併発され、同愛病院に入院。同人細谷不句博士の治療を受けられました。五月二十二日退院されます。
 さらに昭和二十年十二月、復急性肺炎に罹り二ヶ月の入院をされます。

 苛烈な戦争を生きぬき、三ノ輪の寺も戦災から守り、終戦を迎えましたが、昭和二十一年十二月三十一日には最後の自由律俳句の寄り所であった中塚一碧樓が他界しました。明けて一月十九日、梅林寺にて告別式をとり行い「一碧樓直心唯文居士」の法号を送られています。

水仙のもとその濃き黒き髪をまず見し 六 花

 その後六花さんは「海紅」の後見的立場を守られ、昭和三十五年二月「海紅同人句録」の刊行にも力を注がれました。

 また、昭和二十二年には「碧梧桐句集」を出版されました。これは六花さんが明治二十五年頃から大正三年までの河東碧梧桐の作品、約七千句あまりを纏めた原稿を作っておられましたが、出版はされていませんでした。しかし遺族の方に或る不幸があり、それを援助するために印税を送ろうとの意で出版されたもので、題字も「春夏秋冬新年」に分類された二二七一句選もすべて六花さんによるものでした。

 その後、昭和二十九年十二月には、滝井孝作との共編にて角川文庫より「碧梧桐句集」の出版もされました。これは明治二十五年から昭和三年までの句の中から二千三十六句を抽出したものです。
 余談ではありますが、滝井孝作が自らと一碧樓夫婦の事を書いた小説「無限抱擁」の題字も六花さんです。

 そして昭和三十五年五月、昭和七年から昭和三十四年までの六花さんの句五九〇句を集めた六花句集「虚白」が出版されました。この句集出版に最初から一番熱心だったのが岡田平安堂です。用紙、装幀、箱等はすべて平安堂が印刷所、割付け、校正等は、吉川金次、尾崎騾子が担当する事になり、印刷所は金次が「かわはぜ」を出した江戸川区の福田印刷に決まりました。
 造本、装幀は平安堂の独壇場でした。表紙はさらさない麻布。表紙題字は空押し。空押しの下に「良哉」の印の点朱。和紙は平安堂所蔵の手漉。碧梧桐原稿「黙っている人」は手漉和紙刷込み。扉絵は六花所蔵画帳から不折墨絵観音像、青起「蚕虫」、碧梧桐句は紅唐紙。青起画六花像、画像裏に「寿八十四」朱印、となっています。

 五月十三日には、梅林寺にて出版祝賀会が行なわれました。
 祝賀会の席上、六花さんは「虚白とは、むしろ無きに如かずの意で、私の句なぞない方がいいのだ」という意味の事を言われました。
「虚白」の後記には「草稿を整え鈔録にかかって見ると今更に採るべき句のないのに落胆せざるを得ない、削っても削っても削りつきず、寧ろ虚白物無きに如かずの感が深い」と書いておられます。

 この句集は六花さんの老境に入ってからが日記のように詠まれています。

父を知るものわれ残り古き日の父の手焙
秋の日その油よごれの服も顔もよ善人
山は誘ふ山行くべし地べたに蕾もつしどみ
桜一木が花遅く一泊して近く暁けし山
冬雲山が嶺を見せず迫るに家
臘八この日を待てるやう餅おこす母あり
紫陽花の中へ飛び生えし竹一竿未だ除かず
山に残暑のうす雲憩ふまづ樋の口により
銀河しるき夜なり草高き路少し拡がり
焦土のどこから葭切来鳴くわが寺焼かず
芍薬を剪るわれは護るこの小さな法城
少年雪を釣る春の雪水をふくみ釣れる
筍を掘る湖水明けきらぬなり
作りて箒木もひとむら仏祖の奴僕として
遊ぶ少年らと隔たり私もそこで雪をつかむ
欅に花あり農家なり子を抱いてその母
雲雀が鳴く外のうす白い鳥も鳴く河原が夏
桐の木桐の花鼻と耳と大きく吾が顔

「虚白」最初のページにある青起画の「六花画像」そのものである。青起の画く六花像はどれも鼻と耳が大きく六花さんもお気入りだったようです。

単衣を著る人であることを願ひし一念にこの年
霜晴山の女に飛んで山鳥
今日単衣着る去来抄なかなか詞闘はす
水瀬早きにちる穂のすすき風淅瀝とけさ
石蕗の花はものを思わす想ふて亡き人々
綿入身に重き老ひてまだ母の齢に及ばぬ
干潟あさる犬に餌なし人ら火を焚けばそこへ来て
麒麟は高き桜の葉を食みたくありたけの首を伸ばしとどかず
平遠雪の鳥海なり私列車にていたはられ旅する
十七歳僧となり寺に秋来れば曼珠沙華あかく
蕗の薹と橙と双光この室
 この句は昭和三十四年の作ですが、昭和四十三年十一月二十八日、曹洞宗干係誌「総和」正月号用に揮毫され、それが絶筆となりました。 ㊟絶筆では〝雙壁〝となっていますが、句集では〝双光〟となっています。

病めば愉しなり年の柿がつづり枝々
病脚運び難し持仏に紫苑のたけを剪らしむ
紫苑に靄が来る良哉汝楽しくもあるか

 しかし、この年の二月、平安堂が北千住の病院に入院手術。病床の人となり、遂に八月二十八日、七十四歳にて逝去しました。六花さんは、昭和三十三年一月二十七日七十三歳にて逝去された細木原青起に続いて無二の大俳友を梅林寺にて送る事になりました。

 平安堂とは、大正十四年春、母梅(むめ)さん逝去より岡田家の菩提寺となっていました。
 思えば松山の碧梧桐、岡山の一碧樓、同じく岡山の青起、京都の平安堂という俳界の功労者を江戸っ子の六花さんが送られた事になります。

 平安堂とは、東京九段坂にある「筆匠平安堂」の創始者で、本名岡田久次郎、本名をもじって「葵雨城」と号した。最初は、「水月」と号し、一時「夜色」とも号しました。
 明治十九年、京都に生れました。早くに父を亡くし母と共に上京され、明治四十一年に母の文具店を受け継ぎ、平安堂を始められました。その筆を通じ、夏目漱石、中村不折、平櫛田中、浜田庄司、藤田嗣治、南方熊楠など多方面の方々と交流されました。

筆造りの生涯冬日の筆つくりやまず    葵雨城
松に芯たつ店に良き筆をうる倖せに生きる 平安堂

 昭和三十九年六月十四日、青葉繁る皇居内で「六花翁米寿祝賀の会」が行なわれました。この会場は海紅同人福島一思が宮内庁に勤務していて、その尽力で開かれたものです。その祝辞の中から二ツばかり記します。

「碧梧桐が新傾向を唱導し自由律に移って活躍したのも実は六花さんがあったればこそだ。碧梧桐の句評はヘタクソときめつける。六花さんはニコニコしながら良否を言われる。一碧樓はいい句をほめて悪口を言わぬ」と松宮寒骨は述べ、「時代かもしれぬが、最近の句会はざつぱくでしまりがない。我々は碧梧桐の指導もあったが、六花さんによってひきしめられ、集っては句作し、旅行したりした」と木下笑風は語っています。

 

六花さんという人(最終回)  岐阜   森 命
 昭和四十二年四月二十八日夜、せい夫人が七十九歳で亡くなりました。
 その後も同人句録に原稿を書き、編集部より寄付の御遠慮を申し上げても、それを断られていました。それは「碧梧桐の主唱で刊行した「竜眠」が五十九号限りで中止したのも会費が集まらず、碧梧桐はいろいろ心配してくれたが、私が貧乏で負担しきれなかったので止めてしまった」との思いがあるからでした。

 この年の春、梅林寺の建て替えを決断された六花さんでしたが、一番心を悩ませたのは境内の樹木の事でした。同人句録七月号に「別れる」と題して書かれています。六花さんの苦しい心中を表しているので一部を記載します。

「このたびの普請で遣瀬ない思いをさせられたのは庭樹の始末である。工事者の大成建設では全部伐らせてくれという。余りに惜しくて可哀想なので考えたすえ、区の公園に寄付すべく区役所に申し込むことにした。区では大分歓んだ様子で課長が下見に来た。椎ノ木や槻、銀杏の大きくないものを欲しいと言って二車程運び去ったが外の木は遂に取りに来ない。そのうち工事者が整地を急ぎ出し一日で伐り捨てられてしまった。銀杏の大樹は樹齢三百五十年余りで、明治四十二年大震災の際には私はこの木に登って四方の火災を望み見たのであった。電気鋸を執る工夫の不敵な顔が鬼か魔のように憎いが只傍観する外はないのである。

 柿の木も亦惜しかった。明治初年頃、この地に金座役人宅が在り、その園内に残った只一樹で邸宅が四十二年の震災で焼失。昭和四年区画整理で梅林寺境内となってから今日までつづき柿の木も年々美しい実りに我を人を歓ばせていた。

家と共に古りし柿の木に愛着黒々冬木にて      六 花
柿の木につく椋鳥を追ったり愉しんでいる穂草をひく 六 花
 淋しいわびしい。建築工事は順調らしく、来春落成の暁、別れ去った樹樹は一本も見るを得ないのである」

 昭和四十三年八月十八日、完成した梅林寺で松宮寒骨追悼句会が行なわれました。追悼句会は是非六花先生のお寺でという松宮涼子夫人の希望を受け、この六月二十五日八十五歳で亡くなった寒骨の追悼句会一切を、自らの手で準備されたのでした。折しも八月十五日には血圧の異常があったのでしたが出席者には知らされていませんでした。

 十二月に入り、碧梧桐三十三年忌の法要と句会を、四十四年二月二日の日曜日と決め「次の三十七年忌は、それまでは生きられぬ。今度こそ私の最後の奉仕の忌日だろう」と言われ「碧忌など忘れられてしまうでしょう」とも言われました。それだけにこの句会にかける思いは強く、参加者については、

「滝井君は遠くて気の毒だから私から挨拶します。寒骨君の時のように海紅の人だけにして、ケガをして寝ているという平安堂夫人や黒門町の喜作夫人など句を作らない人たち、それから俳誌関係の人も今度はお呼びしないでやりましょう。食事も千住の気に入らぬとニギらない愉快なおやじのすしがいい。それにここで吸い物を作ろう。お酒も少し寄付すればよかろう。河東家に長く務められたおしんちゃんが亡くなった通知があったから、この法要もしてやりたい」
等と愉快でたまらない表情で話されたとの事であります。

 十二月十九日に滝井孝作に宛てた手紙があれだけ多く書かれた六花さんの絶筆となりました。
 二十日朝、何の変わりもなく起きられた六花さんは、いつも新聞を取りに出られるのですがこの朝は嗣子宗光和尚が庭から「ハイおじいちゃん」と言って差し出した朝刊を「アイヨ」と言って受け取り、そのまま寝床の傍らにおいて湯タンポをだかえて洗面所に行かれました。
 ところが間もなく大声で家人を呼ばれ、その声が異常だったので宗光和尚夫妻が駆け寄ってみると、六花さんは洗面所に崩折れるように倒れていて「くるしいんだよ」と言われ夫妻が両方から扶け起そうとすると、「いいよ、いいよ、ひとりでいくよ」と自分で立とうとされました。夫妻が折角来たんだから連れてって上げますよと、笑いのうちに寝床へはこんで寝かされました。苦しそうな呼吸でしたが「折角お医者が呉れてるんだから心臓の薬をのもうよ」と言われたので、宗光夫人が薬を出していると、ふと呼吸が静かになったのに気付いて呼ばれたが答えがありませんでした。すでに六花さんは逝ってしまわれていたのでした。

 その葬儀は総持寺貫主岩本勝俊禅師を導師とし本山三役によって宗門稀な盛儀となり、携わる百十名の僧侶によって行われました。宗光和尚によりますと、
「おじいちゃんが死後の何もかも一切私どもは連絡すればいいまでに遺言していたことが判ったんです。俳句関係は騾子さんと夢舟さんにと電話番号まで書いてあったし、自分が息を引取ったらまず、どこへどの様に連絡するか、それらの事務の分担をどの寺の誰にお願いするかまで、びっくりする程微細な点まで書いてありました」
と言うことでした。

 遺偈は毎年書いておられ数字だけは変えられていました。最後のは夫人の命日四月二十八日に書かれたもので

風風雨雨九十三年
忘禅遊句礫石百千

とあり、今は表装されて本堂にあります。

木槿咲く時を咲く終わるときは終ろう今生  六 花

                           完