寄稿万華鏡2

一碧楼三十句選】          中塚 唯人

【第一回】(三回連続)
 もう三年位前になろうか、一碧楼の代表句三十句を選ぼうということで、私と田中耕司、平林吉明、石川聡、梶原由紀の五人で選句をし、評を付けることを企てた。これまで未発表の儘になっていたので、この機会に「新春譜」として取り上げてみたい。最初は三百句ぐらいを選出し、さらに百句、五十句と絞り最終的に三十句としたものである。年代順に紹介していこう。

「はかぐら」(明治四十一年~大正二年まで)

一、春の宵やわびしきものに人體圖
※理科室にある人体図や模型を初めて見たときは空恐ろしいものであった。一碧楼はそうしたときの体験をそのまま句にしたのではないと思われる。そこには一皮剥いたときの人間の真実の姿を見たのではあるまいか。まるで己自身が身につけている欲望があらわになったような衝撃が。

二、離縁話かる〲と運ぶ麥青し
※ある時期に一碧楼は播州飾磨の素麺問屋に入り婿した。
しかし半年前後いただけで自分の郷里玉島に帰ってしまった。それは決して一度は夫人となったその人に不満があったわけではなく、俳句を捨て商家の一市民になることが堪えられなかったのが理由だ。それを明るく言い放ったところに、不自由からの離脱とその人に対する憐憫を一句とし、区切りとしたのであろう。

三、誰のことを淫らに生くと柿主が
※「日本俳句抄」に河東碧梧桐はこの句を「新傾向の指針」と激賛しているが、一碧楼の原句は『恬然と淫らに生くと柿主が』である。このように碧梧桐はおのが信じる新傾向運動を推し進めるために、添削、改作、二句を一句に縮めたり強引な手法を使用した。これが後に一碧楼の「自選俳句」につながり、自由律俳句を生み出す原点となったのである。

「第二句集(「はかぐら」以降大正九年まで)
四、霙れるそのうなぢヘメスを刺させい
※おんなのうなじへ落ちる霙はメスのように冷え冷えと、全身が痺れるような感触とエロチックで官能的なリズムを堪えている。これからの人生に対する焦燥に本能的に脅える一碧楼の青春の一句である。

五、くろちりめんひんやりすあかゞねひばち
※この頃の一碧楼は自然主義文学運動の手法に則った私小説的表現をも試作している。恋愛や性愛のモチーフによる大胆で自由な表現展開として句に残されている。この句は、そういった私小説的手法をつきつめた最後期にあたり、単なる私小説的表現から抜けだしつつある過渡期の作品と言える。
 一碧楼の実験は更に一歩進んで、市井に生きるものの、ふとした感興をミニマリスムスによるリアリズムで現わすように変遷しつつある(※尾崎裸子著 中塚一碧楼研究を参照)。
 視覚的表現においても、多行、分かち書きの試みが初めてなされた句でもある。一碧楼は大正二年~九年の間にこの句を詠んでいる。
  くろちりめん ひんやりす        
         ひんやりす
              あかゞねひばち

の二句一章構成で、懸け橋となる「ひんやりす」自体が一碧楼の主観(詩情)を現わす語でありキーワードとなっている。この句は、昭和二十二年に初めて多行、分かち書き形式の句を公表した高柳重信よりもはるかに先んじている。
 なお冬海に掲載された分かち書き作品はこの一句のみで、その後の作品の表現手段としては捨て去られている。一碧楼には多行形式で時代に先んじて詠む先見性も力もあった。一碧楼が目指す先には多行形式はさして重要ではないと判断されたのかもしれない。尖鋭的な俳句表現のフィールドを踏破する実験句でありながら、傑作でもあるところに一碧楼の才能が煌めいている。その意味から見逃せない一句と言える。

六、梨を食うてゐるやさしい悪者でした
※梨を噛む、しゃりしゃりとした音は童心を思い起こす音であり、梨の甘味は安心感を満たしてくれる。もしかするとこの悪者は一碧楼自身を指しているのか、または心情的に近い人間のような気がする。悪者であっても、梨を口にするときはやさしい者となってしまう。そして果汁を滴らす男の仕草は頽廃的で自虐的でありながらも、偽善を嫌う若者の清々しい潔さを思う。そして「善人」でなくて「悪人」を詠んだところにこの句のやさしさが溢れている。

七、牛の角がぐつと曲つてゐて麥が熟れ過ぎた
※ぐっと曲がった角を持つ大きな牛がいる。その後ろ一面に麦畑が広がっている。牛の角のぐっと曲がったさまはいかにも猛々しく絶頂を彷彿させる。しかしその後ろには熟れすぎた麦が広がっているのだ。この二つの対照がこの句に見事な遠近感を描き出している。

八、裸で飯を食うて淋しいか足を組みなさい
※服を着ないでいることは頼りなく、心細くなってしまう。足を組むことは構えを作ることであり、心細い心中から自身を守る術でもある。それは自分にも言い聞かしていることだろう。一碧楼はこうした決意を持って旧態依然たる俳句界へ雄々しく挑んでいくのである。

九、TRUK《トルコ》のやうな浴場が欲しい場末の秋だ
※場末の歓楽街のもの悲しい秋の心象風景。大衆浴場や銭湯ではなく「TRUKのやうな」浴場と言ったところに、俳人では括りきれない頽廃的で豊かな想像力を持つ詩人一碧楼のスケールの大きさ感じられる。

十、娼の名は文の助千住は蚊の早い
※碧梧桐は、一碧楼について「俳句も天才だが、放蕩も天才だ」と言ったと伝えられている。遊女の艶やかな香り漂う色街千住あたりは、春浅い頃から蚊が飛んでいるようだ。遊女の名前を上手く使い遊郭の昼下がりの開放的な雰囲気をよく醸し出している。本来であればこういった題材は文学的な見地からは隠しておきたいはずのものを、堂々と明らかにしている。一碧楼の自信が表れている作品と思う

【第二回】
「新春譜」に引き続き今月も十句と行きます。

「第二句集」(「はかぐら」以降大正十年迄)
十一、罎の中で動いてゐるやうな秋の一と日だ
※秋のある一日を表現するのに風景描写を廃し、肌に感じる感覚のみで作られた、それまでの伝統俳句には見られなかった感性の研ぎ澄まされた句だ。

十二、無産階級の山茶花べたべた咲くに任す
※文芸において隆盛の一角を占めていたプロレタリア文学運動を一碧楼なりに見極めて詠んだ句。自己の句作態度とプロレタリア文学との距離を最も端的に表現した一句とも言える。
この句では、無産階級の心情を「山茶花べたべた咲く」という象徴的表現に留めることによって、純粋な詩的要素を優先した。一碧楼は自作の句においては、積極的にイデオロギーに近づき寄り添う作品を発表することはなかったが、一市井の人としての気概は常に持っていた。

十三、爐話の嘘をゆるす赤い馬車も出て來い
※冬の爐辺において語られる話は良いものである。民話や昔話、おとぎ話などもふさわしい。そこには赤だけに染まった現実や真実だけでなく夢のある話がいっそう良い。ここでの「赤い馬車も」の「も」はそういった意味を持っている。

十四、山一つ山二つ三つ夏空
※一つ二つ三つと山の数を増やすことで稜線が重なりながら、視線がより高い峰へと導かれ、最後に高い大きな空へと広がっていく。ぱっと映像として景が脳裏に浮かび、調べの滑らかさ、そして「夏」の一語による明確な季感が、山や空の色彩や自然の雄大さを従え、心持の澄んだ詩の格調の高さへと導く。どの要素においても全てが簡潔明瞭な語句でシンプルに構成されている。だからこそ無限の詩情の余白や余韻が生み出されてくる。まさに、自由律写生句の傑作として見逃せない一句であろう。

十五、とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま
※昭和五年六月に秋田の檜木内へ同人を訪ねた時の句会句。一碧楼は折から聞こえてきた鳥の声を聞いて「あれは何という鳥」ですかと尋ねた。すると秋田の同人は「とっとう鳥です」と応えた。実は筒鳥(つつどり)と答えたのが訛って「とっとう鳥」と聞こえたのだ。鳴き声も「とっとうとっとう」と聞こえるので無理からぬこととも言えよう。しかしこの句の素晴らしさはは「とつとう」を繰り返し、「青くて」と「山」を重ねることによって、その鳴き声が山間にこだましてくるようだ。そしてその山の上には何処までも青い空があるに違いない。遠大で自然の限りを遙かに超越した一句である。

十六、橋をよろこんで渡つてしまふ秋の日

※この作品は、「秋」でなければいけないのかという疑問が海紅同人の中で議論された。確かに暑い夏や寒い冬では季節感としてこの心情にはそぐわない。春は一見ふさわしいようにも思えるが、春は入学、就職、転勤、別れなどの不安もつきまとう時期でもある。秋の澄み切った空、これが一番ピッタリとするようである。ただ一碧楼はそれを計算尽くでこの句を作ったのではない。むしろこの句に秋が必然的に舞い降りてきたという方がふさわしく思える。自由律は季を否定しているわけではない。この句のように自然と一句に降臨してくるような季が望まれることを教えてくれる一句だと思う。
  そしてこの句は一切の説明を必要としない。一碧楼はただ秋の日に橋を渡った喜びを、その心持ちの良さを詠っただけなのである。それはあたかも自己の体内から自然に生まれ出た「こころのうた」なのであるから。
十七、冬日が來るその屋根をぬつてくれ赤いいろでも黒でも
※十三の句でも見られるが、一碧楼は色の使い方が上手い。特に「でも」と入れたことにより赤と黒のコントラストが絶妙だ。それはあたかも冬日に照らされ光り輝いている様が一枚の絵のように眼前に映し出されてくる。そして何色でもいいようであるがここは赤か黒ではいけないのだ。

十八、垣越えて来しよ枯草をしばらく歩いたでもあらう(どろ坊来る)
※昭和九年十一月半ば一碧楼宅にアキスがはいった。ちょうど家族全員で出かけていたときだ。室内はことごとく荒らされ、引き出しという引き出しは開けられ中身を物色されたようだ。しかし盗られるようなものはない。どろ坊くんもよくもまあどの引き出しの中にも紙のような物ばかり入れてあるものだと、変に困っただろうと一碧楼は言っている。さらに我が家にもどろ坊が来るようになったかと妙にくすぐったい気持になったと言い、どろ坊も家人が出払った後で、それを見て入ったのだから、どろ坊だけが悪いのではなく僕たちも悪いぞと反省してさえいるのだ。このような題材も一句としてしまったことで、その後、各地の海紅同人からお見舞いや問い合わせが続々とあったことを一碧楼は恐縮している。

十九、すうたらぴいたら少年ピッコロを吹く春の日地のしめり
※一碧楼作品に特徴的に使われる擬音語、あるいは擬態語がある。このような言葉を使った場合には、従来の定型俳句の五七五音ではではとても一句にまとめられない。これこそ自由律でなければできない、思うところを思うように作ると言った、一碧楼の面目躍如といえる。長くてもそう思わせない句、短くてもだらだらと思わせない句、自由律人として肝に銘じておきたい。

二十、青い木が木が立つて牛が腹がだぶんだぶん
※手前に青い木が立っている。さらに遠くにまた木が一本立って見える。「木」を二度使うことによって疎林の景色の広がりが正確に表現されて来る。その間を牛がゆったりと牧草を食みながら移動しているのである。移動している牛の動きが「だぶんだぶん」と揺れる腹の動きで浮き彫りにされており、ユーモラスさを感じさせながらも隙の無い格調を湛えた心持の好い一句となっている。

【第三回】(最終回)

昭和十一年から二十一年絶句まで
二一、わたしのあばらへ蔓草がのびてくる
※一碧楼の心象風景を象徴的に詠んだと思われる句で、珍しいスタイルと思う。蔓草がいったい何を象徴するのか。どうしてあばらへのびてくるのか。読者によって色々な解釈が成り立つスタイルの句で、本当の句意や具体的な意味合いは隠されてしまっている。読んでいると、蔓草が自分のあばらへのびて来て、更に喰い込んでくるようで少し怖い感じだ。一碧楼の強靭な思念が閉じ込められているような生命観をも感じさせられる。「蔓草」のみが漢字でありそこへ意識が集中して読む様な構成になっているからかもしれない。一読、惹きつけられる不思議な存在感がある句。

二二、二まい三まいにんげん青いすだれをたらし

※この句を読んで先の「くろちりめん/ひんやりす/あかゞねひばち」を思い出した人は相当の一碧楼通と認定しよう。この句も「二まい三まい/にんげん/青いすだれをたらし」と「にんげん」を中心とした三行分かち書きにも詠める句だ。しかし冬海に掲載された分かち書き作品は「くろちりめん」の一句のみで、その後の作品の表現手段としては捨て去られている。一碧楼には多行形式で時代に先んじて詠む先見性も力もあったが、一碧楼が目指す先に多行形式はさして重要ではないと判断されたのかもしれない。この一句が一碧楼の答えでその完成形とも言えよう。

二三、早春か戸塚に牛込に先生が根岸にもゐない
※河東碧梧桐への追悼五句の一句。一生の師と仰いだ碧先生の不在は、作者にとって大きな喪失である。牛込から根岸へと先生の思い出は駆け回っているが喪失感は募るばかりであり、そこには慰めにならない明るい早春の景色がただ見えるばかりである。

二四、きさらぎ子が生れ千住大橋ずつと大きい(金次君擧男児)
※海紅同人の吉川金次氏の長男が生まれたときの祝の句。金次氏は千住大橋の側に住んでいた。千住大橋は日光街道の隅田川に掛かる鉄橋で、芭蕉も深川からの舟をこの橋のたもとより上がり奥の細道を目指した。一碧楼はこのことも踏まえご長男の健やかな未来を祝してこの句を作った。それが「ずっと大きい」で見事に表現されている。

二五、男は次郎長の清水の海の冬凪
※一碧楼は自選を旨とし、「自信ある句」を掲げ、後ろに……が着くような読み手の力に頼るような曖昧な表現を好まなかった。そして「の」という言葉はその後の言葉を説明するような力を持つ。したがって前に着く言葉はすべて「冬凪」の説明ともとれる。それと同時に「の」は前に戻るような効果もある。ということは結句の冬凪から男は↓次郎長の↓清水の↓海の↓冬凪へともう一度頭へ戻っていくのである。しかしそれは何度繰り返されても「冬凪」という体言止めで一碧楼は言い切っており曖昧さは残らない。

二六、生きて修業をす秋の山彼方にあり
※敗戦の年昭和二十年の『俳句日本』、(戦時下において複数の結社が強制的に合併させられてできた俳句誌)の十月号に載った終戦直後の句である。修業と言う言葉は、句を詠むことを指しており、一碧楼の最晩年の心境を如実に表している点で見逃せない。尊い命がバタバタと失われたもっとも暗い世相のただなかで、切実な思いを持って句の業を修めるというのである。命がけの心意気でもって、しかし透徹した覚悟の静けさを持って、一碧楼が句作に向かったであろうことが切々と伝わってくる。そういう点で見逃せない一句だと思う。
 そしてさらに知っておきたいのは、原句は
  死なずして修業をす秋の山彼方にあり
であった。句会の席上で参座した同人から「生きて」ではどうかと意見が出た。その場ではその意見に一碧楼も同意したのであるが、後日、やはり自分としての心持ちは原句の方に近いと語ったエピソードがある。

二七、男の肩幅である咲いて木蓮の花
※なんと力強い句であろう。普通に考えれば「木蓮咲い
て男の肩幅で歩いている」であろう。しかし「男の肩幅である」が言いたいのでる。強調すべきものを最初に持ってくるのも手法の一つだ。そう考えてみれば結句は自然と「咲いて木蓮の花」となる。一碧楼にしてみれば至極当然のことであったろう。

二八、現在茄子の花のむらさき
※この句は一読して単なる情景描写なのか、それとはほかに何かを言いたいのか、読み解くことは難しいところである。しかしこの句も作られた時期が昭和二十一年と、終戦直後の夏の句とすれば多くを語らずとも理解が出来るというもの。海紅社の前の畑は、前年には空襲で茄子の花どころか焼け野原であった。それも戦争が終わった現在は、茄子の花が一面に咲き誇っているのである。平和な世の中をどれほどありがたく思ったのかを、一碧楼はただ見入るばかりである。
 この句はいわゆる「受け句」という句で、短律句によく見られる、先に受けているものがわからないと理解がしがたい。しかしそれがわかると最高の短律句となる。

二九、病めば蒲團のそと冬海の青きを覺え(絶句、二句)
※最後の二句は一碧楼が息を引き取る二週間ほど前に海紅社句会に出句された絶句とされる句。この句には死が冬海のように寒々と茫々と一碧楼に迫ってきている。その青さを悟ることは、間もなく来る冬海に身を投じる覚悟を決めた思いである。

三〇、魴鮄一ぴきの顔と向きあひてまとも
※「魴鮄」単に魚を意味するのか。海紅には昔から同人を動物や物に例える「○○見立て」があった。これも「魚見立て」の一つで一碧楼夫人たづ子は魴鮄に例えられていたという話がある。ただしこれは「海紅伝説」の一つであるかもしれない。そうだとしても、この句は一碧楼最後の句である。二人で駆け落ちまでしてこの東京へ出てきた時から今日まで、七難八苦を乗り越えて来た間柄である。死を前にして、たづ子を思わぬはずはないと思うのである。        〈了〉

 選句および句評に当たって田中耕司、平林吉明、石川聡、梶原由紀の四氏に協力を頂いたことにお礼を申し上げます。

「一碧楼三十句選」を読んで    大西 節
  橋をよろこんで渡つてしまふ秋の日
 長い霞橋《かすみばし》をやっと渡ると葡萄棚の続く丘、玉島である。高梁川の河口は広く河川敷には運動場、ゴルフ練習場等が次々出来、昭和四、五十年頃より賑わっていた。
 関東大震災に遭った夫妻は、ふる里玉島へ中塚家に晴れて許され迎え入れられた。その時のあふれる気持ち良くわかります。実家近く港町に三年間「玉島海紅」誌を発行させた。
 近郷近在の若者たちまた四国からも新傾向俳句に魅せられた人達が教えを乞う。西平先生も児島から自転車を走らせた。昼夜となく訪れる若者たちを誰彼となく、出来る限りのもてなしで夫人は迎えた。その態度に皆様感心した。先生死後も東京同人、全国各地同人、発行、編集に協力、援助を惜しまなかった。夫人の人柄である。俳句の素養は昔からのもので、その後皆様のそばで培ったようです。昔話を矢車草氏は良く話された。

  山一つ山二つ三つ夏空
 鴨方から寄島へ行く道程、車で行く道は昼なお暗い雑木、松の木々におおわれた山みち。峠を二つ三つ、いやもっと越えると寄島三郎島をのぞむ安倉八幡へ着く。砂浜が続く砂上の建物、俳句会場に着いた。水島灘に点在する笠岡諸島、空と海の青がひとつに成る。そんな所を一碧楼は詠っていた。この句碑の建つ円通寺。よく選ばれた地と考える。
 昔は塩田が広がり汐干狩りが盛んだった。今も大潮には児島から貝掘りに行く。牡蠣養殖場が沖まで続く。昭和四十三年明王院俳三昧では翌早朝に矢車草氏は寄島漁連で魚介を仕入れ、トロ箱にいくつも満載して全国の俳句人たちに料理して振る舞った。秋田草薙様、浅利美知代さまも遙々参加して喜んでいただいた遠い懐かしい思い出です。
 備中俳句会、赤壺詩社は行動をともにして全国の同人たちをよく迎えました。今は誰もいなくなった赤壺詩社は同人も少しずつ増えております。創立百年を迎えようとしています。繋いでいきたいものです。