句評-五月号作品より

         中塚 唯人選

今回は六月号句で私が分かりにくかった句を取り上げてみる。なかには句会などで謎解きを終えているものもあるかとは思われるが、そういった句を他の人にどう読まれたかも作者としても知りたいところと思われるので、多少厳しい言葉も交えながら述べてみたい。

良くも悪くも雨              無   一

短律句の良さは読むものの想像力を掻き立てることだ。 それだからこそ理解力に多様性を持つことで作者の思いが正確に伝わらずに、読者に作者の手から離れた一句を創作されてしまうことがある。評者もくどくどとまるで見てきたような御託を並べ、本来の句意から離れたそれを、理論武装させるための長文を読まされることがある。評する人が自分の読み方に酔っているようなものよりは、核心をズパッと突いた俳句と同じ様な短くて外連味のない評を読みたいと思う

 さて掲句であるが、余りにも想像の範疇が広すぎて、句が絞り込めない気がする。私は力不足で読み切れない句でも自分なりに難解な句でも読み切りたいと常に思っている。

 以前に吉明君の句評で最近好評のファジーな句を提示してみた。私自身はそういった傾向の句はあまり好まないがそれならやって来ようと、第三十回自由律俳句フォーラムで試みてみた。いわば挑戦だ。

ポッケから淋しい手は出さないでおく

である。思惑通りこの句は、いろいろな読み方をされ? 十一名の賛成者を得て準優勝となった。そのなかでも同人の加藤晴正さんが、「作者の生き方を感じました。決してくじけない心」と私の意図を完璧に読み取ってくれた。ただし特選者は二名で、その点が弱点であることも重々感じたが、こういった結社を超えたいろいろな方のご意見を聞きたかったものだ。

罪嗤う警察前の脚立           大川 崇譜

 これは六月号の句ではあるが解らないなりにおもしろい句と思う。

状況としては警察署の前でたぶん容疑者が護送されてから暫くたった後であろう。そこでは一時の喧噪が終わり、取材に来た新聞記者が犯人を撮影するために使用した脚立が、まるで犯人あざ笑うように取り残されていると言ったところか。

 これは二十字ぐらい文字の語りから読み解いた私の勝手な評である。つまりこの句は「罪」と「警察」それと「脚立」のいわば落語の三題話であると思われる。難を言えば警察と脚立の関連性が若干弱く、その相関関係が希薄というところか。

 もちろん自解は無用である。それをやられると私の頭をひねった推理は崩壊する。

ムラサキハナナ初恋のつねくり魔もうさぎどし 大迫 秀雪

 長律句はむしろ私の好むところだが、それは無駄な言葉がなく字数は多くてもそれが長いと感じさせないような句の場合である。

 私の好きな河東碧梧桐の長律句をあげておく。

散らばつてゐる雲の白さの冬はもう来る
髪梳き上げた許りの浴衣で横になつてゐるのを見まい

 二句目はこれが俳句かと言われそうな長さだが、それではどこをどう削ればよいのか。「許り」を省くか、そうなると湯上がりの清新さが失われる。次に「横になつてゐる」を「臥す」にするとなると、ご婦人の湯上がりに休んでいる上品な艶っぽさがなくなるのである。形式にとらわれず自由に作っているから、出来る句であり、定型から踏み出し、こういう句が生まれ出てきたことこそ自然な現象なのであり私は今こういった句に挑戦している。

 それに対してこの句はなにが言いたいのかさっぱり解らない。進取性とか革新性を言うならば、それが解る句を作ってほしい。もし自由律俳句に初めて興味を持った人にはこの句は解らないと言って読み飛ばすであろう。しかし社主である私は理解につとめたい。ただしその暇と労力はもうないので読み飛ばさせていただく。

パンケーキ歪曲線上点LOとVの言い訳  岩渕 幸弘

 理解に苦しみます。この句をどれくらい人が理解できるのか。先ずは一句が生まれ出るにはそれなりの理由があるわけだ。次にそれをどう表現し伝えるかで、それがどう読者に伝わったかを検証すべきと思う。それが自選句なのだ。はたしてその工程が十分になされているかが理解できない。

 幸弘くんは『放哉賞』へ毎回投句している。それはいいことと思う。しかしその際の句はいつも海紅に投句してくるような句ではなく、放哉賞選者好みのやさしい句だ。私や田中耕司が昔送ったのは二句だけだ。いつもの自然体の句だ。田中耕司は二回、私は一回佳作を頂いた。そこで『放哉賞』はプロの出番ではなく自由律俳句入門の初学者に入賞は譲ってやろうよと、不遜なる私達二人は以後投稿しなかった。

                    

レンテンローズってシャイな奴さみんな下向いて  田中 耕司

 口語使用で新しい活路を見出したようであるが、肝心なことは、内容がなければいくら表現力でカバーしたとしても、一句としての価値観が上がることなく、却って粗雑な言葉遣いは作品価値を下げ、かつて中塚檀や山崎多加士、星野武夫が嘱望した田中耕司はどうしたのだろうか。同じ様な題材を手を替え品を変えただけの句があり、この趣向は数多く見ており新味がない。形式よりも句は内容だ。楽をすることなくもう一度出直し、復活を遂げて貰いたいと思う。 

 厳しいことも書いたが昨今の海紅句の元気のなさは、各地にあった句会が少なくなくなったことに原因があると思う。同人数が少なくなったこともあるが、毎月の『近作玉什』や『巻頭句』を選らぶ事が年々苦しくなってきたのが現状だ。昔は各地に実力のある作家が幾人もいて、その人たちが海紅内で切磋琢磨しそこで学んだものを、同人たちにそれぞれの句会で還元したものだ。褒めるだけではなく句会は道場として責任を持つがゆえに厳しい言葉も飛び出す。それをいかに受け止め次の作品に生かすか、また疑問やそれに対する自分の考えはその場で述べ解決する。そのために指導者的立場にある人は答えを一つだけではなく柔軟に二つ以上持つことが大事だ。そして句会が終われば笑って別れてゆく度量も必要と思う。そんな句会が復活するにはどうしたらよいか考えるべき時が来ていると思う。

          平林 吉明選

点々と染み残る着物のおはなし      原 鈴子

 着古して染みの残る着物は、その人の分身のようであり、一つ一つの染みはそれぞれに思い出や人生を物語っています。捨てようとしても捨てることが出来ず、楽しかったり、悲しかったりした過去を「おはなし」のひと言で端的に表現しています。

さくら菜の花幸三さんのくれた墨を磨る  森  命

 最近は海紅への投句をお休みしている湯原幸三さんを思い出し、幸三さんから戴いた墨を磨る命さんの思いが溢れています。「さくら菜の花」に象徴されるような幸三さんの明るく穏やかな人柄まで想起されます。

部屋の隅に冬が隠れている       安達 千栄子

 季節はいろいろなところに隠れています。それを見付 けるのが句作の楽しみであり俳人の眼差しです。厳しい 寒さの真冬ではなく、春が近くなってもまだ部屋の片隅 にひっそりと隠れているような小さな冬を感じました。

土筆たんぽぽ菫あの子卒園す      伊藤 三枝

 土筆とタンポポと菫と卒園してゆくあの子を同列に並べることにより、卒園式の日の情景や心情が見事に描かれています。卒園してゆく子に託す未来の夢、希望に膨らむ温かいエールとなっています

諍い「お刺身半額!」和解       さいとうこう

 若い夫婦の会話を簡潔に切り取っています。夕飯のおかずを夫婦で買いに出掛けましたが、意見が合わずあれこれ迷っているところに「お刺身半額」のポップを見付け、二人の意見は即座に一致しました。このようなデジタルな切り口の句を抵抗なく受け入れる自由律の懐の深さに新しい俳句を作り出す可能性を感じました。

ブランコの子等を夕陽がながめている  清水 伸子

「夕陽をながめている」のではなく、「夕陽がながめている」の視点の逆転が夕暮れの情景に陰影を与え子供たちの動きが映像となって生き生きと浮かび上がります。そこには子等を眺める作者の温かい眼差しがあります。

春の海のんびりずれていくリズム    杉本 由紀子

 一読して与謝蕪村の「春の海終日のたりのたりかな」が浮かびました。両者に共通しているのは俳人の目と画家の目を持っている事です。由紀子さんが蕪村の句を意識して作ったとは思いませんが、三百年以上たっていても画家であり俳人である両者の目に映る穏やかな春の海は同じように見えているのでしょう。

画廊の椅子は丸いけど傷だらけ     空 心 菜

 空心菜さんは画家であり画廊の雰囲気を良く知っている方です。画廊を訪れる多くの人が腰を下ろす椅子は古くなり傷だらけになっています。それは現実の描写ですが、心象句として読むと画廊を訪れた人から作品に対しする厳しい意見を聞かされ、その意見に真摯に耳を傾けますが、心中は傷だらけになって落ち込んでいる作家の心情と丸い椅子がオーバーラップしています。

アスパラガスのペン先は今月号のわたし 大川 崇譜

 俳句は作者の伝えようとする感情や句意に共感し思いの一致を見付ける楽しさもありますが、作者の無意識の内にある混沌とした思いを紐解く楽しさもあります。その場合読み手は句の印象を頼りに自分の意識を膨らませ言葉の意味に縛られない自由な発想の解釈を楽しみます。「今月号のわたし」とは自分の置かれている状況や体調、精神状態であり、社会に組み込まれていても「わたし」は、「アスパラガスのペン先」自由に生きて自己主張する新鮮なアスパラガスのように世の中と対峙する。現代に生きている作者の輝きを感じました。

泣いても春              松田 慶一

 自由律句に於いて言葉の意味から逃れ、言葉の韻律をつきつめると短率句になる傾向があります。そこには言葉の意味を引き摺らない自由な解釈が許されますが、作者の意図とは違った世界に鑑賞されてしまう事もあります。解釈を潔く読み手に委ね、投げ出された言葉そのものを味わってもらうことは、作者の人生を味わうことにもなります。この句をもっと突き詰めてゆくなら、助詞の「も」まで外し「泣いて春」としても宜しいのではないかと思いました。

加藤晴正さんの句を読んで   平林 吉明

 海紅五月号、加藤晴正さんの作品は病に倒れた母への思いに溢れ、深い感動と共に共感を覚える出色の七句でした。現実と幻想が見事に重なり合うリアリズムとシュールレアリスム。強烈な不安感と恐怖心の織り混ざった七句に対して感想を書かせて頂くことにしました。

 お母様が病に倒れるという辛い現実は、作者の日常の印象からは窺い知ることの出来ない、作者が内包しているあらゆる感情と人間としての尊厳が無意識の内に噴出しています。しかし作者のその現況から直接イメージするのではなく、作者の今置かれている現実の背景とは切り離し、その状況を考慮することなく、晴正さんとは無関係な句として俯瞰した句評を試みました。

戻れない所に痛みの雨が落ちる

「戻れない所」とは、もう二度と戻ることの出来ない命の塒か、具体的な場所を示さないことにより、現実に存在している場所なのか、心の中に存在する精神の置き所なのか、両方が想起され不思議な詩情が生まれています。「痛みの雨」にしても同じようなことが言えます。肉体の耐えかねるような苦痛に襲われること、耐えがたい苦しみの状況から逃れられないという、作者の心の中に降りしきる喩えとしての雨にも読めます。何れにしても人間の苦しみの現実と幻想が重なり合い、詩として見事に昇華されています。

赤信号むしって投げてタクシー急ぐ

 タクシーに乗って何処かへ急いでいる時に限って赤信号に引っ掛かります。そのイライラした心境、居てもたってもいられず赤信号を無視して早く走ってくれと叫びたくなるような歯がゆい心境が「むしって投げて」と直情的に表現されています。

酸素マスクの向こうで生きるを選んだ

「生きるを選んだ」のは病人自身なのか、それとも病人を見守る家族の選択なのか、既に酸素マスク無しでは生きることの出来なくなった病人から、それでも尚、生きようとしている強い意志が感じられたのでしょうか、それは紛れもなく生きることを選択した病人自身とその病人を見守る御家族の強い願望の表れです。

第七病棟迷路にぼんやり落ちる点滴

「第七病棟」から連想するのは昔からある大病院、第七病棟の廊下はまるで迷路のようであり、そこを行き交う患者も医療従事者も病の迷路に迷い込んでいるように思えます。様々な感情が交差する古い大病院のうす暗い廊下、そこには無機的に落ちつづける点滴の滴りだけが朦朧として現実の時間を刻んでいます。

誰も知らない停留所バスは消えまたバスが来る

 これほどまでに不安を掻き立てる句を読んだことはありません。「誰も知らない停留所」とは行き先の不明な停留所なのか、誰もその存在を知らない停留所なのか、それとも黄泉の国へ旅立つ為の停留所なのか、そこに佇むバス待ちの乗客の姿は死者の様でもあり、次から次へと不安を抱えた乗客達を乗せて消えてゆくバスは現実から幻想の世界へと走り出して行きます。

言葉を失って手が握りしめる

 話しをすることも出来ないほど無力な人間、それでも何かを伝えようとする意志が人間の温もりとして手から伝わってきます。それは感謝の思いなのか、生きることへの願いなのか、言葉を失って初めて伝わる人間同士の本来の関わり合い。その関係を育むは直接手を握り締める事から始まるのかも知れません。

見る前の怖さ焼酎飲んで行く

 人間は本来臆病な生き物です。弱い人間は過酷な現実を直視することに耐えきれず、その不安を払拭するために酒を煽ります。恐ろしい現実を伝えられ、狼狽えつつもその現実を確認しに行かなければならない恐ろしさ、焼酎が焼け付くように喉にしみわたります。

 この句評を書いた数日後、晴正さんより御母堂様の訃報が届きました。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。