「碧梧桐句集」海紅社編

 碧梧桐全集(一)海紅文庫 海紅編集部編

 今回より2015年に海紅文庫」から発刊しました、電子書籍版「碧梧桐全集」をすべてそのままの形ではありませんが、少しずつ海紅誌に掲載したいと思います。
 先ずはなぜこの句集を作ったかを全集の「あとがき」から引用します。
「河東碧梧桐という名前は誰でもどこかで聞いたことがありましょう。もちろん俳人としてだけでなくジャーナリスト、旅行家、書家、能楽師など多方面でその才能を発揮した人です。その代表句の二、三は聞いたことがあるとしても、碧梧桐が俳句の世界にどんな偉大な足跡を残したか、放哉や山頭火の知名度に比して、その業績や句の認知度は圧倒的に劣っていることも事実です。
 それは何故かと考察しますと、まず碧梧桐は生涯に一万五千から二万句を作ったと言われています。さすがにここまで来ると、碧梧桐の作品といえども玉石混淆と言わざるを得なく、これをすべて並べられて読破しようとすることは至難の業です。第一に時代が違いすぎ、当時の風俗や言葉自体も理解しがたいのが実態です。そこでこれらの句をもう一度現代人の目で光を当て、自分たちの眼で読み直す必要があるのです。先ずは時代に即さないものは用語を含め解説を加え、特に碧梧桐自身の俳人生活を含めた生き様を知っていただくことから始める必要があります。さらに碧梧桐句の変遷、むしろ俳句の革新の歴史という方が正しいと思いますが、それを知っていただくためにこの句集を作りました。
そして碧梧桐句を読み解くには年譜と照らし合わせ読むことがキーワードと申し上げておきます。むしろ年譜を先に読むのが碧梧桐を理解する近道かも知れません。
 しかし、あえてこの句集には碧梧桐の紹介文は載せません。それは巻頭の瀧井孝作の「定型と自由律―河東碧梧桐の作品について」を読んでいただければ下手な解説は蛇足になることがお解りになると思います。
後年の碧梧桐の評価は様々で、ほとんどはその俳句人生を失敗と位置づけています。それは晩年にルビ俳句に進み、その難解さがまるでこれまでの俳句をぶち毀した異端者の如く、そのことだけをことさら取りあげ、それまでに碧梧桐の残したすべての功績を消し去っているのです。端的に高浜虚子は商人で碧梧桐は書生だと言う人もいます。そこには俳句に対して碧梧桐は余りにも探究心が深く、革新的で、求道者的で、誰も認めず同調するものがいなくとも、己だけでも俳句の文学性を高め、信じる道を押し進むという姿が、他の人を寄せ付けない孤高の人、尊厳に満ちた独善家であるかのように作り上げ、その努力を惜しみ従来の俳句の世界に人たちに安穏としていた人たちは、碧梧桐を敗者と決めつけて自分たちの地位を守ることに専念しなければならなかったのです。
 唯一の正当な評価と言えるのが巻頭にあげた瀧井孝作です。瀧井孝作は大正四年に碧梧桐が創刊した、俳句誌『海紅』の編集を任された中塚一碧楼を五年あまり助け、常に間近で碧梧桐を見ていた人だからです。瀧井孝作は碧梧桐の俳句革新の道、その苦難に満ちた道程を正確に捉えています。結果だけを垣間見てそこから逆算して評を下している、にわか碧梧桐評者とは違うのです。巻頭をじっくり読めば明白になることと思います。
また一個人としては人間味溢れる淋しがり屋であったことが、晩年の河東家で娘のように可愛がられた、岡本百合子さんの「碧梧桐の思い出」を読み、「人間碧梧桐」を知っていただけたら思います。
そしてこの句集を読み終えた時に、ご自身で新たに碧梧桐を評価していただけたらと念じ、「あとがき」とさせていただきます。 中塚 唯人

先ずは瀧井孝作氏の紹介です。


井 孝作

(参考文献『瀧井孝作書誌』、『瀧井孝作全集別巻』)
岐阜県大野郡高山町馬場通(現在の高山市大門町)に、新三郎 ・ ゆきの次男として生まれた。
1900年(明治33年)六歳、高山尋常小学校へ入学。1906年、母ゆき没。町の魚問屋に丁稚奉公し、1908年、店の隣りの青年に俳句を教わった。
1909年、全国俳句行脚で来た河東碧梧桐に認められ、句誌への投稿を始めた。号は『折柴』(読みは初めは『おりしば』であったが、碧梧桐の勧めで『せっさい』と読ませるよう改めた)。
1913年には最初の小説『息』を投稿し、荻原井泉水にも認められた。
1914年(大正3年)20歳、東京市神田区(現在の千代田区内)の特許事務所へ転じ、碧梧桐、中塚一碧楼、大須賀乙字らと句作し、小説『夜の鳥』を新聞連載した。1915年碧梧桐が創めた句誌『海紅』の編集を手伝う。1917年から碧梧桐・中村不折らの六朝書道研究誌『竜眠』の編集に当たり、この書道と、碧梧桐の影響下に鑑賞した能を文学の糧とした
1922年、志賀直哉に誘われ、志賀の住む我孫子へ移った。家族のように扱われ、毎日の夕食に招かれるほどであった。
1923年(大正12年)29歳、志賀の引っ越しを追って、京都へ移った。
1925年(大正14年)31歳、志賀を追って、奈良へ移った。京都、奈良では、寺社・博物館・古式の年中行事などから、古典文学を学んだ。
1927年、芥川の葬儀に上京した。『無限抱擁』を出版した。
1937年、河東碧梧桐没。この年まで『海紅』誌への寄稿を続けた。
1959年(昭和34年)65歳、日本芸術院会員となった。
1961年、編纂に当たった『小沢碧童句集』が読売文学賞を受けた。
1969年(昭和44年)74歳、短篇集『野趣』が、読売文学賞を受けた。
1969年、勲三等瑞宝章を受けた。長編『俳人仲間』に着手した。
1973年、『志賀直哉全集』の編集委員になった。『俳人仲間』を上梓し、翌年度の日本文学大賞を受けた。
1974年 80歳、文化功労者に推された。
1975年、勲二等瑞宝章を受けた。八王子市の名誉市民に推された。
1984年(昭和59年)90歳、11月21日、急性腎不全により八王子市の病院で死。
参考資料
・中央公論社「日本の詩歌」
・昭和女子大学「近代文学研究叢書第四十一巻」
・現代日本文學大系「高浜虚子・河東碧梧桐集」
・正津勉「忘れられた俳人、河東碧梧桐」
・阿部喜三男「河東碧梧桐」
・短詩人連盟「河東碧梧桐全集」
・喜谷六花編「碧梧桐句集」
・栗田靖「碧梧桐俳句集」
・来空文庫「甦る碧梧桐」
・監修・瀧井孝作、編集
・栗田靖「碧梧桐全句集」
・岡本百合子「海紅同人句録」
・瓜生鐵二『ルビ俳句ールビ俳句のことー碧梧桐・直得を中心に』(富士見書房『俳句
研究』平成五年二月)
※なおの句集には日野百草氏の多大なる編集のご尽力頂きましたことを改めて御礼申し上げます。

碧梧桐全集(二)  海紅文庫 海紅編集部編
(注)表記不可能な漢字や文章中の旧仮名の一部は現代仮名遣いに適宜修正しました。また句については碧梧桐自身によって後年、改作されたものあり、各年代の句集によって違っている句もありますので、海紅編集部では出来るだけ初出と思われるものを選んでいます。
定型と自由律と ―河東碧梧桐の作品について① 瀧井 孝作 

 私共の編纂した角川文庫の『碧梧桐句集』(昭和二十九初版)が、ようやく出来上ってきた。私は手にとって披いて見て、編む時も何遍もくり返して見た句だが、いま本を披いて見ると、また感じが新鮮で見飽きがしない。俳句は端的ですぐ明白に分るから、佳作はいつでも新鮮に見えて、私はあちこちくり返しては披いて見た。どこを披いてみても一、二句読み味わうと、その句の面白味にひきこまれ、また読みふける例になった。
私はこの句集を見ていると、碧梧桐は俳句の上では実に多力者で、俳人の四人前も五人前もの仕事をした人だと思った。四人前も五人前もの仕事というのは、この句集にはいまの俳壇で云われる「定型」の句も、「自由律」の句も、共に入って―明治の定型と、新傾向、大正の自由律の初めと、晩年の自由律と、―この句風の変化の多種多様が分って、それに句風が革新する時は、自身が生まれかわったように、新しい心持で仕事している。自己革新と共に句風の革新をしている。これは容易には出来ない仕事で、私は四人前も五人前もの仕事だと思った。

一日一新、続一日一新(三千里の旅紀行文原稿)

 碧梧桐は句風に変化を極めて、俳句の変化の面白味を明らかにした人だ。俳句の定型と自由律と両方共に、抜群の立派な作品を出した人だ。自由律というものを始めて確立して、俳句の範時限界をひろげた人だ。またほかにジヤーナリスト、旅行家、書家等、多方面に仕事した方だが、私はここでは、その定型と自由律との俳句に付いて少し解明してみたい。(この稿には、こんどの句集に出てない句も掲げるが、 これはこんどの文庫本には二千句位しか入らず、これ以外にも佳句は沢山あるから、こんど採録した句と、出さない句と左程大差はないようで、作品はどれも揃っているので、わざと、この句集に出てない句も揚げてみる)

 漂ふかいざようか花のゑひ心
 行春やかき置出る反古の中
 舟を艤して君が征途の涼しさよ
三句共、さきに本誌に発表された『寓居日記』の中の句。花の句は、この日記帖の序文(はしがき)にある句だ。│この『寓居日記』は、明治二十八年の春、二十三歳の文学青年時代の遊蕩日記で、吉原通いと女義太夫の寄席通いなど耽溺ぶりが、正直にさらけ出してあったが。―碧梧桐はこの遊蕩日記を丹念につけて、素裸の自分を見詰めていたようで、はしがきのこんな花の句に、自分の姿も集約していたのだ。行春の句は〝四月十八日満晴、朝の内はふる手紙など出してこれを取捨す〟と記して、この句がある。この前の方には藤野古白のピストル自殺のことがあり、碧梧桐は、これは他人事ではなくて、手紙の反古の取捨や、書置と云った句も作ったらしい。耽溺生活は自分を注視しているわけだから、涼しさの句は五月二十五日に佐藤肋骨少尉が台湾に赴任した送別の句。こんなにしっかりした句も作れるようになって、これは、自分を裸にした日記も、丹念につけたりした、自己鍛煉の賜物だ。

 大仏を写真にとるや春の山
 ふたかゝへ三抱えの桜ばかりなり
 春浅き水を渉るや鶯一つ
 山吹は春の名残の一重かな
 大仏の句は明治三十一年刊行の『新俳句』にあったが、軽いスケッチ、西洋人の眼とも云える句だ。桜の句は、たっぷりして見事だ。次は、明治三十四年刊行の『春夏秋冬』の句。あざやかでピチピチした、冴えた句。山吹の一重は、新進気鋭の青年に、この静かに落付いた沈潜もあったのだ。
 碧梧桐はこの時分、正岡子規等と共に、明治の俳句革新の仕事を仕上げたが、これも、明治開化という新時代の啓蒙思潮に棹さして、仕事もできたわけで、碧梧桐は時代の流転性と、文学の方法の革新、これを二十代の青年時代に身につけたわけだ。自己凝視の上に、この二つを体得したわけだ。                          つづく

碧梧桐全集(三) 海紅文庫 海紅編集部編
定形と自由律と―河東碧梧桐の作品について②―瀧井 孝作
        
 碧梧桐は三十歳で、正岡子規の歿後、子規のあとを継いで日本新聞の日本俳句欄の選者になった。これは、新聞の紙面に毎日毎日十六句ずつ欠かさずに掲載しなければならず、ヘタな句が載れば、子規選の時分よりも日本俳句は退歩したと言われる、子規選の時分よりも、一層よい句を選ばねばならない。これに、碧梧桐はひどく苦労した。新しい地位に押出されたが、まわりには小姑のようなものも多い。後指はさされたくない。負けじ魂で、また重任を自覚して、しっかりしなければ駄目だと思った。-と、この時分の苦しかったことを、後年私共にも話されたが。―
 この日本俳句欄も、良い投句家が多勢いて、絶えず、投句があれば世話がないが、投稿が途切れたら穴があく。で、碧梧桐はここで腰をすえて、自分の立場を固めるように心掛けた。在来の投句家にまつよりも、新しい投句家の養成と、それ以上に、自分自身で句作に精進した。この明治三十六、七年の句は、厚味が出てコクがあるとも言える。
 明治三十八年の秋から冬にかけて、俳三昧と言って、句作の鍛煉もした。格調の高い、つよいリズムで、これは、元禄にも天明にも表現されなかった、明治の勃興期の力が見える句だ。

秋晴れて葭より高き黍見ゆる
暴動の後にまたなき月夜かな
月前に高き煙や市の空
  塩原行
谷水の地底に鳴りて夜寒かな
下戸の党膳を徹する夜寒かな
秋風の温泉宿のさびれなつかしき
重畳の山夕栄えぬ秋の風
  碧童庵即事
月のよきに主は何で籠り居る
薬ねつて主は月に背きけり
 秋晴れの句は、何気ない景色だが、透徹した、秋気が迫ってくる。調子の張り切った句だ。月の二句は、明治三十八年九月、日比谷の焼打事件の矚目。塩原の句も、皆捨て難い。碧童庵即事二句は、情味が濃い。碧童庵はすぐ近所で、互い往来して、俳三昧対座吟もした。

門跡に我も端居や大文字
木犀に薪積みけり二尊院
鳴滝や植木が中の蕃椒
雪まろげ磧にあるや三軒家
雲母坂下りて来つるよ寒念仏
 碧梧桐は明治三十八年には、京都に行かず、これらの京洛吟は、みなフィクションだが、うまいものだ。俳三昧の題詠は、殆どフィクションで、このような句作振りは明治俳句の特徴とも言える。吟行とか矚目とか実況の句も少しはあったが、大方題詠の例で、フィクションが多かった。このフィクションの支柱は、五七五調の十七字音の枠、しっかりした額縁で支えてあるとも言える。碧梧桐は、句作練磨で、この十七字音の格調の実に堅固な完璧を見せた。厚味のあるコクのある高い格調で、『続春夏秋冬』という句集を編んで、これは、続春夏秋冬調と言われて、推称された。
 碧梧桐は、俳句の十七字音(いまの定型)の格調の完璧を示し、最高峰に達したが、フィクションの句作には、格調の完璧だけでは、安住できなかったのだ。明治三十九年の秋から、全国行脚の徒歩旅行に、先ず東北地方に向って出かけた。

鰯引く外浦に出るや芒山
十日路の海渡り来ぬ梨の味
上の山泊りにせうぞ月寒き
蝦夷に渡る蝦夷山も亦焼くる夜に
虎杖やガンピ林の一部落
焼石に虎杖角を出しけり
シカタ荒れし風も名残や時鳥
 これらの旅中吟は、実況の清新味に、打豁(うちひら)けた感じだ。長途の旅行も、やさしいらくなものではないが、雪の東北と北海道で冬を越して、続けて挫折もしなかった。旅中原稿の執筆、地方人との応接にも、草臥れなかったらしい。
 この時分に、六朝時代の拓本に感激して、六朝書と言われる習字もはじめた。碧梧桐は青年時分から能筆で、二十三歳の時の『寓居日記』をみてもそれはすらすらした美しい筆蹟で、正岡子規には「天資の能」と推称されたが、いまは、すらすらした能筆ではない、ゴツゴツした、四角張った、六朝の楷書を習いはじめて、かなり思切った変り方に見えた。日記の原稿の字も、手紙やハガキの字も、旅中の宿帳の字も、このゴツイ固い字になった。これは器用では書けない、手間のかかる力のいる、心をこめなければ書けないが、心をこめるところに魅力も多いのだ。
 碧梧桐は心底から打込んで六朝書に入ったので、在来の習慣の筆遣いや筆法は、根本から打毀れて、再び元のようなすらすらした字は書けないようになったが、そのかわりに、天真の子供の字のように新鮮な、不器用でも力のある、重厚なものが出てきた。
(六朝時代の拓本の研究は、明治の書家も六朝書を各各手習したようで、中林梧介、日下部鳴鶴、前田黙鳳など、専門家の名があったが、「梧介の書は面白いのがあるが、鳴鶴とか黙鳳とかは形式だけだ」と碧梧桐は言っていて、碧梧桐は親友の中村不折と二人して、専門の書家ではない、素人の純な気持で手習いしたので、若々しい瑞瑞しいところがあった。中村不折は洋画家として名声があったが、書の方も大いに勉強して、書の技も上達して、碧梧桐の新傾向俳句の流行と共に、中村不折の六朝書は市価も高くなって、世間に流行した。中村不折はその制作を大いに出して、巨万の富を得て、その資力にて、書道博物館を創設した。それから戦災で邸宅は焼亡したけれど、コンクリート二階建の書道博物館は残り、これは現在も開館されて、私は、最近も見に行って、その蒐集にも、感心したが……)
 碧摺桐は、東北地方の荒荒しい自然の息吹きに触れ、六朝碑の石摺の、原始的な新鮮美に、深く入って、それで、俳句の方にも、新傾向と言った境地が開けてきた。
 明治四十一、二年に「「俳句の新傾向」の理論を発表して、それは、本来の俳諧趣味に捉われない、直接経験の赤裸裸の実感、天真流露の俳句の提唱で。また、六朝書の方で、本来の書道の筆遣いや筆法を打破った、天真らんまんの子供の字に似た、自然に還った、それと同じとも言えた。それはまた、当時の文壇に、にはかに盛んになった、自然主義の思潮と同じ潮流のものと言ってもよかった。俳句の新傾向も、また時代思潮に乗ったものだが、碧梧桐の全国行脚の直接宣伝のような旅行と共に、それは賑かに流行した。
 新傾向の理論は、直接経験の実感本位の句作を主張したものだが、大方の新傾向句は、面白い、逞しいフィクション、奇趣横溢、目先の変わった方で、大衆向に流行したとも言える。

肱かけて蚊帳に凭る魔の丑満つる
炭積めばなど狂ふ馬となりにけり
櫃の見る目甕のいふ口冴ゆるなり
相撲乗せし便船のなど時化となり
銀真白牛売りし夜の野分して
開門匇々の放れ馬なり煤旦
 これらは、奇異、フアンタスチック、ロマンチックの句だ。

煤名残戸袋に管掻くことや
煤じまひ舁きそれし米の滝こぼれ
煤じまひ沼夕栄えの蔵の戸に
是非の使ひ馬乗る汝を煤半ば
墓石得しに書斎の煤日後れたり
煤掃いて湖涸るゝ年の泥汲まん
熊坂の諜者が煤日夕紛れ
 この煤掃といふ題詠の方から見ても、逞しいフィクション、想の閃きの縦横無尽のありさまも分る。型破りで、開放され、句境も拡大された感じだ。碧梧桐の句は、どんなに奔放でも、一句の仕立はしっかりして、軽俳ではない。デッサンがしっかりしている。つまり、十七字音に纏まる、格調の額縁が堅固なのだ。手練の妙技だ。句作は大方題詠で、題詠は明治の俳句の特徴で、その技術も拡がったのだ。

此日巡遊興のなかりし足袋払ふ
予讃見聞広島牡蠣の背低桝
芒枯れし池に出づ工場さかる音を
 これらの句は自然主義らしい、ガッチリした感じだ。

蕪赤き里隣る砂利を上ぐる村
春山や艾(もぐさ)処の軒端なる
春山処々の岩あらは音もなき流れ
 風景の句は、おだやかで美しい。印象派の油絵をみるような、色彩の濃い感じだ。
 新傾向の俳句は、ゴツゴツした、四角張った、鋭角的の厳つい形だが、これは、六朝碑の石摺の字の、力づよい、堅固な、楷書の線の味と似た感じで、素朴の原始的の新鮮美で、それに中味は、若若しい瑞瑞しい情熱があった。
 この新傾向俳句も、明治四十二年、四十三年が頂点で、漸く下り坂になり、大正初年に入ると、漸マンネリズム、末期になったが。

料理無駄に人去んで師走なる月夜
雲雀鳴くやと目覚めたり君と床中語
遠く近き木夏近き立てり畳む屋根に
 これらは大正三年の作。新味の方で苦心してあるが、平面描写の羅列的で、熱がさめていた。ここからは脱出して、出直さればならぬようにも見えた。
 この大正初年には、文壇の思潮は、自然主義に反対の、新理想主義(白樺派)、耽美主義(三田派)などが、青年の人気をあつめて、新しい西洋画の方では、印象派外光派よりも、後期印象派表現派未来派などが輸入されて、大正三年には、官展の洋画の方から、二科会が分れて出た。このような新しい思潮の流れは、敏感な碧梧桐にはすぐにひびいたが。また、新傾向の盛時に若き天才と謳われた中塚一碧楼は、大正初年にいちはやく、新傾向句から脱出した、新作を試みたりして『墓窖(はかぐら)』といふ自選句集も出して、熱心に句作していたので、碧梧桐は、この一碧楼等と共に、また俳三昧の催しを続けて、大正四年二月に、俳誌海紅を創刊した。      
                              

碧梧桐全集(四) 海紅文庫 海紅編集部編
定形と自由律と-河東碧梧桐の作品について③
瀧井 孝作


海紅の句は、新傾向句に比べると、句調もやわらかいなだらかさで、〝や、かな〟の句も多くなって、大方十七字音のようにも見えた。しかし十七字音と云っても、以前のそれとは、句作の心持も態度も面日を改めたもので、新傾向時分は、素材は多方面で外部に求めて、在来の文語体で表現したが、海紅の方では、素材は自分に切実の内心から湧出したもので、独特の口語体にちかい表現になってきた。で、〝や、かな〟の句も、以前の文語体の切字の用い方とは感じが異ってきた。

新傾向の句と海紅の句とどんなにちがうか、例句を掲げると、前の方に、新傾向時分の題詠の煤掃の句を掲げたが、それは、「米の滝こぼれ」とか、「沼の夕栄」とか、「騎馬の使ひ」とか、「熊阪長範の諜者」とか、「放れ馬」とか、縦横無尽にフィクションを駆使して、多彩絢爛な派手な句ばかり並んで、それは当時、碧梧桐の長途の旅行中の動的生活に即したものと言えるが、同じ煤掃の題詠で、海紅の方の大正四年の作は

煤捨てし芥と別に流るるよ
手晒れし煤水ゆたに見てゐたり
釣瓶水打ち足りて煤障子なる
煤とりし夜根ゆるぎに根据れる灰
煤の落着きゆく四枚襖かな
 五句共、煤掃を直視して、ひたむきに直写して、どれも十七字音だが単調で地味で、どこが面白いか分らないようだ。が、よく味わってこの発想に習熟すると、身近に切迫した生活の情緒が率直に飾りけなくヅカヅカした表現で、鋭い神経の近代感覚が感得できる。自分に直接な言葉で表現した、これは絵の方で云えば、自分の色を出した後期印象派表現派の手法と言ってもよいと思う。

子規旧廬にて、蕪村忌
曼陀羅とり出して掛け股引まだはかず
 これは大正六年十二月、蕪村忌の席上吟。この時分は句会では題詠ではなく、各自の生活吟を出したが、この句は些か分りにくいようだが、私は席上の互選で選んだおぼえもあり、面白い句だからここで解明したい。
この曼陀羅というのは金剛界とか胎蔵界とかの仏画で、子規庵の什物か、蕪村忌には掛けられる慣例か、二尺四方位の極彩色の古画で、床の間に掛けてあったが。曼陀羅は異国情緒の妙な気分のもので、この股引はメリヤスの股引。例年の蕪村忌に曼陀羅の掛物も尽熟(つくづく)と見て、今年は暖くて丈夫で冬の股引もまだはかない、と、子規旧盧での心安い親しみの感じだ。日常の生活の味わいが自由に表現してあるのだ。
この時分には碧梧桐の書風も変遷して、新傾向時分の六朝書のゴツイ字ではない、漢時代の肉筆の簡冊の『流沙墜簡(りゅうさすいかん)』や、中村不折の手に入った漢の瓶の肉筆の自由な字に亦感激して、碧梧桐は感激するとどんどん入って行ける人で、こんども漢時代の肉筆の字に惚れこんで、自分の字もやわらかい線味の流動した書風になったが。この時分のやわらかみの出た書と、自由な口語にちかい俳句とは、亦ピッタリした感じに見えた。
 碧梧桐の俳句は、大正四年から大正十一年までは、句集『八年間』にまとめられたが、この時分は殆ど毎年句風が変化して、この変遷は応接に遑(いとま)なしと言ってもよい程だが、 このはげしい変化の状は、前に本誌の八月号に「俳句の面白味」という題で述べたから、ここでは重複をさける意味で、また、後期の自由律の方も解明したいので、『八年間』の解明はこれで省略するが‥‥。
 碧梧桐の後期には、これまでの有力な同人が側にいなかった。各各個性が出て巣立ったとも言えた。
碧梧桐の俳句の変遷は、再転三転、実に停滞しないはげしいものがあったが、芸術作品は、その作家の生活の個性に即したものだから、この個性の自覚があれば、俳句の場合も主宰や先輩の句風が変化したからと言って、すぐにそれに蹤いて行けるものではなかった。
 碧梧桐は先に、新傾向俳句の主張で、少年時からの盟友高浜虚子と袂別したが、また、新傾向から海紅の俳句に変つた時分に荻原井泉水、大須賀乙字達が分派した。また、大正九年には碧梧桐が一時大阪に移り、大正十年に外遊して十一年に帰朝した時、海紅を托された中塚一碧楼は、やや分派に見えた。また、この時分に才分のゆたかな小沢碧童は十七字音の定型俳句を熱心に作って、芥川龍之介に示したりした。この時分に定型句が更に流行り出したが。この小沢碧童の定型俳句に戻ったのはひどい転向のようだが、碧童は明治の『続春夏秋冬』の時に活躍して、新傾向時代にも海紅になっても本腰になれず、定型俳句の流行についていち早く転向したのは、定型が性分に合っていて、これがこの人の個性と見えた。碧童は定型に転向したけれど碧梧桐との信愛は堅かった。また塩谷鵜平は、多年の碧梧桐崇拝者だが、俳句は一碧楼の海紅に出していた。また長老の喜谷六花は、碧梧桐と共に句作を続けた方だが、断続して倦む時もあった。
 碧梧桐の後期には、これまでに養成した有力な同人が各各巣立ったかのように、側をはなれて、淋しさがあった。過去を振捨て、革新にひたむきの先駆者としては、これも仕方がなかったが。 この後期のしまいには、ルビ附の難解な変な調子の句ばかりになって、昭和五六年頃から揃つてこの調子の様式(タイプ)が出て、このタイプに堕ちて来た。自由律は言葉に自覚を持って、自分の言葉で表現するものだが、みんな揃って難解のルビ附の変な調子の句作は、これは追随者ばかりで有力な同人がなかったからだ。このタイプに堕ちた時は、碧梧桐も、已に老境で、切抜けて出直す気力がなく、昭和八年にきっぱり、俳壇隠退を声明した。これは碧梧桐らしい、いさぎよさでもあったが‥‥。              つづく

 

碧梧桐全集(五) 海紅文庫 海紅編集部編
定形と自由律と―河東碧梧桐の作品について④―瀧井 孝作 

人物の個性には、保守的の人と進取的の人とがあり、各各その個性に依って動向もちがう。俳句の場合に、定型と自由律と二つに別れるのも、その家の個性の動向に依るのだと思う。

 自由律の俳人でも、その個性が弱くその才分が弱くて、追随した句作では、やはり自由律タイプと言ったもので。また自由律の方の個性の有った人でもその才分が衰えると、そのタイプに堕ちるのだ。ー定型の俳人でも、その個性が確かりして才分がゆたかで、自覚した句作ならば、それはタイプには堕ちず、立派な俳句で、実例では、この時分の私の知己の、小沢碧童、芥川竜之介などの定型句には、佳作があったがー。
 碧梧桐の後期の自由律にも、面白い佳作が多い。先ず、女の姿態を詠んだ句をいくつか掲げてみる。

妻と雪籠りして絵具とく指
昼顔の地を這うてゐるおしまひの水流す
柿二つ食うて紅茶飲んで長火鉢に肱つく
通り雨をよけし梅見戻りの褄そろへるる
岩の乱れ衣ぬぎかけし牡礪殻さはる
炉の火箸手にとれば火をよせてのみ
川原湯温泉
雪の下咲く花のこぼるゝ花の洗濯の手とめて
戸倉温泉
交かるといろを鮑なん湯女が爪染め紅を
ま芝崖ずり穂土筆夕(ツクシヨ)影の裾長がゝ夫人
 これらは妻、新開地の女、女将、芸者、処女、湯女、夫人、各各あでやかに、色気が濃い。女を詠んだ句は、前の『八年間』にもあったが、

土筆ほうけて行くいつもの女の笑顔

女が平気でゐる浴衣地とりちらかし
女なれば浴衣の膝づくる皺
さら綿出して膝をくねつて女
『八年間』時分のこれらは、際立ったドギツイ、きびしく迫ったリアリズムの表現だが。後期の方は、平明にやわらかい、しずかなリリシズムの気分だ。碧梧桐には、女を詠んだ句がわり合に多い、これは心持がやさしかったのだ。

ちらばつてゐる雲の白さの冬はもう来る
雪がちらつく青空の又此頃の空
 天候気象を見ても、情感が流露して、歌のようだ。
自由律には定型の格調のかわりに、各各に旋律の諧和があるのだ。
夕べ風凪ぐ藁屋なぞへの羽子の落ちくる
時鳥山上へ鳴きうつる窓あけてをる
高くゐる牛が吼へて山なみの西日さしくる
寺の甍(いらか)を中に湖べ山村の雪ふゞきする
西空はるか雪ぐもる家に入り柴折りくべる
 これらの句は、大きいけしきが、絵画と音楽とに包まれるようで、色合(ニュアンス)と音調(トーン)との微妙な、面白い句だ。 手法は、当時の発声映画(トーキー)の新しさにも似通うようだ。

春かけて旅すれば白ら紙の残りなくもう
鮎狩のあるじする袴著て水のほとりに
焚火にかゝる茸やくオキの炭を一くべ
 言葉が洗練されて、温雅にやわらかい、澄んだ、瑞瑞した、自分の言葉になりきっている。
ここまで来てもなお安住せずに、しまいにはルビ附など、六ヶしい句調にもなったが。

  比呂志居(伊那)
どうやら築かれた八重桜(ハナ)を躑躅(ハナ)庭梅(ハナ)をさはるに
  薩南吟
開門頭(カイモンズ)もたげ左かしぎの笑はせ炉話
 二句とも昭和六年の作。ルビ附の句の見本に掲げるが、左(ト)も右(カク)も、どこまでも追求した、種種相の表現で、複雑の単純化で格闘した感じだ。
 碧梧桐の晩年の書は『八年間』時分に出てきたやわらかみが、またずっと砕けて、独自の草体で円熟して、絵だか字だか分らない、気分の佳い、実に蕩蕩としたやわらかみになったが、この晩年にもよく旅行して、書の方も勉強したのだ。この晩年の書が、また、その自由律の句と実にピッタリした感じで。句風の推移のたびに、おのずからその書も推移したわけだが。
 碧梧桐の句風の革新は自身の書風までも革新する、句も書も共にあらたまる、これは、つまり生活全体で動向するわけで、自己革新と言ったわけで、実になまやさしいものではない、捨身の極めて強いものだと言える。生れかわったようになって新しい句を出したのだ。で、碧梧桐は幾人前もの仕事をしたとも言える。

 

碧梧桐全集(六) 海紅文庫 海紅編集部編
定形と自由律と―河東碧梧桐の作品について⑤瀧井 孝作

碧梧桐は、句作と共に、俳論も執筆した。これは厄介な仕事だが、創作のもとに理論の地固めをして、また、自己検討をしたのだ。俳論の方では、晩年に俳誌三昧に連載した、「感情の律動的内容と前人の創作」と題した、芭蕉蕪村其他の俳人論は、円熟した大きい著作だが、これはまだ出版になっていない。(※この原稿が書かれた当時)
碧梧桐の作品は、むかしの俳人の業績をしのいで超えているのだ。大掴みに見ても、明治の定型と新傾向とこのフィクションの多彩絢爛では、天明の蕪村を超えているのだ。『八年間』の切実味と、後期の自由律の温雅とは、元禄の芭蕉に迫って、また俳風の変化を尽した方では、芭蕉を超えているのだ。
芭蕉の遺語集の中に、俳句の行末の説も述べてあったが。
〝一翁、末期の枕に、門人此後の風雅を問ふ。師曰、此道のここに出でて
百変百化す。然れども其境、真、草、行の三を離れず。其三が中に未だ
一二をも尽さずとなり。生前折折の戯れに、俳諧未だ俵口をほどかずと
云ひ出でられし事度度なり。高く心を悟りて俗に帰るべしとの教なり。
常に風雅の誠を責め悟りて、今なす所俳諧に帰るべしとなり。
一翁曰、俳諧世に三合は出でたり。七合は残りたりと申されたり〟
と述べてあったが、碧梧桐の自覚して追求して変化を極めた、新しい俳
句は、芭蕉の考えた俵の口もとから新しく何合かを打出したとも云え
た。自由律は芭蕉の云ったこの真草行の中で、草体か、行体か、とも見
えた。
私には碧梧桐が、定型から自由律から、俳句の種種相を現し出して、俳句の範躊限界をひろげてくれたので、俳句の宇宙の奥行が、無限にも見えた。俳句には限界がないようにも見えた。芭蕉も変化を極めようとした人で、〝俳諧未だ俵口をほどかず〟と将来に期待して、門人と共に悦んでいたが。
定型と自由律と、打交ぜて、俳句の宇宙は広大だ。又、真に句作の力の備わった人が出れば、芭蕉の考えからもハミ出した、また別個の新しい俵の発見される、可能性もあるのだ。碧梧桐の開拓した自由律の分野は、この別個の新しい俵の方に及んでいるかも知れぬが。
未だあまり見馴れぬ品は、ちょっと馴染めないので、容易には認められ難いが、段段に馴染み味わいが分れば、面白味も一層深いのだ。くり返して云うと碧梧桐の自由律は、温雅の方で、地味なおとなしい、何気ない、淡淡とした味わいだから、それに入れば分るのだが、さもなければ見過され勝のようだ。
ともかく、『碧梧桐句集』を読むと、俳句の宇宙の広がりが分るようだ。その作品が、人は無限の可能性を孕む生きものだ、と教えてくれるようだ。(昭和三十年二月、俳句)
瀧井孝作氏の『定形と自由律』は今回で最後とします。来月号からは碧梧桐の実作を、時代別に分け解説を交えながら紹介して行きたいと思います。

碧梧桐全集(七) 海紅文庫 海紅編集部編
 今月から碧梧桐句を連載します。碧梧桐の句集はたくさんあり、句も生涯に一万五千から二万句を作ったと言われていますので、現代人の目で改めて選句してみました。※印のあとに解説を入れました。今回は定型句の時代で明治二十三年の春から三十年夏までの句です。

『発句・新俳句時代Ⅰ』
五本ともさきそろひけり昨日今日(M23「春」)
(梅の香や届かぬまもなき小庭ー子規添削)
続々と梅に後継ぐ桃杏(杏の開きたるを見てM23「春」)
(梅散りて桃と杏の後備へー子規添削)
※添削について碧梧桐は「改作は理智の学問的に働いた、情操を無視した技巧によって強く彩られている」と反発しているが、後年、自らの目指す「新傾向運動」を強烈に推進するがために碧梧桐の添削、改作は熾烈を極めた。それは後に「自選俳句」を標榜する中塚一碧楼に強烈なしっぺ返しを食らうのである。

うぐいすや谷間くの水の音(M24「春」)

枯木折る人もありけり夏木立(M24「夏」)
風もなしまた茶屋もなし蝉の声(M24「夏」)
一息に三里はきたりせみのこえ(M24「夏」)
面白ふきけば蜩入日哉(M24「秋」)
※「諸君は取りたまわず。余ひとりのみこれを賞す。けだし蕉翁の余韻あればなり」と子規が初めて褒めた句。やかましく、あるいはうるさく蝉の声は耳につくものだが、「おもしろく聞く」とどことなく夕日の中に秋らしい気配が出てくる。

手負猪萩に息つく野分かな(M24「秋」)

もう出てよくと思ふ子鴨かな(M24「冬」)
狼や炬燵火きつき旅の宿(M24「冬」)
※前四句を子規は「その敏才ははやく奇想を捻出し句法の奇なる者を作り以て吾人を驚かしぬ」と評している。
吾庵は粥の薄きを鶯を(M25「春」)
※「近頃斬新の御手並驚入候」「松山三傑の内にて一番うまし」と子規に言わせた句。

五歳児を酒の片荷や山桜(M25「春」) 

苗代と共にそたつる螢かな(M23「夏」)
行水をすてゝ湖水のさゝにごり(M25「夏」)
※大津にてとあるから、湖水は琵琶湖であろう。暑い一日も終わり行水でさっぱりして、そのたらいの水を捨てると、そこらあたりが少し濁る。それもやがて消えてゆき、一日が終わった気分が心に染み渡ってゆくのである。二十歳の青年の句としては、子規が老巧の妙策と褒めた句。
網代守時雨にうとく老けりな(M25「夏」)
※前四句は二十五年中の作で子規の注目をひいたもので、「この時は碧梧桐が思想に於て奇抜なる、句法に於て老成したる時代なり」と見られた。

鹿ハなき猪ハ煮らるゝ夕べかな(M25「秋」
老のくれ稜々として風骨きよし(M26「冬」)
霧ふかし胸毛のぬるゝ朝の鹿(M26「秋」)
ちよろくと火榾火の夢の何もなし(M26「冬」)
※火榾火(ひほたび)とは囲炉裏で焚かれている火で、静かに永く燃え続いて、めらめらと燃え急ぐような火ではない。燃えさかる火は美しい夢を描かせるものだが、ちょろちょろと燃える火榾火にはこの周りを囲む人たちに一向に夢を持たせない。周囲の人たちと同じように、座っている自分も侘しい。作者の青年らしい鋭さで火榾火をとらえ、しかもその情緒を巧みに詠みあげている。

牛の背に小坊主細き霙哉(M26「冬」)
雪ならんさよの中山夜ならん(M27「冬」)
桃さくや湖水のへりの十箇村(M27「春」)
※十箇村とあるからかなり広い湖水の美しい遠望であろう。緻密に景趣をよみとり大きく仕上げた美しい句である。

春風や道標元禄四年なり(M27「春」)

※清秀でかつ風格があり、以前の奇行とは違った素直な読みぶりになっている。碧梧桐も初めて写生の意義を明らかに体得したと述べている

暗きより蚊の声出づる庵かな(M27「夏」)

子萩女萩根岸の里の女の子(M27「秋」)
菜の花に汐さし上る小川かな(M28「春」)
※菜の花は蕪村の句にあるように夕暮れがいい。この句も夕暮れの上げ潮時と読みたい。この汐の流れで、まわりの菜の花の群れも静かに揺れているようだ。

春寒し水田の上の根なし雲(M28「春」)

「続猿蓑の惟然の句『更行や水田の上の天の川』に似ているが惟然の句は
凄艶。春寒しの句は処女のように美しい」(瀧井孝作)

※もちろん叙景の句としても優れているが、この頃、虚子と共に仙台二高を中退し、吉原遊郭に遊んだり、寄席へ当時流行の女義太夫に通ったり、酒食放蕩生活を続けていた頃とも考え合わせると、「根なし草」は碧梧桐自身と読み解くほうがおもしろい。

すりこぼつわさびの水の緑なり(M29「春」)

赤い椿白い椿と落ちにけり(M29「春」)
 「印象明瞭なる句。印象明瞭とはその句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるをいう。ゆえにその人を感ぜしむるところ、あたかも写生絵画の小幅を見ると同じ」(正岡子規)
※碧梧桐も「二団の花を眼前に見るがごとく感ずるところに満足するなり」と言っている。椿は花片が散るのではなく花弁ごとボタッと落ちる。それも赤と白が鮮やかな色彩を持ち落ちる。あたかも一枚の絵を見るようだ。俳句は文学でもあり絵画でもある。また当時は色を二色使うことも珍しくその点でも斬新。

海近き橋に真昼の寒さかな(M29「冬」)

色に出でて尚漏らさじの年忘れ(忍恋・M29「冬」)
清水汲んで君を思ふべき別れかな(M30「夏」)
君にことあらせじと祈る薫風や(M30「夏」)
※前三句は失恋の痛手を詠んだ句か。一月に天然痘で入院、一ヶ月後退院してみると、密かに想っていた下宿の糸が、虚子と親しくなって六月には結婚したのである。この頃は子規の後継者問題、失恋事件と碧梧桐を悩ませ、三十年夏の初め北陸地方へ傷心の一人旅に出るのである。

河骨(こうほね)の花に集る目高かな(M30「夏」)

※河骨は池・沼・川などの浅いところに生える水草。この句は微細なところに目をつけた碧梧桐の特色的な一句。碧梧桐は「細景は大景に反して各着目するところを異にするが故に、陳腐に流れる憂いはない。古人の作例にのみ拘泥する未練なことをするに及ばぬ」といっている。

機関車の煙おそろしき若葉かな(M30「夏」)
※この時代の機関車の恐ろしさは体験したものにしか
解らないことだろう。時代を通して体験してこそ読める句。

卓に書あり檐(のき)前(さき)に白き薔薇を見る(M30「夏」)

睾丸病んで寝たる蚊帳の狭さかな(M30「夏」)
乳あらわに女房の単衣襟浅き(M30「夏」)
※自分の妻か、あるいは若くはない人妻であろう。子規も印象明瞭な句としてあげ、「女の半身像と見て可なり。これまた特色の妙味非ずにして、普通のことを上手に写したるものなり」と評している。色っぽいところを絵画的に印象鮮明に詠むことによって、単なる写生以上の味も鑑賞できる。

わが庵は蚊遣すべく又せざるべく(M30「夏」) 

短夜の大仏を鋳るたくみかな(M30「夏」)
                           

碧梧桐全集(八) 海紅文庫 海紅編集部編
『発句・新俳句時代Ⅱ』
水汲の男来て居る朝寒み(M30「秋」) 
陰々として秋の山鳴ることを知る(M30「秋」)
夜に入りて蕃椒煮る台処(M30「秋」)
※まことに日常平凡な句と思われるが、この頃の碧梧桐の句は奇抜さも特色であったが、この句は平易でしかも陳腐ではない。句調も五七五に戻り、俳句史上に特筆すべき新機軸を出してきたと子規が激賞した。
炉開いて灰冷たく火消えんとす(M30「秋」)
※中村草田男は「年を越した古い炭は土のように固く冷え切っていて、置かれた紅い火の玉は、間もなくそのまま光らなくなり消えていこうとする。やや誇張して言えば、熱火と冷灰の一種の闘争│それと一つになって通う作者の気魄のようなものが、この句の気息をなしております」と観賞している。
白足袋にいと薄き紺のゆかりかな(M30「冬」)
磨り砕く墨の氷や数千言(M31「冬」)
※「墨池の氷を磨き砕いて数千言をたちまちに書く」と、子規の健康を讃えた句。二人とも書に優れ、若い頃の碧梧桐の字は子規が「天資の能」と賞賛したほど美しかった。中年頃の六朝書はゴツゴツと力強く、晩年は天衣無縫の自由自在の絵のような筆跡となり、碧梧桐は書だか絵だかわからないような天分を見せた。

花に酒居つゞけの愚や二日酔(M31「春」)

※花とあるのは、もしや遊郭にでもいるのだろうか。ようやくこの放蕩を愚と気がつき始めたと言うことか。

能登へ渡るすゞしの月の舟路かな(M31「夏」)
強力の清水濁して去りにけり(M31「夏」)
※子規はこの句を「明治の俳句が複雑となりたる例」と指摘している。強力とは旅人や登山人の荷物を担ぎ案内する男。その人達が清水で一休みし、喉を潤す。その結果、清水の水は濁るが、立ち去ると再び水は澄んで元の姿に戻る。その複雑さが従来の句にはない新鮮さを生んでいる。

比枝寒き峰のつづきや東山 (M31「冬」)

おしろいの首筋寒し梅二月(M32「春」)
※「梅・おしろい」の一句二題」にある句。このおしろいは妓楼の女であろう。それに対して高貴ささえも感じさせる美しい梅と組み合わせたのは、難題であるだけに気の利いた句で、碧梧桐の詩才・技量が非凡であったことがよくわかる。

町の名は宗右衛門夜は長衛門(宗右衛門・M32年「秋」)

乾鮭は泣きぬ棒鱈は嘲りぬ(M32年「冬」) 
※乾鮭は腸を抜いて乾した鮭。棒鱈も鱈を棒のように乾したもの。

馬過ぐる四谷見附や雪の朝(M32年「冬」)

一しきり霰打つなり鎧橋(M32年「冬」)
※「四谷見附」や「鎧橋」など旧東京の面影がよく出ている。地名を使うのも碧梧桐の得意技。

木枯や谷中の道を塔の下(M33「冬」)

※谷中は寺院や墓地などで有名で、五重塔も建っていた。木枯らしの吹き荒れる中、冷たい塔の下に来ると、ひとしお冬らしい感が迫ってくる。極めて単純だがよく事象とらえている作。

脇僧の寒げに暗し薪能(M34「冬」)

薪能小面(こおもて)映る片灯り頃(M34「冬」)
薪能果てるや薪尽きる頃(M34「冬」) 
笛方のかくれ貌なり薪能(M34「冬」)
※薪能「一題十句」中の四句。多彩なる碧梧桐は能楽にも造詣が深く,演者としても優れていた。 

桐の木に鳴く鶯も茶山かな(M34「春」)

※まずは「桐に鳴く鶯」と桐の木にいる鶯を印象づけ、そのあとに大きな茶山をもってくることで、小さな処から大きな処へと焦点を広げさせている。この頃、「も」の字が多く現れてくるが、この句にも「も」の使い方に巧みさがでている。

この道の富士になり行く芒かな(M34「秋」)

※この句も芒が群がり生える道を、誘われるように歩いてゆくと、その先にそびえ立つ富士の山がある。「この道」から「富士」、小さなものから大きなものへ、それは作者の気持ちの高揚でもあろう。ただし、これも虚子宅定例句会での作であるから、フィクションの句である。この時代は題詠が常であるのでやむを得ないところ。

陽炎や糠(ぬか)こす麦の小一斗(M35「春」)

三ツ峰の桜や白し桑を摘む(M35「春」)
から松は淋しき木なり赤蜻蛉(M35「夏」)
※「から松が淋しき木」と見たところが詩人の鋭い眼。それを赤蜻蛉と組み合わせたことで、淋しさが生きてくる。
                            

碧梧桐句集(九)海紅文庫 海紅編集部編
 『発句・新俳句時代Ⅲ』
今朝の春筆師の顔は筆に似たり(M36「春」)
※自宅の隣家の老人が以前筆屋さんであった。そのひとを詠んだ句であるが、「今朝の春」に正月らしい気持ちがよく出ていて、気分よくユーモラスな句。

蟬涼し朴《ほほ》の広葉に風の吹く(M36「夏」)

温泉の宿に馬の子飼へり蠅の声(M36「夏」)
 ※「温泉百句」の句でこの句について虚子と論戦を交わし、虚子は「馬の子と蝉の声の調和が悪い。蝿がうるさいことを主として詠むなら馬の子とまで言う必要はなく、可愛らしい馬のことが出したいなら、蝿の声は割愛したい。陳腐を避け単純を嫌い、新しい詠み方をしようとする碧梧桐らしい句だが技巧的だ」と評し、これに対し碧梧桐は「実景そのままを何の飾り気もなく叙したつもりで、馬の子に蝉の声が調和するとかせぬかということは考えるいとまもなかった」と反論し、このことは虚子の「調和」を主とする理想主義的な態度と、碧梧桐の「実景そのまま」を主とする写実派の態度との対立で、以後二人の間に亀裂を生じさせた。これは明治三十五年の子規没後に碧派と虚子派に分かれていく契機ともなった。

故郷《ふるさと》の赤土山や枯尾花(M36「冬」)

楠の芽に日のさし風の光るかな(M37「春」)
門跡に我も端居や大文字(M38「夏」)
 ※当時の俳三昧の作品で、場所は大谷句仏の東本願寺と思われる。出典から見ると題詠による句で、京都の実景もフィクションであろうが、技法が的確で、透徹した格調も高く、まるで眼前に観ているようである。 当時の五七五句では傑出しているとも言えよう。

ひやくと積木が上に海見ゆる(M38「秋」) 
 ※子供達が無心に遊んでそのままになっている積み木の上に、秋めいた海がひやひやと見えているという構図で、普通は「冷やか」とするところを「ひやひや」とした非常に感覚的な句。 

物捨てに出でゝ干潟の寒さかな(M38「冬」)
軒落ちし雪窮巷《きゅうこう》を塞ぎけり(M38「冬」)
海楼の涼しさ終ひの別れかな(M39「春」)
 ※八月六日、「三千里」の旅に出発した日の句。元禄年間の芭蕉の「奥の細道」時代と比べれば交通が発達しているとはいえ、今日からすればまだまだ不便な時代だ。しかもこれからの季節は冬に向かう、しかも東北地方は前年大凶作に見舞われたのである。「終ひの」といういい方は決して大袈裟ではない。

馬独り忽と戻りぬ飛ぶ蛍(M39「夏」)
「独り」「忽と」と修飾語を二つ並べているところに、「あれっ」という驚きの表情が見える。そこへ「飛ぶ螢」が無言の照明の光を与え、夕暮れの情景をよく醸し出している。

旅心定まるや秋の鮎の頃(M39「秋」)
※栃木県氏家にて。ここに来てようやく足も慣れ旅を楽しむ余裕が出て来たようだ。

坂を下りて左右に藪あり栗落つる(弥五郎坂を越ゆ・M39「秋」)

空《くう》をはさむ蟹死にをるや雲の峰(M39「夏」)
 ※雄大な「雲の峰」と、その下で「蟹死にをるや」と、むなしくハサミを持ち上げたまま死んでいる蟹との配合は新鮮で、碧梧桐の目を深く感じさせる句。加藤楸邨は「構成的で野心的な作」と評していている。

 

碧梧桐句集(十)海紅文庫 海紅編集部編

「新傾向時代」(明治三十九年~明治四十二年)
寺大破炭割る音も聞えけり (M39年「冬」)
思はずもヒョコ生れぬ冬薔薇《ふゆそうび》(M39年「冬」)
※大須賀乙字は、「子規が写生を説いて、印象明瞭な句が多く現れたが、それを『直叙法』または『活現法』と呼ぶとすれば、それに対して、特性を指示して本体を彷彿せしめ、輪郭を描かずして色を出そうとする方法があり、それを『隠約法』またや『暗示法』と名づける。乙字はこの方法は余情余韻に冨み、複雑にも精緻にも進みうる余地があるとし、隠約法は十七字詩中、乾坤を包蔵して余りあり」と言い、これを「俳句の新傾向」と称した。それは必ずしも碧梧桐とその一派との同方向に一致せず、これが双方に亀裂を生じさせた。

虎杖《いたどり》やガンピ林の一部落(M40年「春」)
※ガンピとは山地に自生する落葉低木で、樹皮の繊維は紙の材料となる。いかにも雄大な北海道の景をぶっきらぼうにおおざっぱに捉えた手腕が見事。瀧井孝作は「北海道の自然の強い息吹に触れて、実況豊富なものとなり自己革新の覚悟も出来たもようだ」と言っている。

花なしとも君病めりとも知らで来し(鶯子を訪ふ・M40年「春」)
シカ夕荒れし風も名残や時鳥(M40年「春」)
※シ力タとは東北・北陸地方の方言で西南風をいう。 その荒れた風も収まって、なごり風の中で時鳥の声を聞いたのである。 瀧井孝作は「うら淋しい旅情」という。

帆綱浸る舟の艪ゆれや風薫る (M40年「夏」)

※碧梧桐は「深さを知らぬ水の色は、山の翠《みどり》より一層濃く青い。微風も立たぬこの湖面に、動くものはただ我が舟一艘あるばかりであると、更に眸《ひとみ》を前後左右に放つ。山も水も青くて静かじゃ。静かでそうして気は済みきっておる」と言っている。

樹の籠る裏戸出て畑の百合を見る (M40年「夏」)
膝と膝に月がさしたる涼しさよ(M40年「夏」)
※「膝と膝」とはどういう膝であろうか。何となくエロチックでもありおかしくも。碧梧桐のおおらかさがにじみ出ている。

宿乞ひし寺や芭蕉に目覚めけり (M40年「夏」)
会下〈ゑげ〉の友想へば銀杏〈いてふ〉黄落す(M40年「秋」)
※「会下の友」とは、禅宗などで共に参禅した友の意。この句を作った数日後はやがて旅中二度日の子規忌。同じ子規門下の友や、今は断絶関係の虚子を思う心を、「銀杏黄落」に感じるのは読み過ぎだろうか。

俳諧の功徳も一分寺の秋(M40年「秋」)
雲を叱る神あらん冬日夕磨ぎに (M42年「秋」)
※自身、「雪騒ぐ冬の夕日の光景に、幾分神秘的剌戟を感じた刹那の気分を」よんだものとあり、瀧井孝作は「この時分ギリシャ神話など好んで読んでいて、続一日一信にも読後感があったが、冬日の風光をみて神話など連想して作った句」という。「夕磨《と》ぎ」の解釈は、夕焼けで照り輝く冬日があたかも磨ぎ澄まされていると感じたのであろう。このような難語も、「雲を叱る」などの誇張も、力がこもって碧梧桐らしい試みと言えよう。

紆余曲折布団思案を君もごそと(M42年「冬」続三千里)
※明治四十二年四月、母の病で中断した越後長岡からの全国遍歴を遂行するため、再び大谷句仏の後援を得て、第二次旅行の途に就く。この句は出雲の広江八重桜邸での句。長い旅の間には碧梧桐も眠れない夜もあったであろう。さてはて、お隣で眠る「君」にはどんな「思案」があったのであろうか。

「自由律時代(明治四十三年~続三千里時代)」

旅痩の髭温泉《ゆ 》に剃りぬ雪明り (M43年 「冬」)
散り布《し》きし桃の上に雨の音あらん(M43年「冬」)
再びせぬこの渡り凧も鳴る空や(M43年「冬」)
汝獄卒と憐む旅や雉の声(M43年「春」)(松蔭伝を読む)
絹蚊帳のこと記して旅費を疑はる (M43年「夏」)
※碧梧桐は句仏上人から三千里旅行の旅費として毎月六十円、家族の手当てとして二十円を頂戴していた。それが絹の蚊帳の使用ことなど書いたので「なんたる贅沢」と文句があったのだろう。そんなことまで句にするとは恐れ入る。

砂温泉時過ぎて灯を打つ蛾も夜毎 (M43年「夏」)
泥炭舟も沼田処の祭の灯(M43年「夏」)
※泥炭《〈ガシ》舟は、泥炭を運ぶ小舟。祭りの日なのだろう。 近所の家の灯も、いつもよりも華やいで見えるが、その灯が照らし出しているのはいつもの、泥田であり、そこにつながれているのは、泥炭舟である。「生活を踏まえ、その特色を捉え、時には接社会を唱えた新傾向の作者らしい句」と中島斌雄は評している。瀧井孝作も「不透明な混沌とした近代色の風景」、柳田国男も民俗学的立場から、「三千里」「続三千里」に注日し、「一日一信」を欠かさず愛読していたようである。

相撲乗せし便船のなど時化となり (M43年「秋」)
※讃岐丸亀の作で、相撲取りを乗せた船がどうして時化に遭ったのだろうというような事実そのままの詠み方である。
 無中心論における碧梧桐の自信作。無中心論とは、「これまでの句は、感じを一点に纏め、誰にでも明瞭に同じく理解出来るようにするために、句に中心点を置いた。そのために例えば桜は美しくて、はかないとか、秋風は悲しく淋しいとか、なるべく季題趣味をその句の感じを助けるために、これまでの習慣的自然を借りてくるようになる。ところがその自然の見方が陳腐化し、つまり習慣性や、前人から教わった因習的見方が句を平凡にすることに気づいた。そしてようやく自然の見方の制限的にならず、そこから開放され、人為的なるものを離れたその自然本来の姿を忠実に見つめ直そうということが無中心論の骨子である

此日巡《めぐり》遊興のなかりし足袋払ふ(M43年「秋」)
※この時、岡山で一碧楼によってある問題が起きた。それは岡山での俳句大会が、新聞でも報道されていたのに、突然、流会になった。その原因は一碧楼が当時の絶対的選者である碧梧桐の、強引で行き過ぎたともいえる添削や改作に我慢ならず、「自選俳句」を碧梧桐に黙って刊行したのである。その主張は、「個性の煌めきは創作者みずから認めたる作物に見るより鮮明なるはなし、自信ある作の前に於て選者の存在は全然無意義也」と、当時の俳句界における最高権威者ともいえる碧梧桐に対して反逆の意を表したものであった。そんなことがあったあとの一句である。

墓所に下りし鳶見る日凧も遠き空(M44年「冬」)
狐狸を徳とす藪主に草餅日あり(M44年「春」)
※この年四月岐阜美濃江崎の鵜平居に入る。鵜平居の中には既に碧梧桐の書斎が建てられていた。鵜平の話では「キツネは蛇を食べて村人を喜ばせ、タヌキは悪さをしたことがない」と言う、そんな話が題材の句。この九月、二ケ年の月日を要した続三千里の旅(第二次全国遍歴)無事終了。

 

碧梧桐句集(十一)海紅文庫海紅編集部編
・大正三年
雨泊りして雨忘れ窓の蛍哉「夏」

・大正四年
干足袋の夜のまゝ日のまゝとなり「冬」
座定まれば野にをりしごと冴ゆるなり「冬」
沫雪のしづと降る干潟画す段「冬」
寒明きの雨の中梅煽る風「春」 
芥子《けし》)咲く家に山下りがての潴水《ちょすい》見る「夏」
よき凪を乗りかゝる山よりの夕立(「夏」)
ワナ一尾く《繰り返し》包む虎杖《いたどり》の葉重ねて白沢のドーにて)「夏」
※ 前年までの新傾向句のあくまでも強い調子とは違って、「一尾く包む」が、「虎杖の葉重ねて」という柔らかい表現に支えられて、自然な心の弾みを感じる。

はや火焚く草虫の目つぶしに飛ぶ「夏」

海なす雪根ゆるぎの波立てるなり(雪田を踏む)「夏」  
立山は手届く爪殺ぎの雪「夏」 
砂瀧の殺ぎなす刃夏木滴れり(葛倉のキレト)「夏」  
棚雪の根掻いて道づくる水よ(七倉嶽中腹昼食)「夏」 
秋蚊帳張るまゝに螻蛄《けら》打つてくる「秋」 
霜朝の鳥窓下に消えし「冬」  
鼻づらを曳く馬の師走の灯の中に「冬」  
雪卸ろせし磊塊《らいかい》に人影もなき(蕪村忌「冬」)  
※磊塊とは大きな石。

・大正五年
氷砕く黒塀の迫る也「冬」 
冬田空工場の入日となれり「冬」 
寒明きの大根の青首の折れ「冬」 
学校休む子山吹に坐り尽しぬ「春」 
山吹咲く工女が窓々の長屋「春」 
抗夫の妻子を作る山吹が咲く「春」
巣の蜂怒らせし竿を捨てたり「春」  
雲の峰稲穂のはしり「春」
水汲みし石垣の日ざかり迫る「夏」
妻に腹立たしダリアに立てり「夏」 
仏の中に弟ある柩白かりき「秋」
退学の夜の袂にしたる栗「秋」 
父の墓の前そろへる兄弟「秋」 
赤土よごれ墓おほけなく「秋」 
外套着しまゝ妻との夜中「冬」 
炭つかむ片手よごれたるまゝ「冬」
しつこく金の話して去にぬ火鉢「冬」
※碧梧桐には珍しく人事の句も突っ込んだものとなりました。(瀧井孝作)

水仙に水させば我明かなり「冬」
鴨の青首のやはらかに静かなるよ「冬」 
鴨むしる肌あらはるゝ「冬」 
炭挽く手袋の手して母よ「冬」 
※母は忙しいもの、いつも働いている。それもよく呼び立てられるのだ。今も呼ばれて立ち上がった母の手には、炭を挽く時にはめる汚れた軍手をしている。「母よ」の中に、母に対する理解のこもった愛情を含んだ「人間味の充実」が読みとれる。碧梧桐も「私の句は、かつては望み得ないとしていた人間味が出せるようになった。従来の技巧を捨てて、直接表現になったから可能になったのである」といっている。それは成長した作者の人生観がもたらした産物と言えよう。

人坐りてありし座布団重ねられ「冬」  
二階に上りし日のさす日南(ひなた)ぼこ「冬」 
白足袋裾ずれこの用もあの用も「冬」  
水排《は)けがわるい大根葉つパ「冬」
※短律、もうこの時代にTwitterのような口をついて出るリズムがそのまま時代のさきがけとしてあらわれている。

この二階は隣が近い雪除けの松「冬」 

酔ふておれば大通りまで連立つ寒さ「冬」  

・大正六年

荷車のそばに雪空仰ぐ子「冬」
雪掻立てかけし二人にて育ち「冬」
※おそらく兄弟であろう。せっせと雪掻きしていた二人が、同時にその道具を並べ一緒に腰を下ろした様子。そこに子供の成長を見たのである。自由律になって碧梧桐は人間味漂う句を多く作るようになった。

障子あけて雪を見る女真顔よ「冬」  
炬燵の上の履歴書の四五通「冬」  
牛繋ぎし鼻づらよ炬燵の我「冬」  
炬燵にての酒選稿愚かしく「冬」  
公園に休み日南の犬の芒枯れ「冬」  
牡蠣飯冷えたりいつもの細君「冬」
※自分の妻のことを、他人事のように細君と、ちょっと突き放して言ったところに、巧みな夫婦の倦怠感が言い表されている。そう言いながらも仲のいい夫婦である。

寄居虫《やどかり》海につぶてして戻りけり「冬」  
蜷に寄居虫交る父は笑はず「冬」 
虎杖《いたどり》芽立ちカンヂキまだ解かず「冬」 
※虎杖とはタデ科の草

母と子と電車待つ雛市の灯「冬」  
雀が交るぬかるみをふみ「冬」  
吃る末子が梅に来る鳥の話する「春」  
二人が引越す家の図かき上野の桜「春」 
ゆうべねむれず子に朝の桜見せ「春」 
疲れてゐるからの早起火のない長火鉢「春」 
君を待たしたよ桜ちる中をあるく「春」  
入学した子の能弁をきいてをり「春」  
お前が見るような都会生活のあさり汁「春」  
※「夢破れた地方出身、下層階級の現実」と中村草田男はいう。

さもしい次男が土筆の袴とるを見「春」 
座蒲団積み上げたのにもたれてものうし「春」 
博物館へはいる人々のからげた裾をおろし「春」 
二人で物足らぬ三人になつて白魚「春」  
お前と酒を飲む卒業の子の話「春」
雨戸あけたので目がさめ木瓜咲き「春」  
葉桜の灯の遠い浅草の灯に立ち「春」  
舞台を拭いてゐれば日が暮れる妻が呼び「春」
※大正六年四月、上根岸の能舞台のある家に移った。嬉しくて自ら舞台を拭いている姿が微笑ましい無季句である。

母が亡き父の話する梅干しのいざこざ「夏」 
泣く話しての笑ひ話よ「夏」
祭見て来た黄八丈の昼過ぎ「夏」 
てもなく写生してしまひし石竹がそこにあり「夏」  
毛虫が落ちてひまな煙草屋「夏」 
女が平気でゐる浴衣地とりちらし「夏」 
子規庵のユスラの実お前達も貰うて来た「夏」 
※中村草田男は「お前達という呼びかけは、その昔、子規庵へ共に絶えず出入りした同門の仲間達へ、肩を叩くような親しみをもって話しかけた言葉ととる方が適当なようだ。赤ん坊のような指先のような、あの可憐なユスラ梅の実は、過去を追懐するしおりとしてはいかにもふさわしい。この句は、お互いの現在の小さな愛憎を踏み越えて、思い出によって相つらなおうではないかという、一種はかないようなヒューマンな気持が漂う。しかし、作品としては、中心の力がやや張り切らず、全体として緊密さの不足が感じられる」と評している。定型を守ろうとする草田男にとっては自由律句には緊密さが足りないというのは当然であるが、口語調の句となると碧梧桐が言うように、「自然のリズムとなって流れ出る五七五調でなくて、強いて五七五調に作り上げようとする技巧は、我の第一印象を鈍らし、同時に詞(ことば)を殺す。第一印象を重んじ、生きた詞を要求する直接表現はやがて形式の破壊となって、最も自由な表現をなし得るようになった。この表現の自由が、どれほど我等の印象感激を赤裸々に露出し、同時に我の持っている生きた詞を臆面もなく押し出さしめたであろう」「表現の自由は、詞とリズムを出来得る限りに於いて生かしめようとする要求の産物に外ならないのだ」という。この言葉に自由律へ進んだ、当時の碧梧桐の心境がうかがわれる。

大通りを真直ぐに帰り簾屋《すだれや》が起きてゐるなり「夏」
酒の中毒のもろ肌になるかな「夏」 
昼寝してゐたときに来た母の知らぬ君「夏」
短尺腹立たしく書いて蝿叩を持ち「夏」
読み了つたイプセンに朝の蚊帳垂れてある也「夏」 
※イプセンとはノルウェーの劇作家。代表作は『人形の家』で、舞台劇として日本でも馴染み深い作品である。

りたけの力小猫が育つ朝々「夏」
道に迷はず来た不思議な日の夾竹桃「夏」
女なれば浴衣の膝づくる皺「夏」 
葭戸にして叱らねばならぬ妻也「夏」 
下女より妻を叱る瓜がころがり「夏」 
手拭を頭にいつもあちらむきをる舎監「夏」 
真白い岩にかこはれてゐる小さき裸「夏」
お前を叱つて草臥れを覚え卒然と立ち「秋」 
足ふんだ男が我を見る菊の夜の灯「秋」 
父はわかつてゐた黙つてゐた庭芒「秋」 
椎の実沢山拾うて来た息をはづませ「秋」 
父の思ひは病める母の秋夜の枕元「秋」 
動物園にも連れて行く日なく夕空あきつ「秋」 
二人が一人づゝになつて遊ぶ梨がころげ「秋」 
秋日子供ら遊び足りて母ら子守ら「秋」 
芙蓉見て立つうしろ灯るや「秋」
人の踏み荒した桜落葉暗し「秋」 
さら綿出して膝をくねつて女「冬」
ことしの菊が玉砕の部屋中「冬」 
芝居茶屋を出てマントを正す口に唄出る「冬」 
冬夜子供の寝息我息合ふや「冬」 
編み手袋のほぐるればほぐす「冬」 
奈良に行きたく行くまじとする冬の夜更け「冬」 
葱を洗ひ上げて夕日のお前ら「冬」 
交りがさめた犬のショボく(繰り返し)な眼の霜「冬」 
綿入れを着て膝正すことの勘定日「冬」 
炬燵が焦げてもう言つてしまつた「冬」 
その辺であきらめて母なれば炭ひく「冬」 
みや子を大阪に返すとてつれ立ちぬ「冬」
ストーブを離れ革椅子に身を沈めて君等「冬」 
牡蛎船の屋根に鴉が下りたのを見て黙りたり「冬」  
草臥の炭火を灰で覆うた「冬」
蕎麦屋を出て来た女のフリーショール「冬」 
強い文句が書けて我ならば師走「冬」
親を離れた君を無造作に迎へて火鉢「冬」 
水洟を落した歩廊裾ずり「冬」 
蕪村忌・子規旧庵
曼荼羅をとり出して掛け股引まだはかず「冬」 

・大正七年

煉瓦塀の林の道が菜畑になつた「冬」
林檎をつまみ云ひ尽してもくりかへさねばならぬ「冬」
※やや長い句ではあるが碧梧桐は「一字を減らすことも出来ない、一字を加えることも出来ない、絶対な表現を要求して、出来うる限りの言葉と文字をつかもうとしている。それと同時にそれが散文と異なる音律を発揮しようとしている」「感激の高潮が日常の語(口語)でピッタリ遺憾がなく表現できれば、まったく結構なことで、打てば鳴りそうな作者独特の個人の境地は、こうした口語でなければ表現できない緊密さを持っている」と言っている。これも自由律となった俳句の当然の一つの姿である。また「長句短句論」でこうも言っている。「われわれは一切の因襲観念にとらわれず、従来の音律論の幻覚に迷わされず、内部生活を直接に生々と表現するために、長句短句にもあえてこだわらない」ともいっている。

子供のマントの事で業を煮やし妻ら「冬」 
酔うことの許されて我正しき火鉢「冬」 
※酔うことは往々にして愚の方向へ動く。しかし「許されて我正しき」と決然と言うのは、なにか強い信念が感じられる。これまで多くの人の非難にさらされ抵抗してきた、その碧梧桐の孤独な姿が浮かぶ。

君の絵から離れて寄るストーブあり「冬」 
肉かつぐ肉のゆらぎの霜朝「冬」 
マントの下の紙包み兄との無言「冬」) 
話のいとぐちがほぐれ若鮎の香が漲った「春」 
子を引越すので親犬の雨の夜「春」 
残つた雪掻く爪先きの芝草「春」 
最後の話になる兄よ弟よこの火鉢「春」 
淋しかつた古里の海の春風を渡る「春」 
古里人に逆らつて我よ菜の花「春」 
女を側へ袖触るゝ桃「春」 
そば屋で真面目な話して綿入襟垢「春」
網元がやさ男であつて草餅盛られ「春」 
白魚一ふね君の前ながら買つてしまひ「春」 
中腰で目刺を炙《あぶ》つて戦はんとす「春」 
木瓜が活けてある草臥れを口にす「春」 
軍服脱ぎ捨てゝもう夏なる畳(上海義勇隊生活)「夏」 
合歓大樹いきなり同胞の親しい言葉「夏」 
睡眠不足の筆噛む我が歯「夏」
お前に長い手紙がかけてけふ芙蓉の下草を刈つた「夏」 
刈り遅れた麦で皆んながそれぐに不満なのだ「夏」 
子猫十二のお前を慕つて涙ぐましい話「夏」 
中庭の藤椅子空いたのがなく旅の大声「夏」 
客間のうたゝねのよれく(繰り返し)の白服「夏」 
我顔死に色したことを誰も云はなんだ夜の虫の音「夏」 
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ「秋」 
※「売られる」という言葉は使われていないが、「辻」とは岐であり、それは人生の分かれ道とも言える。そこからこの牛は売られていくのだろうと想像がつく。そして秋は一年の終焉をもうすぐ迎える時期で、やがて「冬」すなわち終わりを迎える。そんなことを知らず、のどかに牛は空を見渡している。その瞳に映る秋空はあくまでも青い。

又隣のドラ声の夕べの真ツ白な月だ「秋」 
妹の病ひ早やう冬にしたい「秋」
楢《なら》の葉が散る楢の幹の中の私の格子戸「秋」
夜の鏡があつて外套の襟が折れないで「秋」
※夜の鏡とは何を象徴しているのか。なぜ外套の襟が折れないのか、ミステリアスな大人のエロチシズムへとシーンは続く。

代々木八幡の椋の実が拾はれる界隈の女房ら「秋」
菊がだるいと言つた堪えられないと言つた「秋」
酔へないでしまつて秋刀魚の腸が出てゐた「秋」
弟を裏切る兄それが私である師走「冬」 

・大正八年
正月の日記どうしても五行で足りるのであつて「冬」 
二人の言葉切れぐになつて懐炉が出るのだ「冬」
トルストイの書いた羊皮の外套思ふべし「冬」 
※この句は『戦争と平和』『復活』などで知られるロシアの文豪トルストイ『人は何で生きるか』が題材である。
 天使が神様に女の魂を天国に連れてくるように命じた。しかしその女は双子を抱えて死にかけており、可哀想になって魂を持ち去ることを止めた。怒った神様は「三つの言葉の意味がわかるまで帰るな」と言って、天使を地上に放り出す。その三つとは、「人には何があるか」「人には何がないか」「人は何で生きるか」であった。地上に放り出された天使は寒さと飢えで死にかけていたが、偶然通りかかった貧しい靴屋が、羊皮の外套を天使に着せて、家に連れ帰る。そこで天使は一つ見つける。「人には愛がある」と。残り二つは何なのか興味の在る向きは実際に読んで頂くとして、この句はまことに碧梧桐らしい、ロマンチシズム溢れる句である。

君に失望した襟巻なるを濃き色よ「冬」 
弟いつまで端居して木の芽空どんよりな「春」 
弟よ日給のおあしはお前のものであつて夜桜「春」 
子を亡くした便りが余りに落着いて書けて青麦「春」 
忘れたいことの又たあたふたと菜の花が咲く「春」 
芝桜にそれくの手を伸べ「春」
彼ら一斉に口々に叫ぶ合歓は花なし「夏」 
紫陽花挿したがつたのを挿したお前もう目覚めてゐる
(M子病む三)「夏」
※M子とは碧梧桐の養女、美矢子のこと。
髪が臭ふそれだけ云つて蝿打つてやる(M子病む三)「夏」 
蝿たたきを持つて立つた寝た口があく(M子病む三)「夏」
梨売が卒倒したのを知るに間があつた「夏」
髪梳き上げた許りの浴衣で横になつてるのを見まい「夏」
※この頃の句はほとんど口語であり、必然的に句も長くなった。二十八音もあり、これが俳句かと言われそうだが、それではどこをどう削ればよいのか。「許り」を省くか、そうなると湯上がりの清新さが失われる。次に「横になつてる」を「臥す」にするとなると、ご婦人の湯上がりに休んでいる上品な艶っぽさがなくなるのである。形式にとらわれず自由に作っているから、出来る句であり、定型から踏み出し、こういう句が生まれ出てきたことこそ自然な現象なのである。

家が立つた農園のコスモスはもう見えない「秋」 
網から投げ出された太刀魚が躍つて砂を噛んだ「冬」

 

碧梧桐句集(十二)海紅文庫海紅編集部編
・大正九年より
去ぬことを忘れないで仰向けになつて炬燵「冬」 
月見草の明るさの暁け方は深し M子逝く)「夏」
※五月に養女、美矢子が十六歳で没し、四歳の頃から育ててきた碧梧桐の涙があふれてくるような表現。

肩を病む日頃の蟻も上らぬ畳(和露墅)「夏」 
葉蘭の枯葉がもう立秋の風にまともなのだ「夏」
植木の針金が日盛りの日に錆びて「夏」)
 

・大正十年 
ミモーザの咲く頃に来たミモーザを活ける「春」
ミモーザを活けて一日留守にしたベツドの白く「春」)
※イタリアローマの句で、この年の二月から六月まで、ローマに下宿し、この花にも馴みの深い心持ち。この句は季題からも離れているが、こうしたところから「俳句」でなく「短詩」と称することになるのだが、決して俳句的骨子は失われていない。
ちなみにここで詠んでいるミモーザとはアカシアの木である。

ローマの春の人々の腰してこの石「春」 
この窓は春の日もさす時のなく「春」
浴衣着てあぐらかくそれぎりなのだ「夏」
干反つた落葉ふんで彳《ただず》まねばならぬ「秋」

・大正十一年
日の出間がある海際をあるく気になつた「冬」
隣の梅を見下ろして妻の言ふこと「冬」
風が鳴る梁の雪明りする「冬」
もう雪はなく雪雫せぬ庇「冬」
山焼く人らの我が前の山々「春」
姉は生え際の汗のまゝにて(久しぶりに故郷に帰りて)「春」
暗く涼しく足の蚊を打つ音を立てた「夏」
草をぬく根の白さに深さに堪へぬ「夏」
※瀧井孝作によると原型は「草をぬく根の白さに」であったが、「碧」創刊号で「に」が削除されている。原句からすると、そのあまりにもの白さ、土深く生を営んだその深さを見ている自分は、かろうじて堪えたというものであろう。ここに人間碧梧桐の微妙な心の動きを見てとれる。

三家族の揃うた朝の新豆むしる「夏」
清水の広場二人の胡蓙《ござ》敷いて女らしく「夏」

・大正十一年「碧」
窓から汐焼の顔押し出して姉妹ら「夏」
セルに浴衣を着重ねたのを弱々しがる「夏」
隣の柚子が黄ばんだ雨上りの日でした「夏」
藁つむ男離れゐる牛にかゝはらず「夏」
※平凡な農村風景に見えるが「かかわらず」と言ったところに、かえって両者のかかわりが鮮明に見えてくるのもおもしろい。

柿の落る音の柿が掃きよせてある朝々「秋」
干す舟にもたれて海のあなたの男を恋ふる「秋」
工場休みの澄みきつた日の笑ひ声がする「秋」
枯草をやきすてゝけふの仕事がすんだ「冬」
重ね着の袖口から出た数珠の全たい「冬」
雪がちらつく青空の又此頃の空「冬」
枯草積みあげてけふは焼くまい「冬」
子供ら敷きすてた日南のむしろに上がる「冬」        

・大正十二年
雪ふみすべる出勤の彼らに行きつぐ「冬」
燻ぶる煙をいとふ女と二人「冬」
カナリアの死んだ籠がいつまで日あたる「春」
君が病む窓の黒猫が寝てゐる「春」

関東大震災九月一日
松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて(震災雑詠)(夏)
※これより震災の句が続くが、最初に最も小さく可憐なものが震災に耐えている姿を描いている。このところが俳人でありたる由縁だろう。後の「水道が来たを」の句のような、震災そのものの句よりも、痛ましさは増す。

蝉がもろ声に鳴き出したのをきく(震災雑詠)「夏」
投げ出してゐる足に日のあたるさま(震災雑詠)「夏」
ずり落ちた瓦ふみ平らす人ら(震災雑詠)「夏」  
青桐吹き煽る風の水汲む順番が来る(震災雑詠)「夏」
両手に提げたバケツの空らな(震災雑詠)「夏」
水汲みが休む木陰にての言葉をかはす(震災雑詠)「夏」
蚊帳の中の提灯のあかりのしばし(震災雑詠)「夏」
夜の炊き出しの隙間をもる火(震災雑詠)「夏」 
屋根ごしの火の手に顔さらす夜(震災雑詠)「夏」
焼跡を行く翻へる干し物の白布(震災雑詠)「夏」
米を磨ぐ火をおこす寝覚めである(震災雑詠)「夏」
四谷から玉葱の包みさげて帰る日(震災雑詠)「夏」
水道が来たのを出し放してある(震災雑詠)「夏」
塀の倒れた家の柚子の木桑の木(震災雑詠)「秋」
出しなに氷柱打ちはらつて往つた若者「冬」
妻と雪籠して絵の具とく指「冬」
※この時代にこんな日常的な事柄を句に取り上げる事はかつてあっただろうか。これが自由律句とも言えよう。

ぶらんこに遠く寄る波の砂に坐つた(満州の作)「冬」
白塔は寒い足どりのうしろに立つとる(満州の作)「冬」
けふ一日ぎりの石炭をすくひ残さず(撫順 満州の作)「冬」
毛帽をかぶつた顔を見るのだつた私(ハルピン)「冬」
大きな雪の塊は沈もうと舞ふのだ(ハルピン)「冬」
オンドルに居ずもうて浴衣になりぬ(満州の作)「冬」
牛が仰向に四つ脚が縛られとる霜(満州の作)「冬」

・大正十三年
桜活けた花屑の中から一枝拾ふ「春」
※花瓶など桜を活けたときに、無駄な枝を鋏で剪り落とす。その花屑の中から、まだ花のついている枝を拾うのである。手先の技巧はなく、そこには自然現象と人間の自然の動きが一つとなり心地好いリズムとなっている。

家明け放してゐる藪高い椿の白「春」
馬をはだかにしてゐる若者の唄うたふ「春」
パン屋が出来た葉桜の午の風渡る「春」
薔薇をけふも書きついで色の淋しく「夏」
昼寝時間の工夫らの寝る中をもどる「夏」
イワナ売りが物言はぬ子を連れて来て叱る「夏」
昼顔の地を這うてゐる花におしまひの水流す「夏」
よべ帰つた雨戸をあける葉雞頭のゆれてゐる「夏」
牛を一つによせて坐つて下草の花「夏」
鳥居によりたかつてゐた夕暮れの子供もゐない「夏」
ポケットからキヤラメルと木の葉を出した「夏」
一箱のさくらんぼ蓋とつてある「夏」
木の間に低く出た月を見て戸を引いてしまふ「秋」
ひるから曇る此頃の釣りに行く日なく「秋」
一ひらの雲にかくれ又あらはるゝ月見つゝ行く(玉泉の愛児を悼む)「秋」)

散らばつてゐる雲の白さの冬はもう来る「秋」
※繊細で自然に対する深い感想でもあり、日常の観察が固い文語表現ではなく、日常の言葉で自然に表現されている所に妙がある。七七七音の調子は安定して心のリズムに落ち着きを持たせている。また「の」の使い方の巧さ。主体を「雲」から客体である「冬」へ変えている。

ユーカリの葉裏吹く風のごみ捨てる「秋」
橋の茶店に休む水の面の落葉流るゝ「秋」
毎日の古本をあさる指先の汚れ「冬」
山を下り湖ほとりに宿とつて一人になつた「冬」
退院する君の部屋のベツドにもたれてゐる「冬」
母をみとるよるの機音の絶えぐ(繰り返し)にする「冬」
大根を煮た夕飯の子供達の中にをる「冬」
※幾多の変遷を経てこうした境地に辿り着いたのである。もうここにはかつてのような、鋭い官能や孤独でギラギラと尖った碧梧桐はもはやいない。平凡な日常に身を置く穏やかな一人の人間がいる。これを人は老いというかも知れないが円熟した時期と言っても過言ではない。

雪をかきそめて次々に起きて来る子供達「冬」
菊の鉢片づけて一杯な夕日になる日(六花の亡妻を悼む)「冬」                

 

碧梧桐句集(十三)海紅文庫 海紅編集部編
・大正十四年「三昧」
広場に枯れて立つポプラの下をもう三度通る「春」
裏からおとづれる此頃の花菜一うねの咲く 「春」    
菜の花を活けた机おしやつて子を抱きとる 「春」
瀬戸に咲く桃の明方の明日の船待つ    「春」
散歩に出た道すがら田に水を引く人とあるく「春」
雨上りの麦吹く風の空馬車に乗る     「夏」
※風間直得が「『風の』『の』は心の響きを簡単に詠嘆して、下の句へなだらかに呼びかける、平明な感情語で、対象と心の消息を語る、短縮された俳詩の生命線である」と言っている。この「の」は、「は」や「が」のア行と異なり、口を紡ぐので少し陰に籠もり曖昧となる、乙字の言う「対象と心の消息を語る」ということになり、定型の切れ字に当たるような落ち着きがある。碧梧桐はこの語をよく使った。

ひとり帰る道すがらの桐の花おち     「夏」

こよひも泊る寺に下りる道のつゝじ咲き残る「夏」
雨もよひの風の野を渡り来る人声の夕べ  「夏」
工場の建ちひろがる音のけふも西風の晴れ 「夏」
工場休ミ日の裏の糸瓜の棚づくる朝    「夏」
沖遠く来ぬオールにさはる水母をすくふ  「夏」(栗林公園即時「夏」)
水べの石夕明りして渡る橋の一つを 
灯近く盆のビスケツトの湿りてある夜   「夏」
舟から蜜柑買うて寝てしまふ一人の男   「冬」
釣り人のゐた岩までは行く岩に立ちて見る 「冬」
橋を渡り師走の町飾りする見て戻る    「冬」
※「三昧」の大正十四年十二月から昭和二年末まで二十四講に及ぶ俳論「我等の立場」が連載された。その中で碧梧桐所論の最も大切な部分は、詩の言葉は感情の主体と脈絡を保ち、その音律が感情の動きを表示することを重視する点である。永い碧梧桐の俳句探求の結論の要約されたものかもしれない。

・大正十五年
此の頃妻の亡き八百屋菜を摘む葱を積むあるじむすめ「冬」
鉛筆で書きし師走便りの末の読みにくゝ「冬」 
汐のよい船脚を瀬戸の鴎は鴎づれ   「冬」
あちこち桃桜咲く中の山峡のこぶし目じるし「春」
※時間と空間、情感のさざめき、心理のニュアンス、墨絵の階調、嘆きか、ため息か、心持ちの滲み出すものが、詠われています。(瀧井孝作)

べ子供ら岸に寄る藻の水を棹打つ  「春」

手すりにも海からの燕とまりては並ぶ 「春」
春かけて旅すれば白ら紙の残りなくもう「春」
※伊沢元美は「概念的な『もう残りなく』ではなく、『残りなくもう』の措辞が感覚的で生き生きしている」という。つまりは説明的に、残り少くなったのを述べているのではなく、『もう』に感情が込められているのだと説く。

河鹿石にゐる山おろしの風に腹白き見ゆ「夏」 

西瓜冷えた頃留守をもる子猫を膝に  「夏」
山を出て雪のなき一筋の汽車にて帰る 「冬」
車中一眠りして一人になりし蜜柑手にふるゝ「冬」
灯を見て書きものゝすゝみしけふの今少し「冬」
炉の火箸手にとれば火をよせてのみ   「冬」

・昭和二年
大佛蕨餅奈良の春にて木皿を重ね    「春」
※奈良の春の旅の句だが、風間直得は「『大佛蕨餅』は説明的ではないかと思う人があるかもしれないが、それも下の句と呼応して、作者の感動の律動がかよっているのだ」という。九七七の軽快明朗なるリズムはいかにも春らしい。リズムについて碧梧桐は次のように述べている。「五七五のリズムに因襲的に随順することは気楽で呑気で親しみやすいものです。けれども、真に五七五でなければならない緊密さ、即ちそのリズムに生命あらしめることは、かえって困難であり、稀有であり、大いなる努力を要することです」

なつかしき花ミモーザの一本に御手洗をはなれ(神武陵「春」)

橇《そり》にのる靴をうちつけて音の二度まで「冬」
磧の雪一筋足跡づけてゐる子供ら遊ぶ 「冬」   

・昭和三年
新らし帷子《かたびら》の髯長《ひげな》がな胸もと結ぶ(朝鮮「春」)
あらゝか声を筏くむ冷え余り木より来「秋」
ラバ深みよる瀬の汐のド黒ロに釣れて「秋」
※鹿児島旅中の句。ラバは溶岩で、桜島の近くで釣りをした句。この句を風間直得は「『ラバ深み』で一度切り、『よる瀬の汐の』と『の』でまた小休止し、『ド黒ロに釣れて』と釣った喜びをよみ結んだ。この場合の『の』の重ね方、『ド黒ロ』の独自な表現はこの雄大な光景の中に層一層と力強い特性を表し得て、新傾向俳人が誰もよくし得なかったところをよみ得ている」という。
「ド黒ロ」は深い溝のような瀬を「ド黒い海面」とみたのか「小魚が群れド黒くみえた」のか読みとれないが、碧梧桐の造語であろう。

 

碧梧桐句集(十四)海紅文庫海紅編集部編
ルビ俳句時代
・昭和四年
一杯《ヒトツ》飲んで阿爺サ何いふの夕日が斑雪《ハダレ》 「冬」
※いわゆるルビ俳句。この方法は風間直得が始めたもので「三昧」では次第に流行した。直得が意図したのは要するに「短詩の表現に必要な緊密簡約性、象徴性、飛躍性等と近代印刷技術を結びつけ、ふりがなを活用し、それと内容を示す語を並べることによって詩を豊かにしよう」としたものであった。一杯をヒトツ、斑雪をハダレと縮めるやり方だが、これなどは、音にして読めば田舎の女性が老爺にちょっと話しかけているようでわかりやすい。しかしこれが進むにつれ碧梧桐はこの新表現を肯定したが、喜谷六花など旧海紅同人は、やがて『三昧』を離れた。
・昭和五年
やるせな人々多摩の河原は団座《グルワ》に広ロテ「秋」

・昭和六年
簗落《オチ》の奥降らバ鮎《コ》はこの尾鰭《オド 》る (破間川簗にて「春」)
※新潟県の破間川の簗で鮎を捕る様子を句にしたもの。簗落ちは、川に梁簀に鮎が落ち込むように仕掛けたもので、ヤナオチそのままでは簡約性に欠けるので、オチとした。多分この地方の人がそう呼んでいたものであろう。鮎をコとルビをしたのは鮎への親しみを込めたといえよう。しかし尾鰭る、「おびれおどる」では、直得が言う「緊密性、簡約性」に欠けることになるのでこうルビを振ったものと思われる。ここらまでは何とか理解可能である。以下にも理解可能なものをあげてみた。
紫苑野分《(キノフ》今日《ケフ》とし反れば反《(ノ》る虻音《ネ》まさる(庭園小景「夏」)

・昭和八年「昭和日記」

吹きさらされて塔の朱ケ肘木の肘の張り(当麻寺即吟「冬」)

・昭和十一年
明日《また》雪になるや西空《ソラ》の星《ヒトツ》を見かけて出る「冬」

・昭和十二年
金爛帯《テリ》)かゝやくをあやに解きつ巻き巻き解きつ 「冬」
※俳句としてはともかく、現代におけるルビによる当て字的な表現手法、例えば漢(オトコ)、宇宙(ソラ)、女(ヒト)、娘(コ)などが、現代メディアや広告のキャッチにおいて、当たり前のように使われている現状を鑑みれば、このようなルビ表現は先駆的であったと見ることもできる。碧梧桐の飽くなき革新への挑戦、と好意的に受け取ることも出来るかもしれないが、やはり俳句として、まして当時の俳壇においては非常に厳しい非難に曝されることとなった。中村草田男にあっては「日本語の破壊のわざ」とまで酷評するに至った。『三昧』からも多くの自由律俳人たちが去り、碧梧桐自身も『三昧』廃刊の後に直得が立ち上げたルビ俳句の自由律俳誌(ちなみに直得はこの段階では俳句ではなく俳詩と呼んでいる)の『紀元』には参加していない。それでも碧梧桐自身は個人的にルビ俳句を続けていたようだ。
老妻若やぐと見るゆうべの金婚式《コト》に話頭《カタ》りつぐ「冬」
※十二年後に自分たち夫婦も金婚式を迎えることを語り合っている句で、この年一月に腸チフス発病。翌二月一日肺血症を併発して帰らぬ人となった。
 碧梧桐句については今号で終了となります。次号から海紅誌に以前にもけいさいしましたが、碧梧桐の姪御さんに当たる、岡本百合子さんの「碧梧桐の思い出」を連載します。


碧梧桐句集(十五)海紅文庫海紅編集部編

「碧梧桐の思い出・その一」    岡本百合子 
(青木月斗六女、「海紅」岡本五郎氏夫人)
 昭和七年私は女学校を出てすぐ牛込加賀町の河東家に来た。叔父はとても規則正しい生活をされていた。女中が居なくなってからは、私が家事のことを引受けた。
 冬は朝五時から風呂を沸す。新聞を持ってゆくと床の中ですっかり読まれる。入浴してから朝食をされる。味噌汁の中へ卵を半じゅくにして椀にいれる。海苔と雲丹は欠かされたことがない。食事がすむと書斎にはいられる。夕食はお酒を飲まれる。いつも独酌であった。お酒のおかずは毎日同じようなものであった。お魚、酢物位であった。広島から送ってくる、かきも生のまま食べられる。わらびや若布も茹でて酢の物にする。手のかからないものであった。夕食後はごろり一眠りされる。
 目がさめると、さあ百合ちゃん散歩に行こうと誘って下さる。神楽坂を歩いてよくバナナを買って帰った。叔父の歩き方は力強くて早かった。皆が行かない時は一人で行かれる。毎晩散歩は欠かされない。帰ってきてから揮毫される。揮毫される前に冷や酒をコップでぐいと呑まれる。私は大きい硯で墨すりをする。毛せんを布いて揮毫の手伝をする。そして寝るのがいつも十一時過ぎになる。これが一日の生活で、毎日同じであった。
生活の苦しい時もあったと思うのに、叔父はお金がはいると、さあ皆で何処かへ行こうと云われる。デパートへ行き私にもハンドバッグを買って下さった。夕食は竹葉で鰻を御馳走になるのが常であった。全く気前の良い、お金に淡泊な叔父だと今になって思う。
 碧叔父は大へんおしゃれで、いつも卵で髪を洗われる。或朝叔父が風呂で髪を洗われた。湯上りを鏡の前に座わり、丹念に薄くなった髪の毛を櫛でなでるようにしておられた。一本でも髪の毛がぬけると、その髪の毛をつまんで百合ちゃん又脱けたと惜しそうに見せられた。   

 

碧梧桐句集(十六)海紅文庫海紅編集部編
「碧梧桐の思い出・最終回」    岡本百合子 
(青木月斗六女、「海紅」岡本五郎氏夫人)
 鵜平さん(塩谷鵜平一八七七―一九四〇俳人)の家には必ずたちよって来られる。叔父の死後も鵜平さんから、お餅は送ってきていた。長野のお弟子さんからそば粉を送ってきた。
或日叔父はそばの機械を買ってこられた。書斎から出てこられた叔父は「百合ちゃんお昼はおそばを作ろう」と言われた。叔父が自からそば粉をねる。機械の中身をぬき、細長くねったそばを入れる。押し出し機をぐるぐる廻してゆくと先に沢山穴があり、そこから出てくるのである。沸騰した湯の中で上手にそばが茹であがる。つけ汁と、薬味は私の役目である。お葱をきざんだり、ミカンのある時はミカンの皮をきざんだり、山椒の葉をそえたり、海苔を細く切って出したりすると、一層おそばが美味しくなる。叔父はおそばを食べると、便通がつくので良いと言って好まれた。銓兄さん(河東銓・碧梧桐の兄)が来られると、叔父が腕を振るっておそばを作って食べて頂いた。銓兄さんは昼ぬきの二食主義であったが、叔父の作られるおそばは美味しいと召上がった。そば粉のない時は、うどんを作られる。メリケン粉に卵を入れ、耳たぼ位にねられる。その手つきはとても上手で、私はいつも只側で見ているだけであった。ねり上げたメリケン粉を機械に入れる。先は穴の大きいのと取り替えておくと、うどんができるのである。北海道から大きい鮭を送ってきた時は、叔父が鮭を切って下さった。美味しい内にと、水木さん(水木伸一、一八九二―一九七八洋画家)へおすそわけをした。河東の近所に住んでおられた。叔父の死に顔をスケッチされた人である。
私が河東家に来た時は、碧叔父は俳句の方はもう止しておられた。何の収入で生活して居られたか、何にも知らない私であった。私の父「月斗」(青木月斗一八七九―一九四九俳人)からは毎月食費代として三十円叔母へ送金してくれていた。或時叔母(碧梧桐夫人・茂枝)は「叔父さんの収入が不定で困るのよ」しみじみ云われた。私ははっとした。こんな苦労があったのかと初めて知った父は生活の苦しい事も、顔に表わさず言葉にも出されなかった。
叔父は見たところは少しこわそうで、なじみにくいが、心はとても優しく理解があった。あまり必要以上に言葉をかわさないが、いつも暖かみのある叔父であった。

おわりに               中塚 唯人
河東碧梧桐という名前は誰でもどこかで聞いたことがありましょう。もちろん俳人としてだけでなくジャーナリスト、旅行家、書家、能楽師など多方面でその才能を発揮した人です。しかし、その代表句の二、三は聞いたことがあるとしても、碧梧桐が俳句の世界にどんな偉大な足跡を残したか、放哉や山頭火の知名度に比して、その業績や句の認知度は圧倒的に劣っていることも事実です。
それは何故かと考察してみると、まず碧梧桐は生涯に一万五千から二万句を作ったと言われています。さすがにここまで来ると、碧梧桐の作品といえども玉石混淆と言わざるを得なく、すべてを並べられてこれを読破しようとすることは至難の業です。第一に時代が違いすぎ、当時の風俗や言葉自体も理解しがたいのが実態です。そこでこれらの句をもう一度現代人の目で光を当て、自分たちの眼で読み直す必要があるのです。先ずは時代に即さないものは用語を含め解説を加え、特に碧梧桐自身の俳人生活を含めた生き様を知ってもらうことから始める必要があります。さらに碧梧桐句の変遷、むしろ俳句の革新の歴史という方が正しいと思いますが、それを知ってもらうために改めてこの句集を作りました。そして碧梧桐句を読み解くには年譜と照らし合わせ読むことがキーワードと考えます。むしろ年譜を先に読むのが碧梧桐を理解する近道かも知れません。
後年の碧梧桐の評価は様々で、ほとんどはその俳句人生を失敗と位置づけています。それは晩年にルビ俳句に進み、その難解さがまるでこれまでの俳句をぶち毀した異端者の如く、そのことだけをことさら取りあげ、それまでに碧梧桐の残したすべての功績を見失っているのです。端的に高浜虚子は商人で碧梧桐は書生だと言う人もいます。そこには俳句に対して碧梧桐は余りにも探究心が深く、革新的で、求道者的で、誰も認めず同調するものがいなくとも、己だけでも俳句の文学性を高め、信じる道を押し進むという姿が他の人を寄せ付けない孤高の人、尊厳に満ちた独善家であるかのように作り上げ、その努力を惜しみ従来の俳句の世界に安穏としていた人たちは、碧梧桐を敗者と決めつけて自分たちの地位を守ることに専念しなければならなかったのです。
唯一の正当な評価と言えるのが巻頭にあげた瀧井孝作です。瀧井孝作は大正四年に碧梧桐が創刊した、俳句誌『海紅』の編集を任された中塚一碧楼を五年余り助け、常に間近で碧梧桐を見ていた人だからです。瀧井孝作は碧梧桐の俳句革新の道、その苦難に満ちた道程を正確に捉えています。結果だけを垣間見てそこから逆算して評を下している、にわか碧梧桐評者とは違うのです。巻頭をじっくり読めば明白になることと思います。
また一個人としては人間味溢れる淋しがり屋であったことを、晩年の河東家で娘のように可愛がられた岡本百合子さんの「碧梧桐の思い出」を読み、「人間碧梧桐」を知ってもらえたらと思います。
そしてこの句集を読み終えた時に、ご自身で新たに碧梧桐を再評価してもらうことを念じ「あとがき」とします。                                                               完