寄稿万華鏡1

【句評-二月号作品より】
                                              梶原 由紀選
  どなたも手袋している今朝のラジオ体操   院瀬見美登里
 皆が手袋をつけている光景を切り取ることで、寒い朝を見事に表しています。「今朝」ということからラジオ体操はいつも行っているのでしょう。日常の些細な変化をよく捉えている句です。
  富士山角度が変わるとぶすに見え      千田 光子
 富士山を称える句は幾度となく見ましたが、「ぶす」とストレートに言い切った句は初めて見ました。「角度が変わると」ですから、美しい富士山も作者は知っているはずです。先入観を取り払った素直な発見が、句にリアリティを与えています。
  初霜に那須の山々色温し          高橋  毅
 寒い景から暖色を見出したことに、恐れ入りました。山の色合いは紅葉の色合いでしょうか。一句に寒暖の対比をもたらすことで、霜の冷たさや山の豊かな色合いが引き立ってきます。発想と写生が見事に調和した句です。 

  おしろいばな名前負けどこにもあるもんな  田中 耕司
 おしろいばなから「名前負け」を見出したことに、お見事と言いたくなります。おしろいばなそのものも充分に美しい花ですが、「白粉花」とまで言ってしまうと素朴な姿にそぐわないかもしれません。なお、調べてみたところおしろいばなの異名に「夕化粧」「金化粧」「銀化粧」といったものがあるそうです。
                                             
  胸のボタンちぐはぐです平気な爺さん天高し  森川 チヤ
 左右のボタンの違和感に天の高さを見出す、この発想に驚きました。ポケットの高さが違うのでしょうか、あるいは色や容れているものがそぐわないのでしょうか。いずれにしても「ちぐはぐ」のはみ出した様子やそれを受け入れる姿勢に、スケールの大きさが出ています。天の高さに説得力のある句です。 

                                                  平林 吉明選
   深夜の国道足が横切っていく        岡原 舎利
 足を見ている視線の位置が低くぶっきらぼな言葉使いが、まるでモノクロームの映像を見ている様な思いがします。真っ暗な国道を横切る女性の白い足の肉感的な姿が浮かび上がってきて、足に合わせたローアングルのピントに力強い動きを感じました。 

  坂のある街きみのパパに嫌われている    村井  洲
 坂のある街で起こった些細な出来事なのか、修復不可能な程の決定的な事件なのか、きみのパパときみのパパに嫌われてしまった作者との間にどのようなドラマが有ったのか、それとも坂のあるこの街そのものが君のパパに嫌われているのか判断がつきません。しかしこの街での様々な出来事や様々な思いに駆られている作者やそこに登場する「きみのパパ」がユーモラスに描かれていて楽しいです。 

  又さそってね元気にしていますから     岩谷 照子
 楽しかった気持ちが前面に押し出されていて純朴な温かさが伝わります。ある日のひと時が宝物の様に何ものにも替え難い大切な時間として、明日への生きる希望の言葉となり約束となって繫がってゆくように思えます。 

  椿ちる波紋ゆれて鴨の番          小山 君子
 無駄のない単純化された構図の日本画を見ているような静謐で落ち着いた色彩を感じます。様式的ではありますが「鴨の番」が自己投影の様な気もします。ベテランらしい完成度を感じさせます。 

  たしかに歩幅狭くなり更地草の伸びよう   渥美 ふみ
 自分の心身の内も外もよく見つめていて年齢を重ねてゆく感慨を上手に言葉にしています。更地の荒れた様子が人生の悲哀を感じさせ重みが有ります。 

  眼科医泳ぐ熱帯魚追うだけの待ち時間    渥美ゆかり
 眼科の待合室で水槽の熱帯魚を見ているうちに作者の視線が水槽の中に入り込んで熱帯魚の後を追いかけている穏やかで手持ち無沙汰な時間の流れが不思議に思え、作者の退屈そうな姿がよく現れています。

                                    
                                                                                                       森  命選   
        痛み夏がすぎ秋がすぎ冬にまできた     渥美ゆかり
 夏・秋・冬と三ツの季節を入れた句は初めて見た。けっこう響きの良いものであります。ただ痛みが主体なのは気にかかります。軽い痛みではないと思えます。それだからベテラン作者が、こう詠まれたのだろう。辛い思いが伝わる。春には痛みが癒えたという句を待ち望みます。 

  よしずの長さ庭木にあわせて冬囲い     伊藤 角子
 おもしろいと言ったら、北国の人に叱られてしまいそうです。夏のよしずを、冬に再利用、夏は横に使い、冬は縦に使う。四尺のも一間のも、庭木に合わせると言う。この句に合うまでこの発想はなかった。その地にはその地に合った知恵がある事を改めて教わった。 日本列島万歳の句であります。句にすることで生活の模様が高揚します。どんどん詠んでいきたい句の形です。 

  スーパームーン十八年先などケセラセラ   上塚 功子
 この秋スーパームーンがマスコミを通じクローズアップされた。当日は雲に隠されたところが多かったが、もともとスーパームーンなるものは最近言われたことで、私達は無名のスーパームーンに何度か会っていた訳である。今さら十八年先に期待するのは野暮。「ケセラセラ」こそ、私達が少し昔に聴いて唄った、ありがたいお言葉である。 

  七五三だからおしとやかって赤いスニーカー 田中 耕司
 句作五十余年の作者が、今までになかった子供を詠む句が多くなった。正直少し物足りない感じがしていた。年齢のせいではない。ニフティ句会が出来た頃は、全く新しい句を連発してきた人である。若い俳人と刺激し合ってきた第一人者であり平成の試作者である。子供の句も、自由自存の句を目にしていく序奏かと思えてきた。 

  A面すり切れるまで針おとす音       平林 吉明
 今、レコードに再び魅力を感じているのは作者だけではない。かくいう私も少し作者とは違うがレコード音楽を聴くためにCD化している。思い出ではなく久しぶりに聴くあの音が心地よい。デジタルに消されてしまったアナログだが、逆に若い人にも好かれている。ただ句にあるように手間がかかる。熟年にはこんな手間も楽しい。そして、B面にも良い曲があるのがレコードの楽しみである。
 
                                                                                                      田中 耕司選

  ちょっぴりユーモアを垂らしたブラックコーヒー                                                             
                       小山 智庸
 新年号の作品を読んでいた時、この作品に出合った。この作品にある感覚は、私が長い間求め続けて手がとどかない軽味というものだと思う。利三郎師や武夫師の作品に感じたのと同じ感覚を感じていた。やさしい言葉で、何も飾らず、何の力みもなく、ごく普通の生活から生まれてくるこのような作品こそが、求められているのだ。 

  痛み夏がすぎ秋がすぎ冬にまできた     渥美ゆかり
 何の痛みかは分からないが、人間ある年齢になればどこかしら痛みを持っている。その痛みとうまく付き合って、夏から秋、そして冬まできた、痛みを感じているのだから生きている証拠だともいえる。智庸作品とは違う形で軽味を感じさせている。この感覚をうらやましく感じている、そしてこの感覚を身に着けたいと思っている。 

  さざんかさざんかこぼれてこがらし     若木はるか
 漢字を使わずに、すべて仮名で作られている。作者の意欲が見えてくるようだ。智庸、ゆかり作品にはない若さがここにはある。色々と試してみるのも句作のために必要だと思う。そして、たくさん失敗を繰り返して、自分のスタイルを形作っていく。この先にはきっと、新しい自分の世界が見えてくるのだと思う。 

  雪が看板の傷さらりと癒す         菅原 瓔子
 雪の少ない土地に暮らす私などには良く解らないのだが、雪に癒される傷というのはどんなものなのか、この謎解きが一句に対する考え方を問われているのかもしれない。登紀夫氏が雪の厳しさを言われていた時実感のない私にはよく理解できなかったのだが、日々この厄介な雪と対峙しなければならない暮しの大変さを感じている。 

  素寒貧とは言わないが本日木枯らし一号   中塚 唯人
 日本語には季節ごとに色々な言葉がある、木枯らし一号もそういう言葉の一つでいかにも冬を迎える季節の到来を予感させている。でも、この木枯らし一号を、春一番に置き換えたとしても通用するのではないかという疑問が生じる。一碧楼の橋を渡るの一句のように動かせない一句に仕上げなければならない。そこがつらいのだ。