三月号―新年号作品より
赤壺詩社新年句会(倉敷)一月八日 児島「清香」にて
唯人さんを迎えて
初春右に富士従え走る走る南へ走る 唯 人
大根人参里芋丸くまあるく餡入雑煮 節
農閑期カラスも居ない あきら
缶ぶらさげ若者ひとり墓碑の前 順 子
孫帰り月光の静寂 多計士
なくし物出てこず仕舞いの大みそか 幸 子
暮れ行く速さ焼酎も早め きいち
風花降るフロントガラスに青空 知 子
朝時雨背中に受けて心に受けて としかつ
秋深く我が影踏んで散歩する 洋一郎
なぎの瀬戸日の出の光跡燃えたぎる 秀 子
椿一輪先駆けて咲く山頂 史 郎
あの笑顔あのあたり冬雲うごく 鈴 子
サザンカネット句会(目黒)一月十三日鷹番住区センター
再会はジャングルジムのてっぺんで 智英実
家の群れモン・サン・ミシェルとなり 凛
憤怒―震えているちぎりこんにゃくの山 色 正
師走のセラミック今かけぬける 崇 譜
サマーゾンビいいえ立ち枯れた向日葵 あづき
寒潮が渦巻く父は憎まれ役でよい 叶
自他ともに赤ずきん(やっぱりメディチ家かな)ちゃん
とつき
ゆきゆきて 残る一本の筋 指に触れ 祥 子
ことばのはへんで手をきった 耳 彦
きゅうみんガジュマルおきろおきろ水あげる 聡
コブシの莟が光りはじめたわたくしお正月 耕 司
阿良野句会(浜松)一月十六日 加代居
庭先の南天玄関華やか 美代子
たわわに実った南天新しい年を待つ 千栄子
家中のカレンダー新しくして甲辰迎え 加 代
七草粥に息災ねがう私の命 愛 子
しらさぎ句会(東京)一月二十・二十一日 テレ句会
白梅は十郎小町開きかけ蕾三つ四つ 功 子
新年初っぱな試されている日本力 通 子
お飾りの橙海鼠にかけて締める松の内 さ ち
山野に春の息吹を聞く昨日今日 毅
さん橋句会(逗子)一月二十八日 逗子市民交流センター
停止信号車中沈黙 清 仁
赤青黄の電車どれが好き? 由紀子
薄日差す白い世界を歩く 夕香里
子らと瞬く四万トンの進水式 のりこ
半島日薄くさす山が見え海が見え 吉 明
電車の中まで長い影 清 仁
影追いかけて傷も縫いつけた 由紀子
格安生地で縫うほっこりと 夕香里
湯船でほっとする冷たさ のりこ
青ネギの束の冷たさを抱える 吉 明
男の背中レジ袋からネギ 清 仁
男の背中に咲いた薔薇の花 由紀子
薔薇背負ってネギ背負って男前 夕香里
枯れゆく花にお日様はいつも通り のりこ
宵闇せまれば有楽町いつもの通り 吉 明
四月号―二月号作品より 若木 はるか 選
かなしみの極地に立つかなしみくんはきっと全盲 岩渕 幸弘
何があったのか、悲しみの極地に作者は立っていると言います。ここまでは主観、下句は客観的考察に切り替わります。悲しみのあまりこんなにまわりが見えなくなるのなら、かなしみというものはきっと全盲なのだろうと。「かなしみくん」とくん付けしているのが、自分から悲しみを切り離して擬人化して見つめているようで、その境地に至るしかなかったかなしみの深さを思う。この客観性によってかろうじて自分を守っているようにも思える。同時に「くん」のあたたかさに救われる。
おしゃべり利き手の錆びていく 大川 崇譜
何か作業中だったのだろうか、おしゃべりしているうちに、手が止まってしまって…という状況を思い浮かべた。利き手が錆びるという表現が面白い。
母国語のようにしみたはんぺん待っている 〃
の句も面白かった。「母国語のように」という喩えが秀逸と思いました。
ゆどうふふふふふふびどうしててまよ 石川 聡
「ふふふふふふ」と「してて」がそのまま微動する湯豆腐の様子をあらわすという仕掛け。「まよ」は真夜だろう。同時に「手間よ」が隠されているのかもしれない。
ロダンの考える人孤独の背に降るイチョウ 上塚 功子
これは映像が鮮やかに浮かぶ一句。孤独に俯く考える人、その背に絶え間なく降る黄金のイチョウという対比がとても良いと思う。孤独に見えて、実は孤独ではないのだ。気づかないだけで。イチョウの映像がとても鮮やかで豪華なイメージ。
小春日続く水仙すっくと夜の隅 中村 加代
咲きはじめたツバキ全身でひかりつかむ 原 鈴子
まだいた冬の蝶のそこは日だまり 〃
角曲がれば吹きっさらしの道わかっている 〃
それしか道がないならそれが私 〃
朽ちてなお鳥居 松田 寛生
足跡一人の雪野原 〃
山茶花の川面にひとひら流れゆく 三戸 英昭
七句すべて山茶花をモチーフに詠んでいますが、この最後の句が一番良いと思います。推敲、試行錯誤を繰り返すこの姿勢は買うべきものと思います。ガッツがあります。
そこで次は、ぜひ一番良い一句を選んで出す、ということをして欲しい。どれが良いのか、選ぶ基準はどうなのか、そういうところを鍛えていくと良いと思います。海紅同人の皆さんも多かれ少なかれ、一つのモチーフを見つけたら、いろいろなパターンを考えて、その中から選ぶという作業をしているはず。そうして、選んだ一句を提出しています。せっかく七句出せるのですから、狙い澄ました、選び抜いたものを七句、出してください。
もうひとつ、たぶん一句を考えるとき、575で言葉が出てくるタイプなのだろうと思いますが、そうして出てきたものをそのままではなく、崩してみてください。例えばこの句なら
さざんかひとひら流れゆく川のおもて
にすると4/4/5/6のリズムになります。さらに一単語ごとに漢字にするかひらがな(あるいはカタカナ)にするかも検討してください。
575のリズムは非常に強力です。575という型に当てはめるとそれなりに言いたいことがかたちになる感覚があると思いますが、「型」は月並、陳腐に陥りやすいという欠点をもはらんでいます。575に支配されているままではもったいない。自由律俳句の醍醐味は自分でリズム(律)を刻むことです。575でもこれは自由律俳句だな、と思わせる句を詠むのは、実は高等テクニックで、ハードルが高いことなのです。あとは、モチーフ選びについて。ありがちなモチーフを選ばない、または、ありがちなモチーフなら切り口をありがちにしないことです。対象をよく観察して、自分の内側から出てくる気付きや感覚を拾って形にしてください。期待しています。
底冷えする真っ暗な海にぽつんと漂っている 無 一
娘三人分のアルバムこの家冬陽さす 森 命
赤い実がいっぱい少女の進路決まり来る 〃
冬陽のあたたかさが伝わってきます。この家のたどってきた幸せにしみじみあたためられますね。
五月号―三月号作品より
中塚 唯人 選
今月は復活海紅ネット句会「俳三昧」の句を取り上げてみる。初回という事もあり、地方で一人で句作に励んでいる人や、海紅に入って比較的日の浅い人を選んで声を掛けてみた。そこに古くからの同人を交え自由で心開いた新旧忌憚のない句評をお願いした。初めてのことであり、まだ様子見の感もあるが、こういう機会を得て先輩達は自己の自由律俳句を築いていったのであり、人の句を読む、人の評を聞くこの交互の切磋琢磨が海紅俳句を発展させていったことを踏まえ新境地を目指していただきたい。
日輪に手を伸ばす、朽ちていく私 寛 生
手を伸ばす。「、」は、要らないかなという評が多かった句。
形は出来上がっているのでここを省略していけるようになるべく努力していったらいいと思います。
妻叫ぶ「髪切り過ぎた」と乙女顔 英 昭
乙女の顔をして叫んでいる奥様が可愛らしいです。句材は特別に探さなくてもどこにでもあります。力の抜けた愛情籠もるいい句ですね。
雨空と青空の距離を歩いている 晴 正
スケールの大きな題材で魅力的な句ですが、少し未消化なところが残念です。作者も意味が読み取れて情緒豊かな句を目指したいと言っているので期待大です。
梅でも桜でもどっちでもいいよねメジロ 幸 三
メジロにとってはどちらでもいいよと、ちょこちょこ木の枝をただ動きまわっているようです。そんなことを思いながら梅を愛でている作者の余裕がいいですねえ。
クリスマスローズよ俯くなお天道様は空にあり 唯 人
私の句ですが、クリスマスローズの花はいつも下を向いて、それも永いこと咲きます。そこで励ましてみたのです。「なお」と続けて読まれるのも紛らわしいので『クリマスズローズよ顔上げろお天道様は空にあり』にします。
薄っすら雪よごれてゆく優しい嘘 吉 明
「優しい嘘」が誘います。雪が汚れていくのは切ないとか、薄く積もる雪が『優しい嘘』で社会の汚さを隠してくれるがその雪さえも汚れてゆく、とも読まれています。
そして偽善者の嘘は汚れてゆく雪だと作者は言っています。読み手に委ねられる句は難しいです。
障子に破れありお雛様の覗き窓 森 命
見立てもよろしいし、ユーモアもあって自由律俳句らしい句です。さすがベテラン、この辺はお茶の子さいさいと言ったところでしょう。
如月に 山いぶきだす 鳥の声 史 郎
五七五で作った句なのか結果的にそうなったのかは分かりませんが、一字開けは特別に意識してつくったものではないそうです。ただ名詞止めすると動きがなくなるので、『鳥の声』を前に持ってくると、それにつられて山がいぶきだすようになると思います。
次回も皆さんでもっともっと意見を出し、楽しくやりましょう。
杉本 由紀子 選
しばらくぶり姉は同じキッチンスポンジ 大川 崇譜
微笑ましい句ですね。久しぶりにお姉様のお宅に行かれたのでしょう。そして楽しい会話もありお台所に行ったら、キッチンスポンジがいつも自分が使われてのと同じだった。姉妹の絆のようなものを感じます。そのスポンジはピンクでしょうか?
風になびく芒の穂フラダンス 原 鈴子
芒の穂は冬の間、ずっとその場所にあります。最初は勢いもまだある穂ですが、だんだん乾燥してきてフワフワになってもずっとその場所にあります。何故かそれが、ずうっと気になって何か良い表現がないかと探していました。フラダンスという表現がぴったりだなと感じます。
作者の気付きに驚かされたと同時に嬉しくなりました。
考え事をして雪の終着駅 松田 寛生
考え事をして電車に乗られていて気がついたら、終着駅に着いていた。歌の歌詞のようですね。終着駅という響きだけで、とても遠くて寂しい気持ちになりますが、そこには雪も降っていたらなおさらです。作者の心情も強く感じます。心象風景としても良い句だと思います。
哀しい顔だったかどこかの子犬が寄ってくる 吉川 通子
作者に何かしら哀しいと思う出来事が、あったのでしょうか? 犬は不思議です。人の心を読んでしまうようなことがあります。私の飼い犬は、私が哀しい時や何か辛い時に「どうしたの? 何かあったの?」という風に寄って来て顔を覗いてきます。
どこかの子犬だから偶然、道で出会ったのでしようが、きっと子犬が作者の優しさに近づいてきたのかもしれません。興味深い句でした。
もったいないこと捨てられないことあなたを縫いとめる針
若木はるか
もったいないと捨てられないで生きている人は沢山いるでしょう。そしてここで作者もそうであるのだなと共感を覚えました。断捨離という言葉がありますが、私はとうていできません。そして、そのもったいないこと捨てられないことがあなたと言っているので、長い月日にできている相手との関係性や深い情を強く感じます。そして、反対に作者が縫い止める針と言っていることが、とても冷静で客感性も感じる魅力的な句です。
北風か山もうずくまる 森 直弥
北風が吹きはじめ冬到来を感じたのでしょう。山もうずくまってしまうぐらいに感じた作者の表現がユニークでもあり、繊細さを感じました。山がうずくまるという表現は作者のオリジナルティーのある句! だと思いました。
手帳書くこともなく一年過ぎた 安達千栄子
手帳を書く暇もなく一年が過ぎることもあるでしょうが、作者は書くこともなくと言っているので、書く必要もなくと言っているのでしょう。私は忙しくても手帳を書かないで日が経つ場合もありますが、しかし、この句の場合は違うと思います。でも無事に一年が過ぎたことに安堵されているのでしょう。ご自身を客観的に見つめている冷静さを感じます。
夫婦喧嘩お箸とお椀とお正月 平林 吉明
お正月から夫婦喧嘩やってしまったのですね。お箸とお椀は散らばっているイメージもありますが、お椀とお箸が正月用の朱塗りのものが、きちっと並んでいるイメージもあります。私は後者の方がより夫婦喧嘩の心情を表していて、作者も喧嘩をした後にきちんと並ぶお箸とお椀を見つめている様子が伝わります。滑稽さもありますが日常の一ページがより鮮明な句です。
今回選んだ句は、日常の何気ないことを気づいて自分の気持ちを上手く取り入れている句と、ネガティブな言葉や感情をただ悲しさや辛さに引っ張られることなく、冷静に自分を見つめて立ち上がるための希望を予感させてくれる句を選びました。どの句も作者の感情に触れることのできる句です。
原 鈴子選
ぽっかりと陽の差す言葉もある 加藤 晴正
「ぽっかり」とオノマトペ、「陽の差す言葉」あったかく、どちらも詩的でそういう言葉があふれたなら、どんなに居心地のいい空間であろう。「・・・もある」は希望である。なかなか難しいがそういう感じる心の持ち合わせに惹かれた。
発熱止まず真夜中海に浮かびおり 岩渕 幸弘
熱にうなされて夢か現か、その状態を「海に浮かびおり」、まさに言い得て妙、的確なことばである、よく見つけたフレーズと思えた。
煮込んでおかず後悔に形はない 大川 崇譜
後悔、言ってしまったことは元には戻らない。もし、もとに戻したいならどんな努力も惜しまないでほしい。
後悔の形に何か見つかるかもしれない。悲しいことに形は見つからないかもしれない。でも努力の形はみつかるのではないか。
正月北の惨事山茶花散らすありったけ 大西 節
散文的だが、ありったけ散らす、悲しみと痛みを表現するに充分のことばである。ありったけのことは並大抵ではない。重い意味がある。
じっと合掌一人取り残される 河合 さち 能登半島のことを祈れば、「どうか・・・」と思う気持ちがあふれる。一心に祈るうちにだれもいなくなってしまった。状態をそのまま言ったことであるが、祈りの深さ、災害の悲惨さ、不自由な生活を送っている人を思っての句である。祈りは長くなってしまった。
何もしない何もできない大晦日 空 心 菜
滑稽を含む句でつい、にやりとしてしまった。諧謔性も俳句の要素ではある。主婦にとっては猫の手も借りたいほど忙しい大晦日であるが、それを見ている側の気持ちには何か手伝いたいけど、というやさしさを持ちながら出来ない、だからしない。典型的な日本の男性、ある程度の歳を重ねた夫の姿が見える。こういうほっこりさは、だんだん過去のものとなってきているが。
海はただ泣いていた 杉本由紀子
時に見せてくれる彼女らしい短律である。能登半島のことを言っているのは明白。ただ泣いていた。災害にあった人々の嘆きである。切ないほど感じてくる。
各駅停車の冬に乗る 平林 吉明
冬に乗る、冬の厳しさとそれに甘んじて、乗るのは各駅停車、急ぐことはない。しばらくはゆっくりと行く。
覚悟を持って冬の厳しさに向かっていく精神力が感じられる。
神童と呼ばれし父を風呂に入れる 松田 寛生
神童モーツァルトではなく、お父さまのこと。それほどに子供のころから賢いお父様が、年老いていく様をこのような句に。人間とはこんなものであり、生きて必ず死んでゆく、その過程はそれぞれだが、通っていく道である。どんなに立派でも永久にと言うことはない。 でもそのお父様を風呂に入れている現実がある。
止まり木なくば肩を貸します元日の鳥 森 命
元日の鳥に肩を貸そうという。やさしい友を持った鳥はしあわせだ。ちょっと一休みをしてまた止まり木を探して旅立てるだろう。
こういう句の抽象性は、何をたとえて鳥と言っているのか想像するのはワクワクする。鳥は何だろう、誰だろう。もっと大きな何か? 聞きたい。
記憶あとかたもなく裸木の整列 吉川 通子
裸木の林を歩く、夏のことを思う。落葉樹の葉の形、樹形、木陰。透けて見えるその先は夏には見えなかったもの。遮られていたものをすべて取っ払ったら裸木の整列だった。記憶にあったあの森はどこへ行ったのだろう。
枝におわりの柚子わだかまってる 石川 聡
おわりの柚子が気にかかる。わだかまっているのも気にかかる。自由律は心象の句である。心の動きを句にしている。わだかまりの溶けることを願っている。