6月号句評-4月号より
森 命選
我拝師山拾身ヶ岳仰ぐ荒涼 大西 節
四国八十八ヶ所七十三番札所を詠まれた句。この寺はお大師様生誕の地とも近く、作者も何度も参拝されたのでしょう。「荒涼」はお大師様幼少の頃の伝説を表していると読めます。巡礼の地で生まれ、そこに住まわれた作者ならばこその一句。
かつて、同人黒沢さちさんが四度に渡って巡礼された句や巡礼記を思い出しました。
日がな一日数える物も無く 加藤 晴正
「日がな一日」「無く」と読んで自分自身を現しているのですが、「一日」「無く」と無に近い表現をして成立させたはずの句に「も」は一考も二考もあります。「も」は複数を言うものであり、せっかくの一句がふくらんでしまいます。「も」が悪いというのではなく、この句の場合には言い切るべきと思います。
我家の裏金ヘソクリは可愛いものだ 河合 さち
世間をさわがせた政界の裏金事件も、作者にかかればこのとおり。ホトボリのさめた頃再発するこの手の事件に庶民はいかりすら忘れてしまったようです。国家にかかわる裏金も我家のヘソクリも始まりは大同小異。でもその可愛さは天と地の開き。
鉛筆握り頭かかえるのもうれし 千田 光子
同人皆様には同感されるものがあるのでは。しかし、苦作とは一味違う感がします。発句から推敲に入っている作者と思います。推敲とは楽しいもので二フレーズ句なら上下を替えてみるとか、助詞はいるのかとか、説明しすぎていないか等々色々考え、時には元にもどる事もあります。
海紅という発表の場がある事、句が好きな事、作者は幸せな今を生きていて「うれし」という結句に到っています。
お雛様絵手紙にして目鼻小さく 中村 加代
絵手紙は作者の趣味で得意中の得意。絵は本格派。筆跡も書家顔負けのもの。いただいた方は捨てられない。
趣味は何でもその道の奥を深めます。芸は身を助けるとはよく言ったものです。
この句、おひな様も色々な姿で画いておられ結局「目鼻小さく」になったのだろうと思います。
一人鍋ぎゅっとかぼすひとしぼり 大内 愛子
「ぎゅっと」の位置がいいですね。文と句の違いを見せています。「かぼすぎゅっと」では文です。推敲の妙を見ました、作者の精進がうかがえます。「一人鍋」がそんなに寂しくみえません。墓じまいをされた後でしょうか。
きりたんぽ鍋煮えたところへセリの青 上塚 功子
テンポの良い句で作者のみならず回りの人の笑顔も連れて来ます。生活の中のほんのワンカットなのですが、これが句にできることが醍醐味なのです。写実の中で「煮えたところへセリの青」には動作があり感情があり句中の人物だけでなく読み手もそのシーンに引き込みます。この仕立方は見事です。この下句に対し「きりたんぽ」という特別な料理が相乗しています。ここまで昇華させれば作者大満足でしょう。
十年前に書いた遺書いやに丁寧な字である 松田 寛生
十年前に遺書を書いていたとは。作者のお年が垣間見えて笑みがこぼれます。その時と現在の自分の考えに大きな相違があったのでしょうか。過去も現在も自分は自分、この十年間を生きた事によって作者は多くのものを得たのです。果たして作者は今再びどのような遺書を書いたのでしょうか。
ラーメンの聖地とか山ラーの幟のオレンジ 若木 はるか
目の前にあったものに素直に感情を託しています。それがちょうど良い感じの感動になっており好感が持てます。読み手にもその風景を伝えるには充分です。「ラーメン」「山ラー」「オレンジ」のカタカナが、作りあげたものでなく心地よい風を感じさせます。ラーメンの味と同じく、ちょうど美味しく仕上がっています。
「とか」はこの句では一拍あって効果をあげています。
若木 はるか選
かなしみの極地に立つかなしみくんはきっと全盲 岩渕 幸弘
何があったのか、悲しみの極地に立っていると言う作者。ここまでは主観、下句は客観的考察に切り替わります。悲しみのあまりこんなにまわりが見えなくなるのなら、かなしみというものはきっと全盲なのだろう、と。「かなしみくん」とくん付けして、自分から悲しみを切り離し、擬人化する、その境地に至るしかないくらい、かなしみは深いのでしょう。この客観化によってかろうじて自分を守っているようにも思えて、同時に「くん」のあたたかさに救われます。
おしゃべり利き手の錆びていく 大川 崇譜
何か作業中だったのか、おしゃべりしているうちに手が止まってしまって…という状況を思い浮かべました。利き手が錆びるという表現が面白いですね。
母国語のようにしみたはんぺん待っている 〃
の句も「母国語のように」という喩えが秀逸で面白い。
ゆどうふふふふふふびどうしててまよ 石川 聡
「ふふふふふふ」と「してて」がそのまま微動する湯豆腐の様子をあらわすという仕掛け。「まよ」は真夜でしょう。同時に「手間よ」が隠されているのかもしれない。
ロダンの考える人孤独の背に降るイチョウ 上塚 功子
孤独に俯く考える人、その背に絶え間なく降る黄金のイチョウという対比が効いています。孤独に見えて、実は孤独ではないのだ、気づかないだけで。イチョウの映像がとても鮮やかで豪奢。
娘三人分のアルバムこの家冬陽さす 森 命
冬陽のあたたかさが伝わってきます。この家のたどってきた幸せにしみじみあたためられますね。
角曲がれば吹きっさらしの道わかっている 原 鈴子
それしか道がないならそれが私 〃 覚悟がそのまま句になっています。こういう句は覚悟を持ったその時にしか詠めない。そうでなければ嘘になるから。そういう意味で唯一無二で記憶に残ります。
山茶花の川面にひとひら流れゆく 三戸英昭
七句すべて山茶花をモチーフに詠んでいますが、この最後の句が一番良いと思います。推敲を繰り返した末にたどりついたものだからでしょう。この姿勢はガッツがあります。そこで次は、試行錯誤した中から、ぜひ一番良い一句を選んで出して欲しい。選ぶ基準をどうするかを鍛えていくとおのずと良い句につながると思います。せっかく七句出せるのですから、できれば選び抜いたものを七句、出せるようになって欲しいと思います。
もうひとつ、たぶん一句を考えるとき、作者は五七五で言葉が出てくるタイプなのではないかと思います。五七五のリズムは非常に強力です。五七五という型に当てはめると、新しい視点や単語が引き出されてきたり、言いたいことがそれなりに形になる感覚があると思いますが、「型」は月並、陳腐に陥りやすいという欠点をもはらんでいます。五七五に支配されているままではもったいない。自由律俳句の醍醐味は自分でリズム(律)を刻むことです。五七五でもこれは自由律俳句だな、と思わせる句を詠むのは、実は高等テクニックで、ハードルが高いことなのです。
ではどうするか?五七五で発想したものを、そのままではなく、崩してみてください。例えばこの句なら
さざんかひとひら流れゆく川のおもて
にすると4/4/5/6のリズムになります。(さらに一単語ごとに漢字にするかひらがな、あるいはカタカナにするかも検討してください。)五七五で発想することそのものをやめて単語や短文のメモから作っていくやりかたもあるでしょう。
あとは、モチーフ選びについて。ありがちなモチーフを選ばない、または、ありがちなモチーフなら切り口をありがちにしない工夫が必要になります。自由律俳句は定型ではできないことをやろうとするところから始まっています。新しいもの、今までに見たことがないものを求めるジャンルであるとも言えるでしょう。対象をよく観察して、自分の内側から出てくる気付きや感覚を大切に拾って形にしてください。
以上、自由律俳句に挑戦しはじめた方にエールを送る気持ちで思いつく方策を書きました。期待しています。
7月号句評-5月号より
原 鈴子選
てのひらに仏木彫りの仏 森 直弥
手のひらにのるほどの小さな仏をいとおしく大切にしているのがわかります。自分の守り仏というのでしょうか。昔の人は肌身につけていたようです。手のひらの仏も、たぶんそのような仏なのでしょう。信仰心の薄くなったこの頃、心の拠り所として仏像を持つことは大切に思えます。「仏」を二つ使っていることで分かります。
挿した菜の花にミツバチ来る彼岸 森 命
菜の花の咲くころにはミツバチの行動も活発になってきているのでしょう。それにしてもお墓の花立にまで元気のいいミツバチは蜜を探して来たのですね。
勝手にお墓参りと思ってしまいましたが、彼岸なのできっとそうだと思います。ミツバチもいっしょにお参りしてくれたように感じたのだと思います。
穏やかな気持ちが感じさせてくれること、何でもないような光景がいろいろ想像させてくれます。以前玉島福寿院での一碧楼の墓参の時の様子を思い出します。
哀しいとか寂しいとか沈丁花ぶつぶつ 吉川 通子
哀しければ、ぶつぶつ、寂しくてもぶつぶつ、そのように、ぶつぶつ言うことで自分の中に溜まっているものを消化しているのでしょう。人に対してぶつけているわけではないのです。自分のことを客観的に見ていて、心に収めているのがわかります。どうにもできない哀しさや寂しさ、沈丁花の強い香りが表しているようです。 沈丁花はいい匂いですが、近くにずっといると人を迷わすような魅惑的な強さを持っている冬の花です。
馬酔木ふくらむたくさんの夢の音 若木はるか
馬酔木の花、春先に夢のように咲く好きな花の一つです。初めて見たのは小学生の頃山の雑木に紛れてまさにゆめのような花でした。当然名前など知る由もなく、そのうち花の名を知り漢字を知り毒を持つ花であることも知り、それでも惹かれた花木です。万葉集にもたくさん詠まれています。ベルのような小さな花の塊はたくさんの夢のようで、句のとおり、カサカサ音も聴こえるかもしれません。句にするのに「馬酔木」が先か「春の夢」が先か、ちょっと興味があります。
くそばばあになる野望まだ捨ててない 安達千栄子
笑えました。ずいぶん昔「いじわる婆さん?」だったかテレビ番組があり、いじわるであるが、憎めないお婆さんの面白い話でした。
もう「お婆さん」ですが「くそばばあ」ではないですね。言いたい放題を言って、好き勝手に生きて、いたずらを思い切りやったら「くそばばあ」の野望が叶うかもしれませんね。
正直が人刺す 霙(みぞれ) 石川 聡
先の句のさかさま、似て非なる句。ものごとを正直に言うこと、ストレートすぎる言葉は人を傷つけることがあります。いくら正論でもそれは人を刺します。そこに少しの逃げ道もないようならなおさらです。霙の冷たさが沁みます。霙をしのげるほどの思いやりは必要でしょう。人の生き方を考えさせられる句です。
ちぎれちぎれて雲青い空へ吸われ 伊藤 三枝
ちぎれ雲からいつのまにか青空に変わっていったさまを空へ吸われと表現しているのが発見と思います。そういうふうに感じられた感性がすばらしいと思います。小さいことを言えば「空へ」でなく「空に」のほうが適切かと思うのですが、作者に任せます。助詞の使い方は難しいです。
父さん前だっこ子はすやすや 大内 愛子
そのままと言えばそのまま。最近のお父さんは育児に協力的でほほえましいです。最近では珍しくもなくなったが、力のあるお父さんにだっこをお願いするのは理にかなっています。子も安定してすやすやなのでしょう。情景と情感、物事を斜めに見てみるのもいいかもしれません。
春は特急の羽やすめ 大川 崇譜
特急の羽やすめ、どんなふうに解釈しよう、面白い表現です。特急が止まって出かけたいのに出られないのですか。言葉として「羽やすめ」やさしいですね。
石川 聡選
今回は五月号の作品から、海紅を離れる方の作品を中心に読んでみる。
喪服着た野鳩が一羽春の朝 空心菜
野鳩を喪服に見立てた所が面白い。野鳩はよく見れば複雑な体色を持っている。のどかな春の朝陽の逆光による黒いシルエットだったのかもしれない。春の朝の長閑な空気に喪服の黒の不穏さが取り合わせとして置かれる。のどかさと不穏さの対比にハッとさせられ、掲句中の鳩のイメージに集中させられ引き込まれる。
坐る場所決めるきつかけ桃の花 空心菜
春の気配が駘蕩としている。桃の花の一番よく見える場所で坐る場所を決めるという風流。心持のよい句である。坐った場所を起点とした視線がさだまり、読者の脳内で桃の花が鮮やかに再生される。掲句は桃の花の様を何一つ具体的に描かないことで、読者が自由に桃の花を想像できるよう計算している。モノや植物、動物などに心象を託した繊細な佳句が多い作家だが、今後この作を味わえないのが残念だ。
合掌辛夷さいしょのひとつ割れた 若木はるか
掲句は単なる写生ではなく時間を詠んでいる。辛夷の蕾が咲く直前まで膨らんでくると、まるく合掌した形になる。作者は最初のひとつが咲くのを心待ちに毎日のように観察していたのだろう。最初の一輪をみた嬉しさを合掌の語に重ねている。心持ちのよい句だ。
はるかは聡の実妹。1999年に初投稿、2024年まで投稿した。約25年である。句のスタイルの変遷もあっただろうが、近年は自然や植物に自分の心を投影しナチュラルに詠みあげるのが氏の一つの方向性だった。清澄な句が多く、この作風も味わえなくなる。
玉葱の種あかし月のしずくをしずかにのぼる 岩渕 幸弘
玉葱を剥いても何も残らない事を詠む句は結構頻繁に見かけるので既視感がつよい。掲句は玉葱が種あかしをするという点でまずハッとする。取り合わせの段落として「月のしずくをしずかにしぼる」が来る。玉葱の段落と月の雫の段落の文脈的関連は何もない。だが月の雫を月光ととれば、玉葱の無垢な白と月の白が繊細に繋がる。イメージの共通項は見事に結ばれ、言語化し難い詩情を醸している。新しい表現をどんどん開拓している作家といえるだろう。
河東碧梧桐の直系である俳人十中花の直弟子だった耕司さんが海紅を去られた。いまだに大きな穴が空いたようである。そして、梶原由紀、笠原マヒト、大迫秀雪、さいとうこう、空芯菜、若木はるかの各氏がつぎつぎと海紅を離れていった。方々は句評や選句の係を受け持っていたし、誌の読み物(例えばハバタキ欄での時評、研究の記事、新春譜など)の中核を支えた。また俳句もそれぞれが作家としての独自の色をもち、毎回味わい深く素晴らしい作品を詠まれていた。五月号の投稿欄は二十七名だったが、次回からは単純計算で二十三名となってしまう。聡が1998年に入会したころはすくなくとも今の数倍の会員がいたように思う。海紅の痩せ細りようは、どうしようもなく寂しいばかりである。
こうなることはわかりきっていた 平林 吉明
「こうなること」とは一体どうなることであろうか。何を「わかりきっていた」のだろうか。掲句は具体的な事を一切語らない。余白の読みは読者に任されている。吉明さんは、一碧樓の句を最もわかる弟子といわれた山崎多加士の薫陶を受け、海紅直系の技巧を受け継いだ生粋の海紅俳人だ。そんな吉明さんも海紅を去られた。もう、答えは聞けない。