3月号句評-2月号より 加藤 晴正選
昼は鰻だこころがスキップしてる 安達 千栄子
鰻、おいしいですよね。「こころがスキップしてる」のは、なかなか思いつきません。わくわくが手に取るように分かります。素直な感情にほっこりしました。
お蔭様にくらし味噌汁の湯気 伊藤 三枝
元旦に大きなニュースが飛び込んできました。能登半島地震です。日常が崩れてしまう大惨事。日々何事もなく暮らせる有難さ。それを作者は、「お蔭様」といいます。湯気の立つ味噌汁を飲める毎日が、安心して暮らしている証拠なのです。
ガスヒーター出す冬の打率あげていく 大川 崇譜
不思議なイメージです。「冬の打率」とは? 暖かな室内で過ごす暮らしやすさでしょうか。いずれであってもここで「打率」とは凄い表現です。通り過ぎることが出来ない句でした。
大根どーんと一本買いそりゃぁおでんでしょう 上塚 功子
今日は、おでん、と決意しましたね。ユーモラスで、ほのぼのする一場面です。「どーんと」「そりゃぁ」に勢いを感じます。おでんは、お得意料理のひとつなんでしょうね。
母さんは初枝と言って痩せていた 空心菜
淡々としていますが、お母様への愛情が伝わってきます。「母さんは」と、しみじみ語る表現。「痩せていた」で、余韻が残ります。
落ち葉掃く振り返れば又ひらひら遊ぶ子ら 小籔 幸子
落ち葉を掃く作者。振り返れば子供たちが落ち葉で遊んでいる。「ひらひら」という言葉に、ふわっとしたリズムを感じます。「振り返る」で動きを出したところにも惹かれました。
誰のせいでもない戦争の動画見ている 杉本 由紀子
戦争で傷つく人々。私たちは動画でそれを知ります。
ユーチューブなどの動画サイトで繰り返し流れる惨禍。
それを見る私たちの多くは傍観者であることを強いられるでしょう。やるせなさを感じさせる一句になりました。
老犬にジーッと見つめられている急に冬 高橋 毅
長い間一緒に暮らしてきた愛犬が、不意にジーッと見つめてくる。なんだか、たじろぐというか。老いる悲しみもあって。「急に冬」という転回が、句にユーモアだけでない深みを加えています。
大人も子供も皆上向き航空ショー 中村 加代
そうですよね。航空ショーでは皆、上を向きます。確かにそうなんですが、不思議な情景ともいえます。上を向くのは、日常から少し離れてるような気がするからです。会場には大きな音が響いてるでしょうが、句の中は無音です。「航空ショー」という言葉に、懐かしい響きを感じました。
当たり前のようにあなたの言い分 原 鈴子
ちょっと心外なのでしょうか。「当たり前のように」言わないで欲しい。わたしにも言い分はあると。少しの緊張感。
秋の下書き少しの事実と作り話 平林 吉明
作者は、季節の変わり目に身の周りを見直しています。事実ばかりでなく、実感を伴わないこともあるでしょう。「事実」と「作り話」の対比が、諦観を表すとも思えました。
体に良さそうで不味いお菓子だった 無 一
この句もユーモアたっぷりですね。けれど、表していることは深い。良いように見えて、実は、不誠実。そんなこと、たくさんあるのでは、と言っているようです。
山茶花さざんか想い出はちょっとだけ苦い 若木はるか
「山茶花さざんか」と、漢字、ひらがなで書かれているリズムの軽快さ。そこで切れて、作者のこころの中に入ってゆく。「ちょっとだけ苦い」想い出は、誰にでもあります。忘れようとするのではなく、たまに思い返すのも良いかもしれないと思いました。
平林 吉明選
俳句という最も短い詩型の中で、いかに多くの思いを込められるかという点に於いて、一物仕立ての表現ではなく、俳句の醍醐味でもある突然飛躍する言葉をどのように使い、イメージを喚起することにより、一句にどのような衝撃が生まれ、どのような拡がりを見せるか、というところに注目してみました。
白い春 あがり症でもいいですか 岩渕 幸弘
作者にとって「白い春」のイメージとは一体どのようなものなのか、答えはそれぞれの読み手に委ねられているようですが、想像してみると霞のかかったような美しい風景と共に曖昧模糊とした不安を抱える若者の悩みや、やりきれない思いが浮かんでまいります。
作者の抱えている「あがり症」というコンプレックスの内気で繊細な心細さと「白い春」が妙に響き合っていて、痛々しい内面が露呈しているかのように思います。
理由はない菊は一面自由律 森 命
「菊は一面自由律」は素晴らしい発見です。それだけで一句として成立していますが、ただただ咲き誇る一面の菊は広々とした華麗な景で、言葉に代えがたい美しさがあります。それを一言「自由律」と言い切ったところに作者の自由律俳句に対する思い入れが窺がわれます。
うしろすがたの消費期限か 石川 聡
この句は山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」がベースにあると読めます。「しぐれてゆくか」に対して「消費期限か」が今日的でパロディーを超え、ウイットに富んだ川柳的味わいがあります。既に高齢者の仲間入りをし、新鮮な感動も無くなり、ただ生きているだけの私のうしろ姿の事かと身につまされました。
ガスヒーター出す冬の打率あげていく 大川 崇譜
「冬の打率」の発想の面白さに惹かれました。寒さも徐々に厳しくなり、真冬日になる確立も高くなってまいります。そうなれば仕事場にガスヒーターを引っ張り出し、暖かくして納得が出来るまで、頑張って良い仕事をしようと気を引き締めているような、前向きに冬に立ち向かう作者の意気込みが感じられます。
友達の満月を見る村祭り 空心菜
「友達の満月」とは満月を友達のように思っているのか、満月をこよなく愛している友達の事を思って、満月を見上げているのか、村祭りの晩には満月でも眺めて友達へ思いを馳せる。田舎でも都会でもない近郊農家の近頃の村祭りのありさまを思い浮かべました。
満月も笑ったお菓子泥棒 杉本由紀子
「満月」は由紀子おばあさんのことでしょうか、それとも十五夜お月さまでしょうか、お孫さんたちは満月が見ていることにも気が付かず、こっそりお菓子を掠めてゆく、「お菓子泥棒」はかわいらしいメルヘンです。
枯葉吹き飛ばし冬の抵当権を得る 中塚 唯人
「抵当権」という無機質な民法の用語を句の中に取り入れる事により意外な飛躍が生まれます。些末なことには意も関せず、元気に突き進んで行こうとする作者の思いなのか、「冬の抵当権」が困難にも負けず、明日が今日よりも良くなることを信じて逞しく生きようとする気概にも思いました。
病室から鳥の目になる草紅葉 原 鈴子
「鳥の目になる」行動の自由を奪われてはじめて、想いは鳥の目となって大空を自由にハバタキます。病室の眼下に広がる草原は見渡す限り鮮やかな色彩の絨毯となって広がっています。「草紅葉」の一言で止めたことでスッキリとした句になっています。
胃の中の十字架に雪降り積もる 松田 慶一
「十字架に雪降り積もる」どこか宗教的で神聖な思いを感じますが、「胃の中の」とは現実です。白い粉雪は胃薬のことでしょうか、そうなると「胃の中の十字架」とは胃に出来たポリープか潰瘍かそれとも癌なのか、このように飛躍させる事により、病の苦しさと闘おうとしている作者の祈りにも思えます。
四月号句評―二月号作品より
石川 聡 選
一匹の蠅がまだ出て行かない 平林 吉明
写生句として本当の蠅でもよいのですが、作中主体の頭の中から強迫観念じみた考えがなかなか去らない状態と読んでも面白そうです。「一匹の蠅」なので一つの考えがしつこく付きまとってくる厄介さが伝わってきます。情報を巧く抑制すると句の読みに方向性を与えながらも幅を持たせることができるという好例だと感じます。
春に死ぬこと春はやさしい 岩渕 幸弘
春はすべての命が萌え出る季節。その春に死ぬ。真逆の対比にドキッとします。それでも春は黙って受け入れるのでしょう。春を二回使いながらも、助詞を「に」「は」と使い分けることによって奥行きのある詩の余白を生み出しているところに注目させられます。
母国語のようにしみたはんぺん待っている 大川 崇譜
おでんのしみ具合を色や味に関連する語彙で詠む句はたくさん目にします。ですが母国語という言語に関する語彙で喩えた句は初めてで新鮮です。母国語は一生しみるわけですからねぇ。すごくしみているのでしょうね。はんぺんという、一番上に浮く具材を選んでいるところも視覚効果を巧く使っていますね。
困り顔のこの弱っちい陽光 加藤 晴正
冬の低い角度の、力を持たない陽射し。それを「困り顔」と言い取ったところに作者独自の感性と魅力を感じます。「この弱っちい」にやや内向的な詩情を感じ、作中主体自身の感情にも寄せて読めるよう読者を誘導してくる巧みさに惹かれます。
若者の派手な作業着十二月 空 心 菜
最近の作業着、ユニフォームは目覚ましい発展をしていて防風、防寒、防水、遮光(日焼け防止)、通気性、排熱性と機能の充実は勿論、街着として通用する程お洒落なものも出ています。メーカーとしてはワークマンなどが話題ですね。作者は人も世の中の流れも鋭く観察しているなぁと
想いました。
森 命 選
煎餅食べながら戦火のガザを見ている 安達千栄子
ウクライナと言いガザと言い能登の大震災と言いマスコミを通じて私たちは悲惨を目にしています。「煎餅食べながら」と言っても他人ごととは思ってはいません。人とは残酷なモノではなく無力なものです。作者もこの矛盾を句にされたのだろうと思えます。それが作者の慈悲のこころであり俳人であるからだと思います。
掃く人のかたちいつまでも無心 加藤 晴正
私が掃除嫌いだったのは小、中学生の頃。いつの頃からか、掃く事がいやでなくなり心地よい作業になりました。昨今、菷の出番は土間か屋外での使用となり家の中ではもっぱら掃除機が活躍します。
この句は落ち葉を掃く人と見ました。「寒山拾得」の例えもあり良寛の句にもある掃くことは無心に通ずるところがあるらしいです。この句で掃く人の「かたち」というのがなんとも絶妙です。
毎朝気になる高木の取り残しの柿 小籔 幸子
雪の多い北国では冬の鳥に柿の実を残しておいてやる木守り柿なる風景があります。貴重な食べ物であった柿ですが、昨今食料事情が大きく変わり、自家の柿を取らない人も随分あります。作者はまだ高い所に残っている柿の実が気にかかります。柿に限らずもったいないという気持ちが伝わります。そして、もう少し若かったら取れていたのにというコミカルな一面も読みとれます。
三十年ぶりに友お互い娘付きです天神秋の光 清水 伸子
おもしろく読ませてもらいました。「三十年ぶり」がこの句の中心ですね。「三十年」がなければ「娘付き」の意が、小さな娘を連れて来た母になりますが、この「三十年ぶり」があって、娘に気づかわれている母になります。前者なら春の光が似合い、後者は秋の光が似合います。
「天神」も説明でなく、此処で会うのだと言う強い表現を意味しています。
こんなに星が多かったのか今夜新月 中村 加代
旅行吟だと思います。地名や特産を入れずに仕上がっているのが読み手に新鮮さをくれます。毎夜見ている夜空では新月といえど、この感嘆は詠めません。市民生活のできる町では星を随分失ないました。私も何十年か前、霧ヶ峰で夜空を見上げた時、感動したものです。漆黒の闇というのは、もう生活の回りにはなくなりました。
角曲がれば吹きっさらしの道わかっている 原 鈴子
気っ風の良い、歯切れの良い句。これ以上に作者自身を言い切っている句はないでしょう。句評など吹き飛ぶくらいの作者の覚悟と人格がぶつかってきます。
それしか道がないならそれが私 〃
と、清々しく響いて答えを出しています。敬意を表せずにはいられません。
閉じた店の貼り紙はがされている 平林 吉明
西部劇のゴーストタウンのようでカッコいいと思う反面むつかしい。「はがされている」とあるから、時の経過によりはがされたのか、それとも誰かにはがされたのか選択するよう突きつけられている気がする。それによってこの句を読み切れるから。そこまで考える事はないと言われるかも知れないが、それがおもしろくて何度も読み返したり他の句から何かを見つけようとするのだからこの句は
やっぱり楽しい。
小雪降るなか自転車トボトボこんな東京 吉川 通子
東京がよく似合う人が「こんな東京」と言う。雪に不馴れな東京だから少し雪が降れば生活に影響が出るのですね。しかし雪中には強いはずの作者ですからユーモラスを感じてよいのでしょう。「トボトボ」の擬態語がピッタリとはまっています。後の四句は、昭和の時代に地方の人が憧れたルート246等、東京自慢の句でこの一句は濃い味わいでした。
紅葉の山の奥は雪の山 若木はるか
詠み手がわからない場合と詠み手がわかっている場合によって味わい方が違う事があります。ご当地は月山と言う早く冬の来る名山をお持ちですから、それを屏風にしてみればこの句の情景は一汐です。それはまた紅葉も綺麗だという事になります。十数年前十月初めに行って霧と風と霙で途中の飲食店迄で断念した思い出が浮かびました。
若木 はるか選
かなしみの極地に立つかなしみくんはきっと全盲 岩渕 幸弘
何があったのか、悲しみの極地に作者は立っていると
言います。ここまでは主観、下句は客観的考察に切り替わります。悲しみのあまりこんなにまわりが見えなくなるのなら、かなしみというものはきっと全盲なのだろうと。「かなしみくん」とくん付けしているのが、自分から悲
しみを切り離して擬人化して見つめているようで、その境地に至るしかなかったかなしみの深さを思う。この客観性によってかろうじて自分を守っているようにも思える。同時に「くん」のあたたかさに救われる。
おしゃべり利き手の錆びていく 大川 崇譜
何か作業中だったのだろうか、おしゃべりしているうち
に、手が止まってしまって…という状況を思い浮かべた。利き手が錆びるという表現が面白い。
母国語のようにしみたはんぺん待っている 〃
の句も面白かった。「母国語のように」という喩えが秀逸
と思いました。
ゆどうふふふふふふびどうしててまよ 石川 聡
「ふふふふふふ」と「してて」がそのまま微動する湯豆腐の様子をあらわすという仕掛け。「まよ」は真夜だろう。同時に「手間よ」が隠されているのかもしれない。
ロダンの考える人孤独の背に降るイチョウ 上塚 功子
これは映像が鮮やかに浮かぶ一句。孤独に俯く考える人、その背に絶え間なく降る黄金のイチョウという対比がとても良いと思う。孤独に見えて、実は孤独ではないのだ。気づかないだけで。イチョウの映像がとても鮮やかで豪華なイメージ。
小春日続く水仙すっくと夜の隅 中村 加代
咲きはじめたツバキ全身でひかりつかむ 原 鈴子
まだいた冬の蝶のそこは日だまり 〃
角曲がれば吹きっさらしの道わかっている 〃
それしか道がないならそれが私 〃
朽ちてなお鳥居 松田 寛生
足跡一人の雪野原 〃
山茶花の川面にひとひら流れゆく 三戸 英昭
七句すべて山茶花をモチーフに詠んでいますが、この最後の句が一番良いと思います。推敲、試行錯誤を繰り返すこの姿勢は買うべきものと思います。ガッツがあります。
そこで次は、ぜひ一番良い一句を選んで出す、ということをして欲しい。どれが良いのか、選ぶ基準はどうなのか、そういうところを鍛えていくと良いと思います。海紅同人の皆さんも多かれ少なかれ、一つのモチーフを見つけたら、いろいろなパターンを考えて、その中から選ぶという作業をしているはず。そうして、選んだ一句を提出しています。せっかく七句出せるのですから、狙い澄ました、選び抜いたものを七句、出してください。
もうひとつ、たぶん一句を考えるとき、575で言葉が出てくるタイプなのだろうと思いますが、そうして出てきたものをそのままではなく、崩してみてください。例えばこの句なら
さざんかひとひら流れゆく川のおもて
にすると4/4/5/6のリズムになります。さらに一単語ごとに漢字にするかひらがな(あるいはカタカナ)にするかも検討してください。
575のリズムは非常に強力です。575という型に当てはめるとそれなりに言いたいことがかたちになる感覚があると思いますが、「型」は月並、陳腐に陥りやすいと
いう欠点をもはらんでいます。575に支配されているままではもったいない。自由律俳句の醍醐味は自分でリズム(律)を刻むことです。575でもこれは自由律俳句だな、と思わせる句を詠むのは、実は高等テクニックで、ハードルが高いことなのです。
あとは、モチーフ選びについて。ありがちなモチーフを選ばない、または、ありがちなモチーフなら切り口をありがちにしないことです。対象をよく観察して、自分の内側から出てくる気付きや感覚を拾って形にしてください。
期待しています。
底冷えする真っ暗な海にぽつんと漂っている 無 一
娘三人分のアルバムこの家冬陽さす 森 命
赤い実がいっぱい少女の進路決まり来る 〃
冬陽のあたたかさが伝わってきます。この家のたどってきた幸せにしみじみあたためられますね。
五月号―三月号作品より
中塚 唯人 選
今月は復活海紅ネット句会「俳三昧」の句を取り上げてみる。初回という事もあり、地方で一人で句作に励んでいる人や、海紅に入って比較的日の浅い人を選んで声を掛けてみた。そこに古くからの同人を交え自由で心開いた新旧忌憚のない句評をお願いした。初めてのことであり、まだ様子見の感もあるが、こういう機会を得て先輩達は自己の自由律俳句を築いていったのであり、人の句を読む、人の評を聞くこの交互の切磋琢磨が海紅俳句を発展させていったことを踏まえ新境地を目指していただきたい。
日輪に手を伸ばす、朽ちていく私 寛 生
手を伸ばす。「、」は、要らないかなという評が多かった句。
形は出来上がっているのでここを省略していけるようになるべく努力していったらいいと思います。
妻叫ぶ「髪切り過ぎた」と乙女顔 英 昭
乙女の顔をして叫んでいる奥様が可愛らしいです。句材は特別に探さなくてもどこにでもあります。力の抜けた愛情籠もるいい句ですね。
雨空と青空の距離を歩いている 晴 正
スケールの大きな題材で魅力的な句ですが、少し未消化なところが残念です。作者も意味が読み取れて情緒豊かな句を目指したいと言っているので期待大です。
梅でも桜でもどっちでもいいよねメジロ 幸 三
メジロにとってはどちらでもいいよと、ちょこちょこ木の枝をただ動きまわっているようです。そんなことを思いながら梅を愛でている作者の余裕がいいですねえ。
クリスマスローズよ俯くなお天道様は空にあり 唯 人
私の句ですが、クリスマスローズの花はいつも下を向いて、それも永いこと咲きます。そこで励ましてみたのです。「なお」と続けて読まれるのも紛らわしいので『クリマスズローズよ顔上げろお天道様は空にあり』にします。
薄っすら雪よごれてゆく優しい嘘 吉 明
「優しい嘘」が誘います。雪が汚れていくのは切ないとか、薄く積もる雪が『優しい嘘』で社会の汚さを隠してくれるがその雪さえも汚れてゆく、とも読まれています。
そして偽善者の嘘は汚れてゆく雪だと作者は言っています。読み手に委ねられる句は難しいです。
障子に破れありお雛様の覗き窓 森 命
見立てもよろしいし、ユーモアもあって自由律俳句らしい句です。さすがベテラン、この辺はお茶の子さいさいと言ったところでしょう。
如月に 山いぶきだす 鳥の声 史 郎
五七五で作った句なのか結果的にそうなったのかは分かりませんが、一字開けは特別に意識してつくったものではないそうです。ただ名詞止めすると動きがなくなるので、『鳥の声』を前に持ってくると、それにつられて山がいぶきだすようになると思います。
次回も皆さんでもっともっと意見を出し、楽しくやりましょう。
杉本 由紀子 選
しばらくぶり姉は同じキッチンスポンジ 大川 崇譜
微笑ましい句ですね。久しぶりにお姉様のお宅に行かれたのでしょう。そして楽しい会話もありお台所に行ったら、キッチンスポンジがいつも自分が使われてのと同じだった。姉妹の絆のようなものを感じます。そのスポンジはピンクでしょうか?
風になびく芒の穂フラダンス 原 鈴子
芒の穂は冬の間、ずっとその場所にあります。最初は勢いもまだある穂ですが、だんだん乾燥してきてフワフワになってもずっとその場所にあります。何故かそれが、ずうっと気になって何か良い表現がないかと探していました。フラダンスという表現がぴったりだなと感じます。
作者の気付きに驚かされたと同時に嬉しくなりました。
考え事をして雪の終着駅 松田 寛生
考え事をして電車に乗られていて気がついたら、終着駅に着いていた。歌の歌詞のようですね。終着駅という響きだけで、とても遠くて寂しい気持ちになりますが、そこには雪も降っていたらなおさらです。作者の心情も強く感じます。心象風景としても良い句だと思います。
哀しい顔だったかどこかの子犬が寄ってくる 吉川 通子
作者に何かしら哀しいと思う出来事が、あったのでしょうか? 犬は不思議です。人の心を読んでしまうようなことがあります。私の飼い犬は、私が哀しい時や何か辛い時に「どうしたの? 何かあったの?」という風に寄って来て顔を覗いてきます。
どこかの子犬だから偶然、道で出会ったのでしようが、きっと子犬が作者の優しさに近づいてきたのかもしれません。興味深い句でした。
もったいないこと捨てられないことあなたを縫いとめる針
若木はるか
もったいないと捨てられないで生きている人は沢山いるでしょう。そしてここで作者もそうであるのだなと共感を覚えました。断捨離という言葉がありますが、私はとうていできません。そして、そのもったいないこと捨てられないことがあなたと言っているので、長い月日にできている相手との関係性や深い情を強く感じます。そして、反対に作者が縫い止める針と言っていることが、とても冷静で客感性も感じる魅力的な句です。
北風か山もうずくまる 森 直弥
北風が吹きはじめ冬到来を感じたのでしょう。山もうずくまってしまうぐらいに感じた作者の表現がユニークでもあり、繊細さを感じました。山がうずくまるという表現は作者のオリジナルティーのある句! だと思いました。
手帳書くこともなく一年過ぎた 安達千栄子
手帳を書く暇もなく一年が過ぎることもあるでしょうが、作者は書くこともなくと言っているので、書く必要もなくと言っているのでしょう。私は忙しくても手帳を書かないで日が経つ場合もありますが、しかし、この句の場合は違うと思います。でも無事に一年が過ぎたことに安堵されているのでしょう。ご自身を客観的に見つめている冷静さを感じます。
夫婦喧嘩お箸とお椀とお正月 平林 吉明
お正月から夫婦喧嘩やってしまったのですね。お箸とお椀は散らばっているイメージもありますが、お椀とお箸が正月用の朱塗りのものが、きちっと並んでいるイメージもあります。私は後者の方がより夫婦喧嘩の心情を表していて、作者も喧嘩をした後にきちんと並ぶお箸とお椀を見つめている様子が伝わります。滑稽さもありますが日常の一ページがより鮮明な句です。
今回選んだ句は、日常の何気ないことを気づいて自分の気持ちを上手く取り入れている句と、ネガティブな言葉や感情をただ悲しさや辛さに引っ張られることなく、冷静に自分を見つめて立ち上がるための希望を予感させてくれる句を選びました。どの句も作者の感情に触れることのできる句です。
原 鈴子 選
ぽっかりと陽の差す言葉もある 加藤 晴正
「ぽっかり」とオノマトペ、「陽の差す言葉」あったかく、どちらも詩的でそういう言葉があふれたなら、どんなに居心地のいい空間であろう。「・・・もある」は希望である。なかなか難しいがそういう感じる心の持ち合わせに惹かれた。
発熱止まず真夜中海に浮かびおり 岩渕 幸弘
熱にうなされて夢か現か、その状態を「海に浮かびおり」、まさに言い得て妙、的確なことばである、よく見つけたフレーズと思えた。
煮込んでおかず後悔に形はない 大川 崇譜
後悔、言ってしまったことは元には戻らない。もし、もとに戻したいならどんな努力も惜しまないでほしい。
後悔の形に何か見つかるかもしれない。悲しいことに形は見つからないかもしれない。でも努力の形はみつかるのではないか。
散文的だが、ありったけ散らす、悲しみと痛みを表現するに充分のことばである。ありったけのことは並大抵ではない。重い意味がある。
じっと合掌一人取り残される 河合 さち
能登半島のことを祈れば、「どうか・・・」と思う気持ちがあふれる。一心に祈るうちにだれもいなくなってしまった。状態をそのまま言ったことであるが、祈りの深さ、災害の悲惨さ、不自由な生活を送っている人を思っての句である。祈りは長くなってしまった。
何もしない何もできない大晦日 空 心 菜
滑稽を含む句でつい、にやりとしてしまった。諧謔性も俳句の要素ではある。主婦にとっては猫の手も借りたいほど忙しい大晦日であるが、それを見ている側の気持ちには何か手伝いたいけど、というやさしさを持ちながら出来ない、だからしない。典型的な日本の男性、ある程度の歳を重ねた夫の姿が見える。こういうほっこりさは、だんだん過去のものとなってきているが。
海はただ泣いていた 杉本由紀子
時に見せてくれる彼女らしい短律である。能登半島のことを言っているのは明白。ただ泣いていた。災害にあった人々の嘆きである。切ないほど感じてくる。
各駅停車の冬に乗る 平林 吉明
冬に乗る、冬の厳しさとそれに甘んじて、乗るのは各駅停車、急ぐことはない。しばらくはゆっくりと行く。
覚悟を持って冬の厳しさに向かっていく精神力が感じられる。
神童と呼ばれし父を風呂に入れる 松田 寛生
神童モーツァルトではなく、お父さまのこと。それほどに子供のころから賢いお父様が、年老いていく様をこのような句に。人間とはこんなものであり、生きて必ず死んでゆく、その過程はそれぞれだが、通っていく道である。どんなに立派でも永久にと言うことはない。
でもそのお父様を風呂に入れている現実がある。
止まり木なくば肩を貸します元日の鳥 森 命
元日の鳥に肩を貸そうという。やさしい友を持った鳥はしあわせだ。ちょっと一休みをしてまた止まり木を探して旅立てるだろう。
こういう句の抽象性は、何をたとえて鳥と言っているのか想像するのはワクワクする。鳥は何だろう、誰だろう。もっと大きな何か? 聞きたい。
記憶あとかたもなく裸木の整列 吉川 通子
裸木の林を歩く、夏のことを思う。落葉樹の葉の形、樹形、木陰。透けて見えるその先は夏には見えなかったもの。遮られていたものをすべて取っ払ったら裸木の整列だった。記憶にあったあの森はどこへ行ったのだろう。
枝におわりの柚子わだかまってる 石川 聡
おわりの柚子が気にかかる。わだかまっているのも気にかかる。自由律は心象の句である。心の動きを句にしている。わだかまりの溶けることを願っている。