寄稿万華鏡1

碧梧桐全集(一)      海紅文庫 海紅編集部編

 今回より2015年に海紅文庫」から発刊しました、電子書籍版「碧梧桐全集」をすべてそのままの形ではありませんが、少しずつ海紅誌に掲載したいと思います。
先ずはなぜこの句集を作ったかを全集の「あとがき」から引用します。
「河東碧梧桐という名前は誰でもどこかで聞いたことがありましょう。もちろん俳人としてだけでなくジャーナリスト、旅行家、書家、能楽師など多方面でその才能を発揮した人です。その代表句の二、三は聞いたことがあるとしても、碧梧桐が俳句の世界にどんな偉大な足跡を残したか、放哉や山頭火の知名度に比して、その業績や句の認知度は圧倒的に劣っていることも事実です。
それは何故かと考察しますと、まず碧梧桐は生涯に一万五千から二万句を作ったと言われています。さすがにここまで来ると、碧梧桐の作品といえども玉石混淆と言わざるを得なく、これをすべて並べられて読破しようとすることは至難の業です。第一に時代が違いすぎ、当時の風俗や言葉自体も理解しがたいのが実態です。そこでこれらの句をもう一度現代人の目で光を当て、自分たちの眼で読み直す必要があるのです。先ずは時代に即さないものは用語を含め解説を加え、特に碧梧桐自身の俳人生活を含めた生き様を知っていただくことから始める必要があります。さらに碧梧桐句の変遷、むしろ俳句の革新の歴史という方が正しいと思いますが、それを知っていただくためにこの句集を作りました。
そして碧梧桐句を読み解くには年譜と照らし合わせ読むことがキーワードと申し上げておきます。むしろ年譜を先に読むのが碧梧桐を理解する近道かも知れません。
しかし、あえてこの句集には碧梧桐の紹介文は載せません。それは巻頭の瀧井孝作の「定型と自由律―河東碧梧桐の作品について」を読んでいただければ下手な解説は蛇足になることがお解りになると思います。
後年の碧梧桐の評価は様々で、ほとんどはその俳句人生を失敗と位置づけています。それは晩年にルビ俳句に進み、その難解さがまるでこれまでの俳句をぶち毀した異端者の如く、そのことだけをことさら取りあげ、それまでに碧梧桐の残したすべての功績を消し去っているのです。端的に高浜虚子は商人で碧梧桐は書生だと言う人もいます。そこには俳句に対して碧梧桐は余りにも探究心が深く、革新的で、求道者的で、誰も認めず同調するものがいなくとも、己だけでも俳句の文学性を高め、信じる道を押し進むという姿が、他の人を寄せ付けない孤高の人、尊厳に満ちた独善家であるかのように作り上げ、その努力を惜しみ従来の俳句の世界に人たちに安穏としていた人たちは、碧梧桐を敗者と決めつけて自分たちの地位を守ることに専念しなければならなかったのです。
唯一の正当な評価と言えるのが巻頭にあげた瀧井孝作です。瀧井孝作は大正四年に碧梧桐が創刊した、俳句誌『海紅』の編集を任された中塚一碧楼を五年あまり助け、常に間近で碧梧桐を見ていた人だからです。瀧井孝作は碧梧桐の俳句革新の道、その苦難に満ちた道程を正確に捉えています。結果だけを垣間見てそこから逆算して評を下している、にわか碧梧桐評者とは違うのです。巻頭をじっくり読めば明白になることと思います。
また一個人としては人間味溢れる淋しがり屋であったことが、晩年の河東家で娘のように可愛がられた、岡本百合子さんの「碧梧桐の思い出」を読み、「人間碧梧桐」を知っていただけたら思います。
そしてこの句集を読み終えた時に、ご自身で新たに碧梧桐を評価していただけたらと念じ、「あとがき」とさせていただきます。      中塚 唯人

 先ずは滝井孝作氏の紹介です。

滝井孝作
(参考文献『瀧井孝作書誌』、『瀧井孝作全集別巻』)

岐阜県大野郡高山町馬場通(現在の高山市大門町)に、新三郎 ・ ゆきの次男として生まれた。
1900年(明治33年)六歳、高山尋常小学校へ入学。1906年、母ゆき没。町の魚問屋に丁稚奉公し、1908年、店の隣りの青年に俳句を教わった。
1909年、全国俳句行脚で来た河東碧梧桐に認められ、句誌への投稿を始めた。号は『折柴』(読みは初めは『おりしば』であったが、碧梧桐の勧めで『せっさい』と読ませるよう改めた)。
1913年には最初の小説『息』を投稿し、荻原井泉水にも認められた。
1914年(大正3年)20歳、東京市神田区(現在の千代田区内)の特許事務所へ転じ、碧梧桐、中塚一碧楼、大須賀乙字らと句作し、小説『夜の鳥』を新聞連載した。1915年碧梧桐が創めた句誌『海紅』の編集を手伝う。1917年から碧梧桐・中村不折らの六朝書道研究誌『竜眠』の編集に当たり、この書道と、碧梧桐の影響下に鑑賞した能を文学の糧とした
1922年、志賀直哉に誘われ、志賀の住む我孫子へ移った。家族のように扱われ、毎日の夕食に招かれるほどであった。
1923年(大正12年)29歳、志賀の引っ越しを追って、京都へ移った。
1925年(大正14年)31歳、志賀を追って、奈良へ移った。京都、奈良では、寺社・博物館・古式の年中行事などから、古典文学を学んだ。
1927年、芥川の葬儀に上京した。『無限抱擁』を出版した。
1937年、河東碧梧桐没。この年まで『海紅』誌への寄稿を続けた。
1959年(昭和34年)65歳、日本芸術院会員となった。
1961年、編纂に当たった『小沢碧童句集』が読売文学賞を受けた。
1969年(昭和44年)74歳、短篇集『野趣』が、読売文学賞を受けた。
1969年、勲三等瑞宝章を受けた。長編『俳人仲間』に着手した。
1973年、『志賀直哉全集』の編集委員になった。『俳人仲間』を上梓し、翌年度の日本文学大賞を受けた。
1974年 80歳、文化功労者に推された。
1975年、勲二等瑞宝章を受けた。八王子市の名誉市民に推された。
1984年(昭和59年)90歳、11月21日、急性腎不全より八王子市の病院で死。

参考資料
・中央公論社「日本の詩歌」
・昭和女子大学「近代文学研究叢書第四十一巻」
・現代日本文學大系「高浜虚子・河東碧梧桐集」
・正津勉「忘れられた俳人、河東碧梧桐」
・阿部喜三男「河東碧梧桐」
・短詩人連盟「河東碧梧桐全集」
・喜谷六花編「碧梧桐句集」
・栗田靖「碧梧桐俳句集」
・来空文庫「甦る碧梧桐」
・監修・瀧井孝作、編集
・栗田靖「碧梧桐全句集」
・岡本百合子「海紅同人句録」
・瓜生鐵二『ルビ俳句ールビ俳句のことー碧梧桐・直得を中心に』(富士見書房『俳句
研究』平成五年二月)

※なおの句集には日野百草氏の多大なる編集のご尽力頂きましたことを改めて御礼申し上げます。