各地俳況2

ハバタキ

ーマ 「句評」
 仲野利三郎師がまだお元気であったころ、毎月の海紅が来るとまず句評から読むのだと言っておられたのを思い出し、現在の句評が利三郎師にまず一番に読んでもらえる句評であるのかと疑問がわいてきたので、私なりに句評とはどうあるべきかと考えてみました。

 平成元年十月号の句評が、私にとって句評とはこうあるべしと思っている句評なので、ここに紹介したいと思っています。その前に、まだ学生だった私に、九貫十中花師の句集「赤城根」の読後感を書いてみよ、という話が来ました。まだ書評や句評など書けるような身分ではありませんので、いろいろな先輩にどうすればよいのかを聞いてみました。その時言われたのは、作品にも、作者にも敬意を持って、正直に、自分の思ったことを素直に書けばよいと教えられました。この時、句評とは、してあげるものではなく、させてもらうのだと教えられました。現在の句評を見ていると、このさせてもらうのだという部分が少し欠けているように感じてしまうのです。平成元年十月号句評より

好んで白湯を呑むこの夏てのひら        山崎多加士 
【草薙猷逸】海紅人の修練を重ねた年輪は、かくも素晴らしい句を生むのだろう。無技巧の技巧は寸分の無駄を許さない秀句。全く恐れ入りました。
【森 命】井戸水は生水でも白湯でもおいしいもの、また今は、名水なるものがブームです。作者の愛飲がいずれにしても「好んで」が大へん強く効いています。若手がこのように詠んではしらけてしまうところ。いやが上にも年輪を感じさせる句です。前フレーズに対し「この夏てのひら」は私にはむつかしい表現。勉強不足深謝。
【池辺 圭】まことに簡素な表現で種々の思い凝縮の句。出だしで結句いかにと心騒ぐ、と最高の結び。こんな完成作品に接すると俳句の限界を感じ逆に一瞬悲しく虚しくなる私です。しかし〝てのひら〟とは・・・・頭下がります。
【新田巣州】西田幾多郎氏は「文化とは自然を自己の手段とすることではない。自然の奥底に自己を見出すのである」と云っているが、この句正に自然の奥底に自己を見出している。香いも味も消した白湯の淡白さが、作者の生活態度を素足の素朴さに表現しています。

 この一句を句評に取り上げると言って、四人の名前を見たとき私は、「この三人相手では命君が委縮してしまわないか心配です」と言ったところ、檀師が、「この一句がそうさせないから心配しなくてもいいよ」と言ったのを思い出して、さすがの慧眼と思ったのです。もちろん、海紅若手の中で一番一碧楼を解っていると言われた山崎多加士さんの晩年の最高傑作として歴史に残る作品ですから、このような句評がされたのも当然なのかもしれませんが、当時若手であった森命君にとっては本当によき経験となったことだと思います。

そこでこの句評のように、何名かの合評を見てみたいと思うのです。年齢、性別、経験などの違いから、どのような違いが出てくるのか、そこから新しい一句の鑑賞の違いがどのように存在するのかを見てゆくと新たな発見があるのではと思っています。現在の句評において、この様な句評を行うのは難しいのかなとも思いますが、検討してもよいのではと思っています。(耕司)

では当の山崎多加士師はどのような句評をお書きになっていたかというと

青葉かぜふく午后からのものうりがいて       山崎 寒郎
 午后からのものうりが居るんです。それでいいんです。平俗のなかに澄むこころの出色の一句と思います。青葉風ふく、は格調があり、清冽な水の音が聴こえるようです。後半仮名書きであるのも、流石はと思うのでありました。

今日は火山の如く女のたそがれコスモスの花     船木 恵美
 怖い句だなと思う。たそがれに彼女のロマンがあり、コスモスの花の知性ほのかに匂ふ。ある日その迸る情熱をきわめて自然に黄昏とコスモスにただよわせた。今日は・・・このイントロが確りしているし、恵美さんの芸域、それを想うのであった。

 その他、近藤佳子さんの端的な句評は鋭い刃物のような切れ味があり、歯に衣着せぬ物言いは痛快でした。

ラーメン食べ会社食堂なんとなく年末            中塚 季之
 これは身辺雑記のような御作です。この通りなのでしょうが、これだけで終わってしまいそうです。

ガスの元栓をしめ厨夜のタオルが凍っていた         末永ゆき女
「夜のタオル凍っていた」は良いと思います。「が」は説明です。しかし、上の句はどうもいただけません。「ガスの元栓をしめ」は、たしかにその行動は具体的で判りますが、こう説明していただくと、そうですか、と、言いたくなります。でも、「夜のタオル」は発見です。

をんな髪染めて家を出づるに冬日まぶしく    桶家 青二
 大変散文的で、凝縮された精神を感じません。もっと作者の感じたものを、言葉の奥から引きずり出して見せて頂きたいと思います。

美酒に酔い柿かかえ北風まかせ         岩村 操子
 人間の行動を順序を追って述べられておりますが、これでは行動記録であり、言葉の持つ感性がまったくありません。

桐の花道路を紫に汚している気持        岩崎 星屑
 散ってしまった桐の花の様子はよく判りますが、道路という語句に余韻のないこと、汚しているという形容も出来たら使いたくないです。気持ちは作者の気持ちでしょうか、それとも桐の花のでしょうか。ちょっと唐突な感じもしました。

母待つ子の素足口笛鰯雲の空          桑名 蘭子
 名詞が出揃ってひとつのリズムを作っても詩にはならないようです。口笛、鰯雲と名詞同志がそれぞれ勝手な方向に歩きはじめ、収拾がつかなくなり、オヘソのない句になりました。

冬日に疎まれ葦の水から野づらまで       佐藤 宏
 冬日に疎まれると云うのが判りません。冬日は鈍い光しかもっていない冬の太陽のことか、冬の一日のことか。ただ「葦の水から野づらまで」の言葉は、ひろがりがあり美しい詩句です。

 当時の同人たちがどれほど真摯に俳句に向き合っていたかが判るような気がいたします。(吉明)

七月号の担当        田中耕司 平林吉明