海紅とは

大正4年3月、河東碧梧桐により、「ホトトギス」の高浜虚子に対し、碧門下の総力を結集し、革新俳句の中心人物である中塚一碧楼を総編集責任者として創刊。その後1000号を超える自由律俳句の主流として令和4年5月号で通巻
1218集を迎える。自由律俳句創始者は(広辞苑では荻原井泉水とされているが)、 現在では資料研究によって自由律俳句を最初に標榜したのは中塚一碧楼であることが 明らかにされている。

 ◎中塚一碧楼(なかつかいっぺきろう)   

 【略歴】 明治20年9月24日、岡山県浅口郡玉島村(現・岡山県倉敷市勇崎)の旧家で製塩業等を営む中塚銀太の四男に生れる。 明治33年岡山中学に入学。翌、明治40年早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し本格的に俳句を目指す。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。明治41年から日本俳句に投句を始める。明治42年第二次全国遍歴中(続三千里)の憧れの碧梧桐を城崎温泉に尋ね15日間にわたり師弟は俳三昧を続ける。この際、碧梧桐より「半ば自覚せぬ天才の煥発である」と評される。 明治43年兵庫県飾磨郡(現・兵庫県姫路市)で素麺問屋を営む濱田家の婿養子となるも、すぐに商家の道に合わず離縁となり玉島に戻る。碧梧桐の門下となるも碧梧桐が荻原井泉水らと出版する俳誌『層雲』には参加せず、『自選俳句』を郷里にて出版し、強烈な選や改作をする碧梧桐に反発し、選者否定論を発表する。翌、明治44年には再び早稲田大学文科に入学する。この年『試作』を創刊して「自由律」初めて標榜し、碧門下から謀反人呼ばわりをされ一時碧梧桐から遠ざかった。のち大正元年に早大を再び中退し帰郷。新聞『日本』俳句欄に投句。新傾向の作家として頭角を表す。 1915年(大正4年)碧門下と和解し、碧梧桐を主宰、一碧楼を総編集者として俳誌『海紅(かいこう)』を創刊。層雲と並び自由律俳句の中心誌となる。のち碧梧桐が海紅を去り一碧楼が主宰者となる。また、『朝日俳壇』選者もつとめた。 第二次大戦の終戦間もない1946年(昭和21年)大晦日、59歳でその生涯を閉じた。なおその忌日にちなんで東京都世田谷区の現海紅社では「やみ汁句会」が開かれている。

  【句 集】                                                                                                                                   「はかぐら」 明治41から大正2年・「第二句集」以後大正9年まで・「朝」大正13年まで・「多摩川」昭和2年まで・「芝生」昭和7年まで・「杜」昭和10年末まで・「若林」昭和17年1月まで・「上馬」昭和21年1月まで・「冬海」昭和21年終焉まで。これらを纏めたのが「海紅文庫」にある「冬海・一碧楼全句集」です。

  絶句 病めば布団のそと冬海の青きを覚え

海紅編集委員紹介

中塚唯人(なかつかただと)現・海紅社主 昭和24年東京都世田谷区生まれ。平成5年父であり「海紅」二代目社主中塚 檀(なかつかまゆみ)の急逝にともない三代目社主となる。俳句はその時から始め、現在は歴史ある「海紅誌」の伝統を守りつつ、自由律俳句の復権を目指す。

〇平林 吉明(ひらばやしよしあき)昭和54年、俳人山崎多加士と出合い自由律俳句を作り始める。同年、『海紅』同人となり中塚檀氏に師事する。

〇上塚 功子(かみつかこうこ)元海紅同人編集者の故河合栄氏長女、昭和59年から『海紅』に投句」

〇吉川通子(よしかわみちこ)上塚功子の妹。同じく昭和59年より『海紅』へ投句。

〇森 命(もりみこと)昭和29年生まれ岐阜県出身。海紅同人、森みちかげ次男、。父みちかげ没後、「海紅」社主中塚檀先生の御厚意により入門。現在、編集委員。