鬼貫という人(うえじまおにつら) 中塚唯人
上島鬼貫(1661年5月2日~1738年9月15日)
(うえじまおにつら)
その三 (これ以前はこの稿の最後に一と二があります)
それにしても十八、二十歳の若者が大枚のお金をはたいて、自費出版の本を何冊も出せたのかは不明である。俳諧学者の研究では、今の金額で二十から三十万円とも言われている。
そんな若者も二十五歳の時に大阪に出た。どうやら武士になったようだ。名前を宗邇と名乗ったようだ。その間のことを「藤原宗邇伝」の冒頭から書き出しておく。
寛文元年四月四日辰上刻摂州川辺郡伊丹郷に生まれる。
童名竹松、長て利左衛門宗邇と称る。追て藤九郎と改む。また半蔵と改む。常に懐ふ我れ世々物種にして今何ぞ野処に安んぜん哉。有縁の主人を求め武名を立てて祖を顕さん。是又人に議らずしては得難しと先づ学問のためにと大阪を出て浪人又医の中を徘徊す。
とあるので大阪に出て「浪人又医の中を徘徊」して立身出世の道を探したのである。結果としては強引なpRの後に二十七歳で筑後三池に召し抱えられ三十一歳の時には大和郡山藩に仕官することになる。だいたいの物語はこのくらいにして、ここから鬼貫の言うところの「まことの外に誹諧なし」を考察してみよう。
鬼貫が最初に感銘を受けた天下の芭蕉の句は
古池や蛙飛びこむ水の音
鶯や餅に糞する縁の先
この二句にあった。目の前にある物をそのまま詠んだものだ。
一句目は「蛙」とは和歌の雅の世界では、清流に住む「カジカ」のことをいうが、芭蕉はこれをそんじょそこいらの古池にいるガマガエルにしてしまった。また「カジカ」はその鳴き声を詠むべきものを飛び込む音に変えてしまったのだ。
二句目の鶯はこれも雅の世界では梅の木にくるべきものを、俗な世界の縁側に飛んでこさせて、しかも糞をするという不始末をさせてしまった。この二句では雅の世界ではとても考えられない、とんでもないことをやってのけたのだ。
これに快哉した鬼貫は
から井戸に飛びそこなひし蛙かな
鶯か梅の小枝に糞をして
と作ったがこれはどう比べても芭蕉に軍配が上がるというものだ。
また芭蕉句に
よく見れば薺花咲く垣根かな
と言う句があり、鬼貫は
六日八日中に七日のなづな哉
と詠んだ。この句は六日と八日の真ん中に七日があるよ。その七日は七草粥の日でその中には「なづな(春の七草)」が入っているよということだ。二人は同じように薺を見ているが芭蕉は目の前の薺を、鬼貫は言葉の中の薺を見ている。このへんとなると俳諧の癖が出てまだまだ芭蕉の敵ではなかったようだ。
鬼貫は五十八歳の頃大阪に移住したが「独ごと」という中で次の様な俳諧観を示している。そこの書き出しで
徘徊の道は、あさきに似て深くやすきに似てつたわりがたし。初心の時は浅きよりふかきに入り、至りて後は深きよりあさきに出づとか聞きし。
これは一般論でもあるが、俳諧=俳句は初心者に作りやすい。五七五と指を折ってつくれば、俳句らしきものはすぐ出来る。ただしほんとうに良い句を作ろうとするとこれは奥が深くそうは簡単にはできない。つまり初心者は深さを目指し、上級者はその深さを軽く浅く表そうとすると鬼貫はいう。それ即ち晩年の芭蕉が軽みの境地を説いたのはその具体例なのだ。さらに続けると
むかしは人の心すなほにして、初中後を経しかど、今はその修行する人だにすくなく、心皆さきにはしりて、いつしか人もゆるさぬ上手になりけらし。これをおもふに、俳諧は、只当座の化口にして、根もなきいひ草ナリと、かろき事におもへるなるべし。
つまりは昔の人は心が素直だったから、初・中・後と順序を経て修行した。今の人は、順序を踏まず、自分は上手だと独善的に思い込んでしまう。このようなことになるのは、俳諧をその場限りの化口(軽口)と見なし、根も葉もない言い捨てだと、軽く考えているからだろうということに思いは至った。
そして鬼貫開眼の句は
谷水や石も歌詠む山桜
この句は古今和歌集の仮名序である「生きとし生けるものいづれか、歌を詠まざりける」を下地に作られているところにまだ旧俳諧の面影は残るが、ものをも言わぬ谷水や石にも歌を詠ませたくなるほど春を絶賛している斬新な句と思う。
鳥はまだ口もほどけず初ざくら
初桜が咲いても寒さが厳しい頃だろう。鳥は寒さにまだ啼いていない。それを「口もほどけず」とはよくもいったものだ。
桃の木へ雀吐出す鬼瓦
鬼瓦の蔭から出てくる雀を、ただありのまままに手を加えず表現している。それも怖い顔をした鬼瓦が雀を吐きだすなどの物言いは、それだけでも笑ってしまう。
にょっぽりと秋の空なる不二の山
「にょっぽり」とは「にょっきり」という意味らしいが、思いもつかぬ言葉で表現しているところが鬼貫らしいのではないか。
この「平生の心」、いわゆる目の前の当たり前のことをあたりまえに句にすることで人の意表を突いており、鬼貫ようやく面目躍如と言ったところで、やっと「まことの外に俳諧はなし」の境地にたどり着いたのです。
鬼貫の見出した『平常心の心』こそ彼の言う「まことの外に俳諧はなし」と述べました。一碧樓はこれを
「二百何年か前に伊丹の上島鬼貫は厳然として『まことの外に俳諧なし』と言い放っています。これは随分古めかしい言いぶりであり、随分広く知られている言葉でもあるが今もいきいきとしている至言であって僕たちの心持も突きつめた所この鬼貫の一言に尽くされているような心持がするのである」と述べています。これは一碧樓にとっても俳句に於ける最終境地ではないでしょうか。ただしこの「まこと」に対しては明確には一碧樓本人により語られてはいません。しかしそのヒントは残されています。それはたとうるならば、赤子が花を見て、あるいは夕方に子供が外へ出て星を見つけ『きれい』と言う気持」、これが一碧樓のまことだと言えましょう。
海紅創刊号の「選の後に」では 「私は句の本質において今少しハートからハートへ響く様なものがありたいと思います。私とてもヘッドと言うものを全然問題外にするのではないが、あまりに味の無い、作り上げた様な句の多いことに失望した」として 「ヘッドのものではなくハートからのもので流れてくる詩のおもい」と言っています。決して頭で作り上げた句を否定しているのではありません。それは鬼貫の「まこと」と同じく、「自己の体内から自然と生まれ出でたおもい」、それを「詩のおもい」と言っているのだと思います。言い換えれば「発見」であり「心の動き」とでもいえましょうか。これを感得するのは達人の境地でなければ到達できるものでは無く、一碧樓の生涯を通じて辿り着いた最高の句境だと思います。一碧樓自身もそれを精神論や教義のようなものとして残してはいません。各「海紅人」が己自身で己自身の境地に達せよと言うことに外ならないと思います。自由律俳句に於いて革新=自己変革は生命線であり、そこに於いては決して定型に劣ってはならないのです。しかしそれが何なのかを今一度真剣に考えてみて下さい。それが自由律俳句復権の一つの道しるべになると私は思います。※参考文献『上島鬼貫』坪内稔典(神戸新聞総合出版センター)・『鬼貫句選・独ごと』(岩波文庫)、『鬼貫の「独ごと』復本一郎(講談社)を参考にさせて貰いました。
『完』
【序】(前期までの稿、このあとに前文が繫がります)
その一
私がある日海紅社の書庫を整理していると、半紙に閉じられた本という体裁を成していない、言って みれば閉じものが出てきた。表紙もなければ題名もない、まして奥付もなくただ日本閉じの古ぼけた本らしきものである。虫食いもあり今にもバラバラになりそうなので、そうっと開いてみると「鬼貫」の文字が飛び込んできた。そう、海紅人ならば一度は耳にした名前だ。ところがさすがに年代物であるから、現代語ではなく読むのに一苦労だ。それでも目次があり「伊丹鬼貫伝」「鬼貫句選」「鬼貫文集」「ひとりごと」等々と書いてあるから、恐る恐るめくってみると、これはもしかすると自由律俳句を生み出した我が祖父の中塚一碧樓が、晩年辿り着いた自由律俳句の境地に大きく影響を与えた、「まことの外に誹諧なし」を書いた上島鬼貫の本ではないかと気がついた。それも書庫の隅に埋もれるように出て来たもので、おそらく一碧樓と先代社主の檀と私以外の人がじっくり手にしたことがないシロモノものだと思われる。魅入られるようにこの本に取り付いたものの、なにしろ読むのが難しい。そこで図書館や古書店をネットで調べたが、資料が少なくおおごとになったと思いながらも、手に入る本を揃えこの本、いや閉じものに果敢に挑んでみることにした。
【鬼貫伝】
元禄の時代「西の鬼貫、東の芭蕉」と呼ばれた二大俳人がいた。芭蕉については語るまでもないだろう。俳人と言ってもこの時代は俳諧師と呼ばれており、俳句というのは明治の時代に正岡子規が言い出したものであるが、ここでは俳人としておく。(「俳諧」という文字も「誹諧」であった)
鬼貫は、現在の兵庫県伊丹市で万治四年(一六六一)に生まれた。この元禄という時期は関ヶ原の戦いが終結し、江戸幕府が開かれたのが慶長八年(一六〇三)で、世の中が安定期に入り、江戸時代の最初の文化が開花し、松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門などが活躍した庶民文化の全盛期の元禄の世である。この時代の日本は当時の世界の歴史においても民衆がどこの国よりも自由に恵まれ、演劇と絵画だけをとっても、日本の絢爛華麗な歌舞伎や、後にヨーロッパの近代絵画に「ジャポニズム」として大きな影響を与えた浮世絵も町民のものだった。芭蕉が正保元年(一六四四)生まれであるから、鬼貫は一七歳年下だ。むしろその弟子の宝井其角と同世代であった。しかし鬼貫は八歳の時に
こいこいといへど蛍がとんでゆく
と詠んでこれ以来若くして作句を始めたのだ。またこれから話す、「まことの外に誹諧なし」と看破したのは貞享二年(一六八五)であって、これが芭蕉の蕉風開眼とほぼ同時期に当たることから、鬼貫と芭蕉は、同時代の俳人と言ってもいいだろう。
まずは松尾芭蕉について話を始めよう。ここの部分はほかのところでも書いたことがあるが、自由律俳句の根幹に関わるところであるので、耳をかっぽじって聞いて、いや読んで貰いたい。
芭蕉は俳聖と呼ばれたほどの有名人だ。じゃあどれ程偉かったかだが、この時代の文学と呼ばれるジャンルには「詩歌連俳」と呼ばれ漢詩・和歌・連歌・俳諧の四つが当時の日本にあった詩型である。このうち詩歌連の三つが言わば日本の正当な詩型と言われていた。それを芭蕉は「詩歌連俳はともに風雅なり」と宣言し、俳諧も「詩歌連」と並び立つ風雅とみなしたのである。それどころか、漢詩や和歌、連歌が詠まない素材まで俳諧は詠むというのだ。
和歌の神様と言えば紀貫之(八七二~九四五?)だ。この人は『古今和歌集』の編集等を通して、和歌の本質、歴史、歌体などを明らかにした人で、芭蕉はこの人に対抗し、さらに俳諧の独自性を示すために立ち上がったのだ。
貫之は『古今和歌集』の仮名序でこう述べていた。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける
「花に鳴く鶯、水に住む蛙」は和歌が作った美の極致である。芭蕉はこの貫之の言葉に抵抗し
鶯や餅に糞する縁の先
古池や蛙飛びこむ水の音
と詠んだ。和歌では花と呼べばたいていは、雅の代表である梅か桜を言った。(桜よりむしろ梅が定説のようだが)
これに対して大胆不適というか、芭蕉は常識に反して極めて日常的な、俗とも言える縁側の先に鶯を呼び寄せ、しかもそこにある餅に糞までさせたのである。和歌では糞などまったく詠むことはなく、雅の対極にある俗の代表物を詠んだのだ。蛙もしかりである。これもカエルではなく清流で鳴くカワズなのだ。それを鳴くのではなく飛ばせてしまったのだ。そのうえ、舞台も清流ではなく古池にして、このように和歌の常識を逸脱し、雅の世界ではとうてい考えられない俗の世界を詠むことに、俳諧の世界の存在理由を見出したのだ。
和歌においては使ってはいけない言葉がある。使って良いのは雅な言葉(歌語)が決まっており、それらは「古今和歌集」などに載っていた。つまりは和歌を詠むにはそれなりの貴族的な知識が必要で、学問のない庶民には手の届かないところにあったのだ。だから鶯は桜か梅の花にやってくるもので、縁側のような日常的なところへ来るはずはなく、ましてこれも俗な食べ物の餅、まして糞などという雅の世界の詩歌に出てこない言葉は御法度なのだ。蛙も、和歌では清流で鳴くカジカであり、古池に飛びこむガマやヒキガエルではないのだ。このように芭蕉は雅の対極にある、俗の世界に突き抜けることでその存在価値を見出そうとしたのだ。
この事は元禄時代の、貴族や武士、上流階級の階層ではなく、いわゆる庶民に、俳諧を日本語の新たな詩として愛する人々に圧倒的に人気を博した。
芭蕉の本当の偉大さはここにある。芭蕉は字余りや字足らずの句を多く作り、ここでも斬新さを十分発揮し、今でいう自由律俳句の先鞭をつけたと言っていいだろう。ただし季語だけからは抜け出せなかった。それはその頃の主流の連句の、一番最初の発句を独立させ俳句としたので、発句に季語、いわゆる季節の設定がなければ連句は成立しないからである。したがって連句は俳句とは呼ばない。一句として独立していないからだ。そうして次に上島鬼貫が登場する。
さて本題の鬼貫である。伊丹の酒造業・油屋の三男坊で、末の息子に生まれたが、長兄は早世したので実際は次男坊だった。家業の酒屋は兄が継ぎ、鬼貫は気ままに道楽息子として俳諧に夢中になった。
鬼貫の名字の上島の読みは出自からは「かみじま」であるが、通常「うえしま」または「うえじま」と呼称される。まあこのへんは「おにつら」が読めればよろしいのでは。字は治房、通称を輿三兵衛、あるいは三郎兵衛、惣右衛門、惣兵衛という。
槿花翁(きんかおう)、馬楽堂(ばらくどう)、囉々哩(ららり)、犬居士(いぬこじ)、仏兄(さとえ)等(とう)の諸号(しょごう)もある。武士として出仕していた時代は藤原宗邇(ふじわらむねちか)と名乗り、幼名は竹松。長じて利左衛門宗邇となった。後には藤九郎と改め、さらに後には半蔵と理由は解らぬが色々名乗っていたようだ。
鬼貫には芭蕉への対抗意識が強く表れており、この俳号は先に述べた芭蕉の俳諧感を強く意識したもので、鬼貫も同じよう紀貫之(きのつらゆき)に対抗しているのだ。貫之はいわば正道をまっしぐらにすすむ詩歌の王者だ。それに対する鬼貫は、世間から観れば正統から逸脱した亡者のようなものだ。つまり貫之は雅の世界を堂々と歩む「花の貫之」であり、それに対して鬼貫は花から一番遠い俗の権化である「鬼の貫之」だ。ともかくもこの時代は、紀貫之や「古今和歌集」を抜きにして詩歌を語ることは出来ない時代だった。「鬼の貫之」を持ってして「花の貫之」にまっこうから、大胆にも挑戦状を叩きつけたのが鬼貫の名前の由来なのだ。
坪内稔典氏の『上島鬼貫(神戸新聞総合出版センター)』から引用させてもらうと、青年時代の鬼貫はもっぱら風流の人で、その次の中年期に武士になり、そして晩年は市井の風流人になったようで、鬼貫の生涯を三期に分けて考えている。
青年期 貞享元年(一六八四)年二十四歳まで。伊丹の若者たちと俳諧に熱中した。
中年期 貞享二年から享保二(一七一七)年まで。二十五歳から五十七歳にあたり、伊丹を離れ、武士として生きようとした。
晩年期 享保三年から七十八歳で亡くなる元文三(一七三八)年まで。享保三年には俳句観をまとめた独(ひとり)ごと』を刊行し、続いて『藤原宗邇伝』、『仏兄七久万』などをまとめ、この時期に自分の生涯を自分で整理しようとした。
鬼貫は八歳の時から句を作り始めたが、十二歳の時に俳諧師維舟(いしゅう)と言う人に句をみてもらい、長点、つまりは最高評価を受けた。
その句は
一声も七文字は郭公(ほととぎす)
鳥のホトトギスの鳴き声は、「テッペンカケタカ」と聞こえるそうである。してみるとこの鳴き声、たしかに文字数が七を越えている。つまりはこの句は謎々であり「一声も七文字はあり」は? の問いに「ホトトギスはテッペンカケタカ!」だとの答えだ。鬼貫の時代には、このような謎々とか見立てという言葉遊びが流行ったのだ。
もともと一六世紀から俳諧は連歌師の間で、連歌の会の余興としてもてあそんでいたが、やがて、専門の俳諧師が現れるようになる。
江戸時代の初めにはまずは京都で松永貞徳を中心に流行した。その一派を貞門と呼び、俳諧史では貞門俳諧と呼ばれている。貞德は和歌や、連歌などの大家で、江戸時代初期の大文化人であった。彼は当初、和歌に入門する前段階として俳諧を勧めた。なにしろ和歌を詠むには『古今和歌集』や『源氏物語』のような知識が必要だ。つまりは、和歌において使用してよい、何度も登場するみやびな言葉(歌語)が決まっており、それを学ぶためには先のような本を読まなくてはいけないわけだ。つまり和歌はそう簡単に学問の素養のない庶民が急に詠むのには敷居が高いのだ。そこで貞德はまず和歌を詠む前段階として俳諧を勧めたのであった。貞德によると、俳諧(はいかい)俳言(はいごん)を用いた詩歌であった。俳言とは歌語、つまりは和歌では用いない言葉、つまりは俗語、縁語、掛詞流行語(はやりことば)などで、庶民の得意な日用語であるから、それで作ることは容易だ。貞徳は初め、俳諧を和歌や連歌に進むための一段階とする考え方を示していたが、俳諧を作ることで詩歌になれ、次の段階で和歌に進めばいいというわけだ。
松永貞德にはこんなエピソードがある。
あるところで会が催され、貞德が一足先に帰ろうとしたら、その家の主人が籠に盛った見事な熟柿を見せ、「これを発句にせずば返さじ」と引き留めた。貞德先生即座に、
かきくけこ
と作った。皆がどうなることかと固唾を呑んだところ、貞德、少しも動ぜず
くはではいかで
と続けた。そうして、貞德さんちょっと間をいて、ゆっくりと
たちつてと
と書き、これでにっこり笑っておしまいだ。
かきくけこくはでいかでたちつてと
もうおわかりであろう。「この柿を食べないでどうして立ち去れるだろうか。食べてから立つよ」と言うことである。ここで注目するのは、右の句で俳言(和歌では使用しない言葉)は柿である。柿は古くからある果物だが、食べ物の名は何度も言うが俗語であり、和歌では御法度なのである。
鬼貫の最初の先生は先に出てきた松江維舟だ。この人は京都の人で、後に離脱したが貞德の七人の高弟の一人で、寛永一三(一六七三)年に鬼貫の住む伊丹にやって来た。あの郭公の句を作って、維舟に長点(最高評価)をもらった翌年で、この時に鬼貫は維舟に入門したと思われる。その翌年にも維舟は、弟子の春隈、千之、池田宗旦を引き連れてやってきた。彼等は十数日を伊丹で過ごし、この維舟一行の来遊が、伊丹に伊丹風と呼ばれる俳諧を盛んとした。
貞德を中心とする貞門俳諧の時代は寛永年間から約五十年続いた。ただ貞德にはもともと歌学者としての保守的な面があったので、「俳諧も和歌の一体」という観点があり、俳諧よりも和歌を優位とする保守的なひとであった。貞門俳諧を古風・正風と呼ぶのはそれが起因する。
貞門俳諧はことば遊びの滑稽を主としたが、見立や付合がマンネリズムに陥り、そのうえ貞德は俗語やことわざ、あるいは漢語を「俳言」と規定し、この「俳言」を重視する貞門俳諧は、きわめてわかりやすく、広く庶民層に 俳諧 を普及させる役割を果たしたが、形式的な「俳言」の規定は類型化を招き、陳腐で平板なものになり独創性を失った。しかしそれより新鮮で、より大胆で、強烈な滑稽感の表出をねらい、貞德の言う和歌の権威ともかかわりない、「すいた事してあそぶにはしかじ」とする、大阪の西山宗因らの談林派に圧倒された。これを新風・異風と呼ぶ。
談林派は寛文中期(一六六〇年の中頃)からのわずか十数年間で燃焼し尽くしたが、実にさまざまな言葉遊びが実践され、その最たるものが、井原西鶴の一昼夜に神社の境内で、二万三千五百句詠んだ矢数俳諧は、ただただひたすら早さを競うだけの俳句ショーを行ったものもある。一六九〇年代(元禄期)以降は、江戸にいた芭蕉らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が現れ、さらにこれらに取って代わったのである。
さて松江維舟が伊丹にやって来たときに話を戻そう。維舟が伊丹へやって来たのは鬼貫が十四歳、延宝二(一六七四)年で、宗旦などを引き連れやってきた。この頃は京都の談林俳諧が盛んであったので、鬼貫も維舟一行たちを迎えて興奮したのであった。なにしろ先年鬼貫の句に長点を 付けた維舟先生がやって来たのだ。この一行の中で、伊丹をえらく気に入ったのが、酒好きだった池田宗旦である。彼は生来の酒好きが高じて、伊丹でその名を知られた伊丹酒を毎日飲むために、そのまま住みつき、私塾「也雲軒」を開いたのだ。也雲軒は漢文、国文、俳諧などを教えたので、今度は俳諧好きの鬼貫たちが入り浸りとなった。このとき宗旦三十九歳で、鬼貫より二五歳年長であった。その頃を「其此世に匂へる梅の翁をはじめ名だたる俳師、也雲の扉を扣きて来れる時々をならべずといふ事なし」と自分の自伝に書いている。「梅の翁」は西山宗因。也雲軒は鬼貫たちのたまり場であり、そこにおいて、色々な俳人たちと出会ったのである。 そして鬼貫の俳諧熱はさらにヒートアップし鬼貫一八歳の時には『当流籠抜』(宗旦監修・也雲軒の作品集)、二〇歳の時には『俳道恵能録』(鬼貫独吟百句)、『俳諧無分別』等を次々と刊行するのである。
つづく